本当の自分がわからない人へ それは普通のことだと思う

An infinite staircase spiraling through clouds ea 生き方・考え方

「本当の自分って何ですか」と聞かれたら、あなたは答えられるだろうか。

僕は答えられない。

いや、もうちょっと正確に言うと、答えようとすると混乱する。「本当の自分」を探そうとすればするほど、何が本当で何が嘘なのか、境界線がぐちゃぐちゃになっていく。

これ、僕だけなんですかね。周りの人はみんな「自分はこういう人間だ」とはっきり分かっていて、迷いなく生きているように見える。見えるだけかもしれないけど。

ある夜、布団の中でぼんやり天井を見ていたとき、ふと思った。僕は一日のうちに何枚の仮面をかぶっているんだろう、と。職場の自分、友人の前の自分、家族との自分、一人のときの自分。全部微妙に違う。どれも嘘じゃないけど、どれも100%本当でもない。

で、その仮面を全部外したら、下に何が残るんだろう。

もしかして、何も残らないんじゃないか。

その考えがよぎった瞬間、ちょっとゾッとした。でも同時に、「いや、さすがに何かはあるだろ」とも思った。その「何か」が何なのかは分からないけど。

今日はそのことについて、自分なりに考えてみたい。相変わらず缶ビール片手の金曜の夜です。

僕らは毎日、仮面を着替えて生きている

社会人になって気づいたことがある。僕は場面によって、驚くほど自分を切り替えている。

職場では「ちゃんとした社会人」の顔をしている。上司の前では少し真面目に、後輩の前ではちょっと頼れる先輩風に。会議では意見を求められたら無難なことを言い、飲み会では場の空気に合わせて笑う。

友人の前では「ちょっとふざけた自分」になる。自虐ネタを入れたり、毒舌っぽいことを言ってみたり。一人のときの自分とは明らかにテンションが違う。

恋人の前ではまた別の顔。親の前ではさらに別の顔。LINEの文面すら、相手によって句読点の打ち方が変わっている。絵文字の量も違う。「笑」をつけるかどうかすら、無意識に計算している。もはや器用を通り越して、自分でも気持ち悪い。

たまにLINEを送る相手を間違えそうになって、ヒヤッとする。上司に送るつもりだった敬語の文面を友人に送りかけて、あるいは逆に友人向けの砕けた文面を上司に送りかけて。あの瞬間に、自分がどれだけ使い分けをしているか思い知る。

これは僕だけの話じゃないと思う。たぶん多くの人が、程度の差はあれ同じことをしている。社会で生きていく上で、ある程度の「演じ分け」は必要だ。それ自体は悪いことじゃない。

でも、問題はここからだ。

あまりにも長く仮面をかぶり続けていると、仮面が顔にくっついて剥がれなくなる。どれが演技でどれが素なのか、自分でも分からなくなる瞬間がある。

「職場の自分」が本当の自分なのか。「友人の前の自分」が本当の自分なのか。それとも、深夜2時に布団の中で天井を見つめている、何の役割も演じていないこの瞬間の自分が、本当の自分なのか。

正直、分からない。分からないことが、地味にしんどい。

見たくない自分が、ふとした瞬間に顔を出す

仮面の話をしたけど、もうひとつ気になっていることがある。

自分の中に、自分が認めたくない部分がある。

たとえば、友人がうまくいっている話を聞いたとき、一瞬チクッとする。「よかったね」と言いながら、心のどこかで嫉妬している自分がいる。

後輩がミスをしたとき、必要以上にイラッとする自分がいる。別にそこまで怒ることじゃないのに、なんか腹が立つ。冷静になってから「なんであんなにイライラしたんだろう」と考えると、答えが出ない。いや、出ないふりをしている。本当はなんとなく分かっている。自分の中にも同じ弱さがあるから、それを見せられるのが嫌なんだと思う。

人の自慢話を聞いてモヤッとする。SNSで誰かのキラキラした投稿を見てため息をつく。「そういうの興味ないし」と思いながら、本当は興味がないんじゃなくて、羨ましいだけなんじゃないか。

こういう「見たくない自分」は、普段はうまく押し込めている。表に出さないようにしている。でも、ふとした瞬間に漏れ出る。疲れているとき、余裕がないとき、油断したとき。お酒を飲みすぎた夜なんかは特に危ない。翌朝、自分の発言を思い出して布団の中で悶絶するやつ。あれ、だいたい押し込めていた本音が漏れ出ている。

