人間関係は期待しない方が楽 でも諦めとは全然違う

Aig mid22910 113 xl TP V 生き方・考え方

人に期待しなくなってから、人間関係がラクになった。

こう書くと、なんだか冷たい人間みたいに聞こえるかもしれない。「人を信じない」とか「他人に無関心」とか、そういう意味に受け取られそうで怖い。

でも違う。少なくとも、僕の中では違う。

期待しないというのは、相手を見限ることじゃない。ただ、「相手はこうしてくれるはずだ」という自分勝手な台本を、相手に押し付けるのをやめた、ということだ。

この境地にたどり着くまでに、けっこう痛い目を見た。何回も失望して、何回も「なんで分かってくれないんだ」と思って、何回も自分を責めた。その過程を、今日は正直に書いてみようと思う。

例によって缶ビール片手の金曜の夜。付き合ってください。

期待するから、裏切られる

最初に言っておくと、僕は昔けっこう人に期待するタイプだった。

「親友ならこういうとき連絡くれるだろう」「同僚なら自分の仕事ぶりを見てくれているだろう」「上司ならちゃんと評価してくれるだろう」。こういう期待を、無意識にたくさん持っていた。

で、当然のように裏切られる。

裏切られる、と言っても、相手が悪意を持って裏切ってきたわけじゃない。ただ、自分が勝手に台本を書いて、相手に渡してもいないのに、「なんで台本通りにやってくれないんだ」とキレていただけだ。

冷静に考えると、めちゃくちゃ理不尽なことをしていた。

たとえば、仕事で体調を崩して数日休んだことがある。復帰したとき、正直ちょっと期待していた。「大丈夫だった?」と声をかけてくれる人がいるだろうと。でも、ほとんどの人は普通だった。普通に「おはようございます」と言って、普通に仕事の話をしてきた。

あのとき、僕はけっこう落ち込んだ。「誰も心配してくれないのか」と。でも今思うと、みんな自分の仕事で忙しかっただけだ。僕が休んでいた数日間、僕の分の仕事を誰かがカバーしてくれていた。それだけで十分ありがたいことなのに、さらに「心配の言葉」まで求めていた。

期待って、際限がないんだなと、あのとき初めて気づいた。

もうひとつ、もっと痛い経験がある。大学時代からの友人で、僕が「親友」だと思っていた人がいた。何でも話せると思っていたし、困ったときはお互い助け合える関係だと信じていた。

でもある時、僕が本当に追い詰められて相談したとき、その友人の反応は思ったより淡白だった。「大変だね」の一言で、話題が変わった。

あのとき、正直めちゃくちゃ傷ついた。「こいつ、親友じゃなかったのか」と。でも後から考えると、「親友」というラベルを貼ったのは僕の方で、相手がそこまでの関係だと思っていたかは分からない。僕が勝手に相手を「親友」に任命して、「親友」にふさわしい行動を求めていた。それはけっこう暴力的なことだったんじゃないか。

人は「自分にとってプラスかどうか」で動いている

これはちょっとドライな話になるけど、聞いてほしい。

人間は、基本的に自分にとってプラスになることを選んで行動している。意識的にであれ、無意識的にであれ。

これは悪いことじゃない。むしろ当たり前のことだ。自分の体力、時間、お金、感情。全部有限だから、それをどこに振り分けるかは、自然と「自分にとって意味があるかどうか」で決まる。

僕だってそうだ。正直に言うと、全員に同じエネルギーを注いでいるわけじゃない。大切な人にはたくさん使うし、そうでもない人にはそこそこ。それは冷たいんじゃなくて、人間として普通のことだと思う。

でも昔の僕は、これを認められなかった。「人は愛情や思いやりで動くものだ」と信じていた。だから、自分が困っているときに助けてくれなかった人に対して、「薄情だ」と思ってしまった。

でも、相手にも相手の生活がある。相手にも限られたエネルギーがある。自分を最優先にしてくれないからといって、その人が薄情なわけじゃない。単に、その人にはその人の優先順位があるだけだ。

