人に興味がなくなった理由|冷たくなったんじゃなくて、たぶん変わったんだと思う

A grand piano floating in the middle of a salt fla 生き方・考え方

最近、自分がちょっと変わったなと思うことがある。

昔は人と会うのが楽しかった。飲み会に誘われたら二つ返事で行っていたし、知らない人の集まりにも「面白そう」と思えていた。SNSを開けば、誰が何をしているか気になったし、通知が来ればすぐ確認していた。

でも今は、正直に言うと、それがちょっと面倒になっている。

職場の同僚の話に、前ほど興味が持てない。友人との約束を、つい先延ばしにしてしまう。インスタのストーリーを開いても、3つ目くらいで「まあいいか」と閉じる。

これ、冷たくなったのかな。人としてどこか欠けてしまったのかな。最初はそう思って、ちょっと自分を責めた。「こんなんじゃダメだ」「もっと人に関心を持たなきゃ」と。

でも、しばらく考えているうちに、少し違う見方ができるようになった。

冷たくなったんじゃなくて、たぶん、何かが変わったんだと思う。良いとか悪いとかじゃなくて、ただ変わった。その「変わった」の中身を、自分なりに考えてみたくなった。

缶ビール片手に、一人暮らしのリビングで。相変わらず地味な金曜の夜だけど、まあ聞いてほしい。

使えるエネルギーに限りがあると、体で分かった

20代前半の頃は、エネルギーが無限だと思っていた。

朝から晩まで仕事して、そのまま飲みに行って、終電で帰って、翌朝また普通に出社する。週末は週末で予定を詰め込む。友達と遊んで、買い物行って、夜はまた別の人と飲む。

疲れても、寝れば治った。回復力がバグっていた。

それがいつからか、そうじゃなくなった。飲み会の翌日が丸一日使い物にならなくなった。人と3時間話すと、帰宅後にソファから動けなくなった。週末に予定を2つ入れただけで、日曜の夜に「もう月曜か……」と絶望する体になった。

これは単純に歳のせいかもしれない。でも、歳のせいだけじゃない気もしている。

たぶん、自分のエネルギーが有限だということを、頭じゃなくて体で理解したんだと思う。

体で分かると、自然と「配分」を考えるようになる。誰に会うか。何に時間を使うか。どこにエネルギーを注ぐか。昔みたいに全方位に振りまくことが、物理的にできなくなった。

で、配分を考え始めると、今まで無意識にやっていたことの中に「これ、別にいらなくないか?」と思うものが出てくる。

義理で参加していた飲み会。なんとなく続けていた浅い付き合い。SNSで誰かの近況をチェックする習慣。

別に嫌いになったわけじゃない。ただ、限られたエネルギーの使い道として、優先順位が下がった。それだけのことなんだけど、傍から見ると「あの人、最近付き合い悪くなったよね」になる。

付き合いが悪くなったんじゃなくて、付き合いを選ぶようになっただけなんだけどな。まあ、結果は同じか。

期待しなくなったら、興味も薄れた

若い頃は、人間関係にけっこう期待していた。

友達は一生ものだと思っていた。困ったときは助け合えると信じていた。深い話をすれば分かり合えると思っていた。

で、ひとつずつ、その期待が裏切られていった。

裏切られた、というと大げさかもしれない。でも、環境が変われば疎遠になる友人がいた。こっちが本当に困っているとき、思ったほど誰も手を差し伸べてくれなかった。信頼していた人が、別の場所では自分のことを雑に扱っていたと知った。

べつに恨んでいるわけじゃない。たぶんそれが普通なんだと思う。みんな自分の生活で精一杯で、他人のことにそこまで構っていられない。それは自分だって同じだ。

でも、この「普通」に気づいたとき、人間関係への期待値がガクッと下がった。

期待しなくなると、不思議なことに興味も薄れる。「あの人は今こういう状況なんだ」「あの人はこう思っているんだ」ということに、前ほど関心が湧かなくなる。

最初はこの変化が怖かった。自分が冷血な人間になっていくみたいで。

でも、しばらく経って気づいたことがある。期待が下がった分、人間関係がラクになった。相手に対して「こうしてくれるはずだ」がないから、がっかりすることもない。たまに誰かが思いがけず優しくしてくれると、素直にうれしい。期待値ゼロからのサプライズは、破壊力がすごい。