で、漏れ出た後に自己嫌悪がくる。「なんて器の小さい人間なんだ」と。あの自己嫌悪のループ、なかなかしんどい。

でも最近、ちょっと思うようになったことがある。

この「見たくない自分」を無理に消そうとすると、余計にしんどくなるんじゃないか。存在しないことにしようとすればするほど、予想外のタイミングで噴き出す。蓋をすればするほど、圧力が上がる。

嫉妬する自分がいる。イライラする自分がいる。人を見下したくなる瞬間がある。それは「悪い自分」なんじゃなくて、ただの自分の一部なんじゃないか。良い部分だけで自分が構成されているなんて、そもそも無理な話だ。

認めたからといって、その通りに行動する必要はない。嫉妬を感じても、嫉妬に従わなければいい。イライラしても、それをそのまま相手にぶつけなければいい。「あ、今ちょっと嫉妬してるな」と気づくだけで、不思議と落ち着くことがある。

押し込めるんじゃなくて、ただ「いるな」と認める。それだけで、なんか少しラクになった。気のせいかもしれないけど。

仮面がうまくいきすぎると、逆に壊れる

ここでひとつ、自分の失敗談を書いておきたい。

前の職場で、僕はけっこう「いい人」をやっていた。頼まれたことは断らない。誰に対しても穏やかに接する。揉め事があったら間に入る。自分で言うのもなんだけど、周囲からの評価は悪くなかったと思う。

でもそれ、無理をしていた。

本当は断りたい仕事もあった。本当はイラッとしていた場面もあった。でも「いい人の自分」を壊すのが怖くて、全部飲み込んでいた。

で、どうなったか。ある日の夜、帰宅してドアを閉めた瞬間、急に涙が出た。理由が分からなかった。悲しいわけじゃない。つらいことがあったわけでもない。ただ涙が出た。

あれは今思うと、仮面と自分が完全にくっついてしまった結果だったんだと思う。「いい人の自分」を演じることにエネルギーを使いすぎて、本当の自分の感情を置き去りにしていた。押し込めていた感情が、限界を超えて溢れた。

あの経験から学んだことがある。仮面をかぶること自体は悪くない。でも、仮面が自分の全部だと思い込むと、どこかで壊れる。

外の世界に適応することに全力を注ぐと、自分の内側が空洞になる。周囲から見たら順調に見えるのに、本人はひどく虚しい。そういう状態になる。

今の職場では、あの頃よりはマシになった。断るときは断る。イラッとしたときは、少なくとも自分の中では「今イラッとしてるな」と認める。外に出すかどうかは別として。でもあの経験がなかったら、僕はまだ「いい人の仮面」をかぶり続けて、いつか本格的に壊れていたかもしれない。

あの夜の涙は、内側からの「気づけよ」というサインだったんだろうなと、今は思っている。

自分の中にいる、知らない自分

ちょっと不思議な話をしていいですか。

僕は時々、自分でも説明できない行動をとることがある。

普段は慎重な性格なのに、突然衝動的な決断をする。いつもは穏やかなのに、ある特定の話題になると急に熱くなる。自分でも「え、今の自分なんだ?」と思う瞬間がある。

前に付き合っていた人に言われたことがある。「たまに、別人みたいになるよね」と。悪い意味じゃなかったと思うけど、ドキッとした。自覚があったからだ。

普段意識している自分は、たぶん自分のほんの一部なんだろう。残りの大部分は、自分でも把握していない領域にある。その領域から、ときどき予告なしに何かが飛び出してくる。

怒りだったり、悲しみだったり、妙に繊細な感情だったり、逆にやたら大胆な衝動だったり。それが出てきたとき、周囲の人は困惑するし、自分も困惑する。

でも、それも自分なんだと思う。認識できている自分だけが自分だと思うのは、たぶん間違いだ。氷山みたいなもので、水面の上に見えている部分は全体のごく一部。水面下には、自分でも知らない巨大な何かがある。

それが何なのかは分からない。分からないけど、たまに水面から顔を出す。そのとき「お前誰だよ」と思うんだけど、紛れもなく自分の一部なのだ。

面白いのは、その「知らない自分」が出てきたとき、周囲が困惑する一方で、自分自身は意外とスッキリしていることがあるということだ。普段抑えている何かが解放された感覚というか。怒りを出した後に罪悪感はあるけど、同時にどこか清々しい。涙が出た後に恥ずかしいけど、なんかラクになっている。

あれは「知らない自分」が「ちょっと出してくれ」と押し出してきているんじゃないかと、最近は思っている。押し込め続けると、いつか爆発する。さっき書いた「いい人の仮面で壊れた話」と、根っこは同じだ。

「本当の自分になれ」のプレッシャー

ここまで書いてきて、ひとつ引っかかっていることがある。

世の中には「本当の自分を見つけよう」「自分らしく生きよう」というメッセージが溢れている。自己啓発本、SNSの名言、就活のエントリーシート。どこに行っても「あなたは本当は何がしたいんですか」と聞かれる。

あれ、正直しんどい。

だって、本当の自分が何なのか分からないから困っているわけで。「本当の自分を見つけろ」と言われても、探し方が分からない。宝探しで「宝があるよ」とだけ言われて、地図をもらえないような感じだ。

しかも「本当の自分」って、ひとつの固定された何かとして存在しているのだろうか。僕は最近、それ自体を疑い始めている。

仮面の自分も自分だし、見たくない自分も自分だし、水面下にいる知らない自分も自分だ。「本当の自分」は、そういうバラバラなものの全部を含めた、ごちゃごちゃした塊なんじゃないか。

きれいにひとつにまとまった「本当の自分」なんて、もしかしたら存在しないのかもしれない。存在するのは、いろんな矛盾を抱えたまま日々を過ごしている、このぐちゃぐちゃの自分だけだ。

それを「本当の自分」と呼んでいいなら、僕はとっくに本当の自分で生きている。ただ、それが美しくもなければ、カッコよくもないだけだ。

自分を知るって、たぶん終わらない作業

じゃあ結局どうすればいいのか、という話になるんだけど、僕にはまだ答えがない。

ただ、最近やっていることはある。自分の感情に、前よりちょっとだけ注意を払うようにしている。

イラッとしたとき、「なんでイラッとしたんだろう」と考える。悲しくなったとき、「何が引き金だったんだろう」と振り返る。別に毎回やるわけじゃない。余裕があるときだけ。

そうすると、たまに「あ、これ昔のあの経験と繋がってるのかも」みたいなことに気づく。子どもの頃に「人に迷惑をかけるな」と言われた記憶が、今の「断れない自分」に繋がっている、とか。親に褒められなかった記憶が、今の「承認欲求の強さ」に繋がっている、とか。

こういう発見があると、自分のことが少しだけ理解できた気になる。でも、理解できたと思った翌日に、また全然知らない自分が出てきたりする。「お前誰だよ」シリーズは永遠に続く。

自分を知るという作業は、どこかにゴールがあるわけじゃないんだろう。宝探しじゃなくて、終わりのない散歩みたいなものだ。歩けば歩くほど景色は変わるけど、目的地はない。

でも、歩かないよりは歩いたほうが、見える景色は多い。それだけは確かだと思う。

仮面を外すのは怖いけど、くっつけたままも怖い

最後にもうひとつだけ。

仮面を外すのは怖い。素の自分を見せて、受け入れてもらえなかったらどうしよう。ダメな部分を見せて、離れていかれたらどうしよう。その恐怖は、たぶん一生消えない。

でも、仮面をくっつけたまま生きるのも怖い。あの夜、理由のない涙が出たときの感覚を、僕はまだ覚えている。あれはもう味わいたくない。

だから、少しずつやっている。全部いっぺんに外すんじゃなくて、信頼できる人の前で、ちょっとだけ素を見せてみる。「最近ちょっとしんどい」と言ってみる。「実は嫉妬した」と認めてみる。

そのとき相手が「そっか」と言ってくれたら、少しだけ仮面がゆるむ。ゆるんだ分だけ、呼吸がしやすくなる。

本当の自分は分からない。たぶんこれからも分からないままだと思う。でも、「分からないまま、少しずつ付き合っていく」という選択肢もあるんじゃないか。

全部を理解する必要はない。全部をさらけ出す必要もない。ただ、自分の中にいろんな自分がいることを、否定しないでいる。それだけで、ちょっとだけ生きやすくなる気がしている。

気がしているだけかもしれないけど。

缶ビールが空になった。2本目を開けるかどうか迷っている。この迷いすらも含めて、今の自分なんだろう。たぶん。

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