この事実を受け入れるのに、けっこう時間がかかった。でも受け入れた瞬間、不思議なくらいラクになった。

人が自分のために動いてくれるのは「当然」じゃない。だからこそ、動いてくれたときに心から感謝できる。期待値ゼロからの感謝は、純度が高い。

「いい人」をやると、相手の本音が見えなくなる

これは前の職場での話だけど、僕はけっこう自分の好き嫌いを表に出さないタイプだった。

誰にでもニコニコする。頼まれたら断らない。意見を求められたら相手が喜びそうな答えを言う。いわゆる「いい人」ポジション。

当時は、それがうまくいっていると思っていた。実際、人間関係のトラブルはほとんどなかったし、「あの人は話しやすい」と言ってもらえることも多かった。

でも、あるとき気づいた。僕の周りに集まってくる人が、なんか似たタイプばかりになっている。当たり障りのない会話しかしない人。表面的にはにこやかだけど、本音が見えない人。

考えてみたら当然だった。僕が好き嫌いを出さないから、周りも好き嫌いを出さない。僕が本音を言わないから、周りも本音を言わない。僕が合わせるから、周りも合わせてくる。

結果、全員が全員の顔色をうかがっている、なんとも窮屈な空間ができあがっていた。

あの経験から学んだのは、自分の考えや感情をある程度出さないと、相手も出してくれないということだ。好き嫌いを全面に押し出せという話じゃない。でも、「自分はこう思う」くらいは言わないと、人間関係は表面をすべり続けるだけだ。

期待しないことと、自分を出さないことは、似ているようで全然違う。期待しないのは相手への執着を手放すこと。自分を出さないのは、自分から逃げていること。僕はこの2つをずっとごちゃ混ぜにしていた。

親切の押し売りで、信頼を失ったことがある

恥ずかしい話をひとつ。

前の職場で後輩が仕事に苦戦していたとき、僕は良かれと思って手を出した。「ここ、こうした方がいいよ」「これ、僕がやっておくよ」と。完全に善意だった。少なくとも自分ではそう思っていた。

でも後輩の反応が、思ったほど喜んでいなかった。むしろ、ちょっと困ったような顔をしていた。

後から別の同僚に聞いたら、あの後輩は「自分でやりたかったのに」と思っていたらしい。僕が手を出したことで、自分で考えるチャンスを奪われたと感じていた、と。

正直、ショックだった。良いことをしたはずなのに、恨まれているとまでは言わないけど、少なくとも感謝はされていなかった。

でもこれ、冷静に考えるとそうだよなと思う。自分に置き換えてみれば分かる。自分が頑張ろうとしているときに、横から誰かが「はいはい、僕がやるよ」と持っていったら、たとえ善意でもモヤッとする。「信用されてないのかな」と思う。

親切は、相手が求めていてはじめて親切になる。求められていない親切は、ただの押し売りだ。

この経験から、僕は「相手が何を求めていて、何を求めていないのか」を確認してから動くようになった。といっても毎回完璧にできるわけじゃないけど、少なくとも「自分が良いと思うこと=相手が求めていること」ではない、という前提は持つようにしている。

「分かってくれるはず」は、だいたい幻想

人間関係で一番厄介な期待は、「言わなくても分かってくれるはず」だと思う。

僕はこれをずっとやっていた。「これだけ一緒にいるんだから、言わなくても気づいてくれるだろう」「こんなに態度に出しているんだから、察してくれるだろう」と。

で、察してもらえなくて、勝手にイライラする。相手は何も悪くないのに、僕が勝手にイライラしている。冷静に振り返ると、かなりタチが悪い。

ある日、友人にこのことを話したら、「それ、エスパーじゃないと無理じゃない?」と笑われた。確かにそうだ。僕は相手にエスパーであることを求めていた。

人間は、言わなければ伝わらない。当たり前のことなのに、親しい関係になるほど忘れてしまう。「この人なら分かってくれる」という期待が、言葉を省略させて、その省略がすれ違いを生む。

期待しない方が楽、というのは、この「察してくれるはず」を手放すことでもある。分かってほしいことがあるなら、自分の口で言う。言って伝わらなかったら、別の言い方を試す。それでもダメなら、「伝わらないこともある」と受け入れる。

面倒くさいと思うかもしれない。でも、察してもらえなくてイライラするよりは、よっぽど健全だ。

これは恋愛でも友情でも、職場でも同じだと思う。長く一緒にいるほど「言わなくても分かるでしょ」が増えていく。でも長く一緒にいるからこそ、ちゃんと言葉にしなきゃいけないことがある。時間が経てば自動的に理解が深まるなんて、そんな都合のいい話はない。

期待を手放したら、逆に人が見えるようになった

期待しなくなって、失ったものもあると思う。ある種の情熱とか、人間関係に全力で突っ込んでいくエネルギーとか。若い頃にあった「この人とずっと一緒にいたい」みたいな純粋な気持ちは、正直薄れた。

でも、得たものもある。

人が見えるようになった。

期待しなくなると、相手をフラットに見られる。「この人はこうしてくれるはずだ」というフィルターがなくなるから、「この人は実際にどういう人なのか」が見えてくる。

すると、今まで見えていなかったものが見えるようになる。

普段は素っ気ない同僚が、実はさりげなく自分の仕事をフォローしてくれていたこと。あまり連絡をくれない友人が、久しぶりに会ったときに「最近どう?」と自然に聞いてくれること。口下手な親が、何も言わずに送ってくれる仕送りの中に、好物のお菓子が入っていること。

期待していたときは、こういう小さなことに気づけなかった。「もっとこうしてくれたらいいのに」ばかり考えていて、今すでにもらっているものが見えなかった。

期待を手放すと、すでにあるものが見える。これは本当だった。きれいごとじゃなくて、体験としてそう思う。

全員と深く付き合う必要はない

もうひとつ、期待しなくなって変わったことがある。人間関係の「数」にこだわらなくなった。

昔は、友達は多ければ多いほどいいと思っていた。飲み会には顔を出すし、連絡先はどんどん交換するし、SNSのフォロワー数もなんとなく気にしていた。

でも今は、本当に大切な人が数人いれば、それで十分だと思っている。

100人の知り合いより、3人の本当の友人。これは頭では分かっていたけど、体で分かるまでに時間がかかった。

体で分かったきっかけは、ある失敗だった。仕事で大きなミスをしたとき、連絡先に登録されている大量の「友達」の中で、実際に話を聞いてくれた人は3人だった。残りの人は、僕が困っていることすら知らなかったし、知る必要もなかった。

あの経験は地味に効いた。量じゃなくて質なんだなと、痛感した。

今は、浅い関係に無理してエネルギーを使うことをやめた。義理だけの付き合いは自然に距離を置くようにしている。代わりに、大切な人との時間を意識的に増やしている。

冷たいと思われるかもしれない。でも、自分のエネルギーは有限だ。全員に均等に配ったら、大切な人にも薄い対応しかできなくなる。それは本末転倒だ。

期待しないのは、諦めることじゃない

最後に、これだけは言っておきたい。

「期待しない」は「諦める」とは違う。

諦めるというのは、人間関係そのものを放棄すること。「どうせ誰も分かってくれない」と殻に閉じこもること。

期待しないというのは、相手に自分勝手な台本を渡すのをやめること。相手が相手のまま存在することを許すこと。そして、その上で関わり続けること。

この差は、外から見ると分かりにくいかもしれない。どっちも「人に冷たくなった」ように見えるかもしれない。でも、中身は全然違う。

期待しないからこそ、相手の行動に素直に感謝できる。期待しないからこそ、相手の本当の姿が見える。期待しないからこそ、「この人はこの人だ」と受け入れられる。

……と、ここまでカッコよく書いてみたけど、正直に言うと、今でもたまに期待してしまう。「これくらいしてくれてもいいじゃないか」と思ってしまう瞬間がある。そのたびに、「あ、また台本渡してた」と気づいて、手を引っ込める。

完璧にはなれない。でも、気づくまでの時間は、前より短くなった。それだけでも進歩だと思うことにしている。

缶ビールが空になった。今日は2本目はやめておこう。「自分に期待しすぎない」というのも、地味に大事な話かもしれない。

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