冷たくなったのかもしれない。でも、前より穏やかになった気もする。この変化をなんと呼べばいいのかは、まだ分からない。

他人の目が、だんだんどうでもよくなってきた

20代前半の頃の僕は、他人の目をものすごく気にしていた。

「あの人は自分のことをどう思っているか」「こういう発言をしたら引かれないか」「この服装で変じゃないか」。常に誰かの視線を意識して、誰かの評価を気にして、その基準に合わせて自分を調整していた。

これ、めちゃくちゃ疲れる。当たり前だけど。

いつからか、その疲れに見合うリターンがないことに気づき始めた。

他人の評価に合わせて行動しても、全員に好かれるわけじゃない。むしろ、合わせれば合わせるほど、自分が薄くなっていく感覚があった。誰かの期待に応えた瞬間は安心するけど、5分後にはまた別の誰かの目が気になる。終わりがない。

あるとき、ふと思った。この「他人にどう思われるか」レースに、ゴールはないんだなと。

そう気づいた瞬間、少しだけ力が抜けた。全員に好かれるのは無理。嫌われることもある。それは自分がダメだからじゃなくて、単に合わないだけ。

他人の目がどうでもよくなると、自然と他人への興味も減る。他人が自分をどう見ているかに関心がなくなると、他人が何をしているかにも関心が薄れる。

これは良いことなのか悪いことなのか、自分でも判断がつかない。ただ、以前よりは呼吸がしやすくなった。それだけは確かだ。

話が合う人と合わない人が、はっきり見えてきた

若い頃は「人間はみんな話せば分かり合える」と、わりと本気で思っていた。

価値観が違っても、ちゃんと言葉にすれば伝わる。伝わらないのは、自分の説明が足りないから。そう信じていた。

で、それが違うと分かるまでに、けっこう時間がかかった。

何度話しても噛み合わない人がいる。こっちが本質的な話をしたいのに、相手は表面的な話しかしない。逆に、こっちが軽い雑談のつもりなのに、相手は深刻な議論にしたがる。

これは相手が悪いんじゃなくて、根っこの部分が違うんだと思う。何に関心があるか。何を大切にしているか。何について考えたいか。そこが合わないと、どれだけ一緒にいても会話がすれ違い続ける。

若い頃はそのすれ違いを「もっと頑張ればなんとかなる」と思って埋めようとしていた。でも今は、頑張っても埋まらないものがあると分かってしまった。

分かってしまうと、合わない人に対してエネルギーを使う気力がなくなる。嫌いとかじゃなくて、「ここに力を注いでも、お互いしんどいだけだな」と分かってしまう。

その結果、付き合う人が減る。会話が噛み合う人、一緒にいて疲れない人、黙っていても気まずくない人。そういう少数の人だけが残る。

これを「人に興味がなくなった」と表現すると、なんだか寂しく聞こえる。でも実際は、興味の「範囲」が狭くなっただけで、「深さ」はむしろ増えている気がする。たぶん。

時間が有限だと、本当の意味で気づいてしまった

「時間は有限だ」なんて、小学生でも知っていることだ。

でも、それを頭じゃなくて腹の底から理解するタイミングが、たぶん人生のどこかにある。僕の場合は、同世代の知り合いが体を壊したという話を聞いたときだった。

その人は僕と同い年で、つい最近まで普通に働いていた。それがある日突然、長期入院。詳しい事情は知らないけど、「いつ何があるか分からない」という当たり前のことが、急にリアルになった。

あの日から、時間の使い方に対する感覚がちょっと変わった。

義理で参加していた集まりに「本当に行く必要あるか?」と考えるようになった。なんとなく続けていたSNSの巡回を「これに使う30分、もったいなくないか?」と思うようになった。

いや、こんなことを書くと、すごくストイックな人間みたいだけど、全然そんなことはない。普通にだらだらYouTubeも見るし、布団の中でスマホをいじって2時間溶かすこともある。

ただ、「この時間は自分で選んでだらだらしている」という自覚は持つようになった。義理や惰性で時間を使うことに、前より抵抗を感じるようになった。

その結果、人付き合いの優先順位が変わる。会いたい人にはちゃんと会う。でも、義理だけの関係には時間を使わなくなる。誘いを断ることが増える。「最近忙しくて」の一言で済ませることが増える。

