「年収◯◯万だったら幸せ」みたいな話にウンザリしてる件

TakebePAUI4780 TP V 生き方・考え方

——条件付きの幸せ論から降りた先にあったもの——

「年収1000万超えました!」「マイホーム購入しました!」「起業して自由な働き方してます!」「素敵なパートナーと出会えました!」

インスタやXを見てると、こんな投稿ばかり目に入ってきませんか?

しかも決まって「努力すれば誰でも叶う」「行動すれば変わる」みたいなメッセージ付きで。

最初は「すごいなー、頑張ってるなー」って素直に思ってたんです。でも最近、なんだかこの**「◯◯だったら幸せ」**っていう前提そのものに、すごく違和感を感じるようになってきました。

だって、幸せって本当にそんなに「条件付き」のものなんでしょうか?

まるでゲームのクリア条件みたいに「これを達成したらハッピーエンド!」って決まってるものなの?

僕だって一時期は「もっと稼げたらなー」「もっといい部屋に住めたらなー」って普通に思ってました。でも、なんかその考え方自体に疲れちゃったんですよね。

走ってるのに、ゴールが遠ざかっていくマラソンみたいな感じ。いや、マラソンには少なくともゴールがあるからまだマシか。

「成功してない側」扱いされる気持ち悪さ

特に嫌なのが、その「理想の人生」から外れた人を、なんとなく**「かわいそうな人」**として見る空気です。

例えば、婚活系のYouTuberが「年収400万以下の男性は論外」みたいなことを平気で言ったり、起業系インフルエンサーが「サラリーマンは社畜」って言ったり。まるで人生にランキングがあって、上位の人だけが「勝ち組」みたいな。

この前、大学時代の友人と飲んだ時のことです。

その子は看護師をしてるんですが、「私なんて普通の仕事してるから」って自分を下げる発言をするんです。でも、その子は患者さんのことを本当に大切にしてて、いつも一生懸命で、僕から見たらすごく立派なのに。

なんで「起業してない」「年収高くない」「有名じゃない」ってだけで、自分を価値の低い人間だと思わなきゃいけないんでしょうか?

この**「成功の物差し」**って、いったい誰が決めたんだろうって思います。

何も達成してない自分への劣等感

正直に言うと、僕も特別な成功者ではありません。

特に誇れる肩書きもないし、高級車に乗ってるわけでもないし、タワマンに住んでるわけでもない。普通に仕事して、休日はゴロゴロしてることも多い。

だからこそ、SNSで「成功者の日常」みたいな投稿を見ると、無意識に自分を減点してしまいそうになるんです。「まだ足りない」「まだ未完成」「もっと頑張らなきゃ」って。

特にしんどいのが、夜中にベッドで**「今日何も生産的なことしなかったなー」**って考える時間。

スマホでX見てたら、同世代の人が「今月の売上◯◯万超えました!」とか投稿してて、「あー、自分は何やってるんだろ」って落ち込んじゃう。

でも、この感覚自体がおかしいんじゃないかって最近思うようになったんです。

だって冷静に考えてみてください。今日一日、誰にも迷惑かけず、ちゃんとご飯食べて、ちゃんと生きた。それって別に「何も達成してない」わけじゃないですよね?

……まあ、頭ではそう思えても、胸のあたりがモヤッとするのが厄介なんですけど。

深夜のコンビニで泣きそうになった話

ある日の仕事終わり、ちょっと嫌なことがあって、帰り道にコンビニに寄ったんです。

「あー、もっと稼げる仕事に就いてたら、こんなストレス感じなくて済むのかなー」なんて考えながら、いつもの弁当コーナーをウロウロしてて。

で、レジに並んだら、前に並んでたおばあちゃんが小銭を落としちゃって。僕がしゃがんで拾ってあげたら、そのおばあちゃんが「あら、ありがとうね。優しい子ね」って、すごく嬉しそうに笑ってくれたんです。

たったそれだけのことなのに、なんか胸がギュッとなって。

コンビニを出て、弁当の袋をぶら下げながら歩いてる時、ふと気づいたんです。さっきまでのモヤモヤが、ちょっとだけ軽くなってるって。

年収がいくらかとか、出世してるかとか、SNSでバズってるかとか、おばあちゃんにとっては全然関係なかった。ただ「小銭を拾ってくれた人」として、まっすぐに感謝してくれた。

その瞬間の嬉しさって、なんだろう。条件とか肩書きとか一切関係なくて、ただ「ちょっと親切にした自分」と「ちょっと喜んでくれた誰か」がいただけ。

……いや、コンビニで泣きそうになってる20代後半の男、絵面としてはかなりヤバいんですけどね。

コンビニ弁当でも幸せは見つかる説

それから、日常の中の小さな幸せに意識が向くようになりました。

例えば、疲れて帰ってきた日にコンビニで好きなお弁当を買って、家でビールと一緒に食べる時間。

インスタだったら「手料理でおもてなし♡」「高級レストランでディナー」みたいな投稿が「映える幸せ」なんでしょうが、正直、疲れた日のコンビニ弁当の方が僕には幸せだったりします。

あとは、休日の昼間にソファでゴロゴロしながらNetflixを見てる時間とか。何の生産性もないけど、すごく穏やかで満足感がある。

こういう時間って、誰かに見せるものじゃないし、SNSに投稿するようなことでもない。でも確実に「幸せ」を感じる瞬間なんですよね。

むしろ、誰にも見せないからこそ本物なんじゃないかって、最近は思うようになりました。

「映える幸せ」って、もしかしたら「見せるため」に作られた幸せであって、感じるための幸せとはちょっと違うのかもしれない。

……とか言いつつ、僕も昨日コンビニスイーツの写真を撮ってたので、あんまり偉そうなことは言えません。人間、そんなもんです。

金曜の夜、後輩に言われた一言

もう一つ、最近印象に残ったことがあります。

金曜日の夜、会社の後輩と二人で安い居酒屋に行った時のことです。仕事の愚痴をひとしきり言い合って、3杯目のハイボールあたりで、後輩がポツリと言ったんです。

**「先輩って、なんか楽しそうですよね。特別なことしてないのに」**って。

正直、最初は褒められてるのかディスられてるのか分からなくて(笑)。でも後輩は続けてこう言いました。

「俺、毎日SNSで副業の情報とか見て焦ってるんすけど、先輩見てると、別にそんなに焦らなくてもいいのかなって思うんすよね」

いやいや、僕だって焦ってるよ、とは思ったんです。でも同時に、自分が無意識のうちに「条件付きの幸せレース」から少し離れた場所に来てたのかもしれない、とも思いました。

別に悟ったわけじゃないんです。ただ、疲れたから降りた。それだけ。

でも、降りた場所から見える景色が、意外と悪くなかったってだけの話です。

母親の「普通でいいのよ」という言葉

実家に帰った時、母親と話していて印象的だった出来事があります。

僕が「もっと頑張らないとなー」みたいなことを言った時、母親が**「別に無理しなくていいのよ。健康で、まじめに働いて、優しい人でいてくれれば、それで十分幸せよ」**って言ってくれたんです。

その時、ハッとしました。

親にとっての「子どもの幸せ」って、年収がいくらかとか、有名になることとか、そういうことじゃないんだって。ただ健康で、笑顔でいてくれることが一番なんだって。

でも、なぜか社会に出ると「それじゃダメ」「もっと上を目指せ」みたいなプレッシャーを感じてしまう。

いつから**「普通」**がこんなに価値の低いものになってしまったんでしょうね。

母親の言葉を聞いた時、僕は「ああ、この人にとって僕は、年収がいくらでも、肩書きが何でも、”十分”なんだ」って思えたんです。

で、それがすごく嬉しかった。

条件をクリアしたから認められたんじゃなくて、存在そのものを肯定してもらえた感覚。これって、SNSのいいね1万個より価値があるんじゃないかなって、帰りの新幹線でぼんやり思いました。

幸せは競技じゃないと気づいた話

最近つくづく思うのは、幸せを「比較」で測り始めた瞬間に、それは別のものになってしまうということです。

年収で比べる、フォロワー数で比べる、住んでる場所で比べる、恋人のスペックで比べる。

それって、もう幸せじゃなくて**「競技」**ですよね。

誰かより上にいることで得る安心感は、誰かに抜かれた瞬間に崩れちゃう。永遠に安心できないシステムなんです。それに参加し続ける意味って、本当にあるんでしょうか。

友達と「あのラーメン屋美味しかったね」って言い合える時間も、恋人と「今日はいい天気だね」って散歩する時間も、比較の対象がない、純粋な満足感だと思うんです。

隣のテーブルの人がもっと高いラーメン食べてたとしても、僕のラーメンの美味しさには何の影響もない。当たり前のことなんですけど、SNSの世界にいるとこの当たり前を忘れちゃうんですよね。

コロナ禍で気づいた「当たり前の幸せ」

コロナで在宅勤務になった時期がありました。

最初は「通勤しなくて良いし、ラッキー」って思ってたんですが、だんだん人と会えない辛さを感じるようになって。

その時気づいたのは、職場の同僚と**「お疲れさまでした」**って言い合うこととか、コンビニの店員さんに「ありがとうございます」って言うこととか、そういう何気ない人とのつながりが、実はすごく大切だったということ。

久しぶりに友達と居酒屋に行けるようになった時、**「普通に会えるって、こんなに嬉しいことだったんだ」**って思いました。

別に高級な料理じゃなくても、特別なイベントじゃなくても、ただ一緒にいられるだけで十分幸せ。

「◯◯だったら幸せ」じゃなくて、**「今、ここにある幸せ」**に気づく大切さを実感した出来事でした。

でもこれ、気づいたからって偉いわけじゃないんです。僕だってまた忘れると思う。また夜中にSNS見て落ち込むと思う。人間って、そういうもんなので。

「年収いくら?」って聞かれた時の話

飲み会で初対面の人に「年収いくらですか?」って聞かれたことがあるんです。合コンとかじゃなくて、普通の友達の紹介の飲み会で。

その人は悪気なく聞いてるんだと思うんですけど、僕はその瞬間、なんとも言えない居心地の悪さを感じました。

答えたところで、そこからどう話が広がるんだろう?「すごいですね」なのか「まあ普通ですね」なのか、どっちにしても、なんかそれで人間の価値が決まっちゃうような空気が嫌だったんです。

結局「普通のサラリーマンですよ」って笑ってごまかしたんですけど、帰り道にずっと考えてました。

あの質問って、「あなたはどんな人ですか?」じゃなくて「あなたはいくらの人ですか?」って聞かれてるようなものですよね。

人間に値札を貼って、それで付き合う価値があるかどうかを判断する。もちろんそういう場面もあるのかもしれないけど、僕はできれば**「年収がいくらかに関係なく面白い人」**でいたいなって思ったんです。

……まあ、面白いかどうかも怪しいんですけど。少なくとも値段で判断されるよりはマシかなと。

結局、僕が欲しかったもの

ここまで色々書いてきましたが、結局のところ、僕が本当に欲しかったのは**「何者でもない自分でも、まあいっか」**と思える感覚だったんだと思います。

特別な成功をしてなくても、誰かより劣っていても、それでも「今日も一日生きた。悪くないな」って思えること。

SNSには載らない、小さくて静かな幸せ。朝起きて「今日も生きてる」って思えること。家族が元気でいること。友達が連絡をくれること。金曜の夜に安い居酒屋でダラダラ喋れること。

こういう幸せは、条件をクリアしなくても手に入るし、誰かと比べる必要もない。ただそこにあって、気づくのを待ってくれてる。

……って書くと、めちゃくちゃ良いこと言ってる風になっちゃうんですが、正直、これが「答え」かどうかも分かりません。

明日の朝、また「もっと稼がなきゃ」って思うかもしれないし、来週にはまた同世代の成功者の投稿を見て凹んでるかもしれない。

でも、少なくとも今この瞬間は、「条件をクリアしてないけど、まあまあ幸せかも」って思えてる。

それで十分なんじゃないかなって、今は思っています。

おわりに:足元にある幸せに気づく勇気

「年収1000万になったら」「理想の恋人ができたら」「有名になったら」…そうやって未来に幸せを置いて走り続ける人生も、確かに一つの生き方だと思います。

でも、もしかしたら幸せって、そんなに遠くにあるものじゃないのかもしれません。

今この瞬間にも、すでに小さな肯定や満足感が存在してるとしたら?

僕は今日も、特に何も達成せずに一日を終えるでしょう。コンビニ弁当を食べて、ダラダラして、夜中にまたモヤモヤするかもしれない。それでも、それが僕にとっては十分に価値のある一日なんです。

もし今、「自分はまだ何も成し遂げてない」って思ってる人がいたら、一度立ち止まって周りを見回してみてください。あなたの存在を喜んでくれる人、あなたがいることで成り立っている日常、あなただけの小さな幸せ。

きっと、思っているより近くに、幸せは転がってると思いますよ。

……って、こんなこと書いてる僕が一番それを忘れがちなんですけどね。

まあ、分からないまま生きていきましょう。僕もそうします。

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