断るたびにちょっとだけ罪悪感がある。でも、自分の時間を守ることは、たぶん悪いことじゃない。少なくとも、自分にはそう言い聞かせている。

一人の時間が、怖くなくなった

これが一番大きな変化かもしれない。

昔の僕は、一人でいることが怖かった。

休日に予定がないと不安だった。誰とも連絡を取らない日が続くと、世界から取り残されたような気がした。だから常に誰かと会い、常にSNSをチェックし、常に「つながっている」ことを確認しようとしていた。

あれは今思うと、孤独が怖かったんじゃなくて、孤独な自分と向き合うのが怖かったんだと思う。一人になると、余計なことを考えてしまう。自分はこのままでいいのか、この人生で正しいのか、みたいな問いが湧いてくる。あれから逃げたくて、人と会っていた部分がある。

いつからか、その問いと一緒にいることに慣れた。

慣れた、というか、問いが湧いてきても「まあ、分からないけどね」と受け流せるようになった。答えが出ないことを、前ほど怖がらなくなった。

そうすると、一人の時間がラクになる。むしろ心地よくなる。誰にも気を使わない。誰の話にもリアクションしなくていい。自分のペースで過ごせる。

土曜の朝に、好きな時間に起きて、コーヒーを淹れて、何の予定もない一日を過ごす。これが最高の贅沢だと思えるようになった。20代前半の自分に言ったら「おじいちゃんか?」と突っ込まれそうだけど、本当にそうなのだからしょうがない。

一人の時間が怖くなくなると、人に会う「必要性」が減る。必要性じゃなくて「会いたいから会う」になる。それだけのことなんだけど、この差は結構大きい。

「残りの時間」を意識するようになった

大げさに聞こえるかもしれないけど、最近ちょっとだけ「自分の人生、あと何年あるんだろう」と考えることがある。

別に病気になったわけじゃない。ただ、20代も後半になると、人生の折り返し地点というものがぼんやり見えてくる。あと40年か50年か、分からないけど、無限ではないことだけは確かだ。

親も歳をとった。学生時代の恩師が亡くなったという知らせも届いた。同窓会で久しぶりに会った友人が、見た目も考え方もすっかり変わっていて、時間の流れを突きつけられた。

こういう経験が積み重なると、日常の些細なことの「重み」が変わる。

誰がどんな車に乗っているとか、誰がどこに旅行に行ったとか、SNSで流れてくるそういう情報が、前より軽く感じるようになった。軽いというか、自分の人生に関係ないなと思うようになった。

その分、自分にとって本当に大事なことが何なのか、前より考えるようになった。答えはまだ出ていないけど、少なくとも「それは他人の動向をチェックすることじゃないな」とは分かった。

それでも、全部が分かったわけじゃない

ここまでいろいろ書いてみたけど、正直に言う。

僕は自分の変化を、全部理解できているわけじゃない。

「エネルギーが有限だと気づいた」とか「期待しなくなった」とか、それっぽい理由を並べてみたけど、それで全部説明できているかと言われると、自信がない。

もしかしたら、単に疲れているだけかもしれない。もしかしたら、何か大事なものを見失っているだけかもしれない。「成長した」と思い込んでいるだけで、本当はただの逃げかもしれない。

その可能性は、常に頭の片隅にある。

ただ、ひとつだけ分かっていることがある。人に興味がなくなったことを、無理に「悪いこと」だと決めつけなくてもいいんじゃないか、ということだ。

冷たくなったわけじゃない。人間として欠けたわけでもない。ただ、自分にとって大事なものの輪郭が、前よりちょっとだけ見えてきた。その結果、大事じゃないものが遠くなった。たぶん、それだけのことだ。

大事な人には、ちゃんと会う。大事な関係は、ちゃんと守る。ただ、全員に同じエネルギーを注ぐことは、もうしない。できない。

それでいいのかどうかは、正直分からない。分からないけど、前よりは息がしやすい。夜、一人でリビングにいる時間が、前より穏やかだ。

これが成長なのか退化なのか、正しいのか間違っているのか、僕にはまだ判断がつかない。でもまあ、判断がつかないまま生きていくのも、悪くないかなと思っている。

缶ビールがぬるくなった。そろそろ寝よう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました