自分が嫌い、変えたい夜に読む処方箋のない手紙

075nanashikijk617 TP V 生き方・考え方

ある夜、布団の中でスマホをいじっていた。

特に理由はない。眠れないわけでもないし、誰かに連絡する用事があるわけでもない。ただなんとなく、画面を眺めていた。

そしたら、指が勝手に検索バーをタップして、こう打ち込んでいた。

「自分が嫌い 変えたい」

打ち終わって、ちょっと笑った。20代後半の会社員が、夜中にこれを検索している。客観的に見ると、けっこう切ない光景だと思う。

でも、たぶん同じことをしている人は想像以上に多い。そして僕は、この検索をした夜から、ぐるぐると考え続けている。自分が嫌いってなんなのか。変わりたいってどういうことなのか。

いつからこうなったんだろう。少なくとも小学生の頃は、自分のことを嫌いだなんて思っていなかった気がする。走るのが速いとか、絵が上手いとか、そういう小さなことで「自分、まあまあイケてるな」と思えていた。

それがいつの間にか、人と比べることが増えて、自分のダメなところばかり目につくようになって、気がついたら「自分が嫌い」がデフォルトの感情になっていた。

結論から言うと、まだ答えは出ていない。でも、考えたことを書いてみようと思う。

「変えたい」のは自分なのか、自分の見え方なのか

まず最初に引っかかったのが、「変えたい」って、何を変えたいんだろうということだった。

自分の性格?顔?能力?コミュ力?

全部っちゃ全部なんだけど、よくよく考えてみると、僕が本当に嫌だったのは「自分そのもの」じゃなくて、自分が自分に与えている意味だった気がする。

どういうことかというと。

例えば、会社でちょっとしたミスをする。普通なら「次は気をつけよう」で済む話だ。でも僕の場合、そこから「やっぱり自分はダメだ」→「こんなこともできないのか」→「周りはもっとちゃんとやってる」→「自分は価値がない」と、一直線に落ちていく。

同じ出来事でも、人によって受け取り方が全然違う。つまり、現実そのものが僕を苦しめているわけじゃなくて、現実に対する「僕の解釈」が僕を苦しめているのだ。

これに気づいた時、ちょっとだけ風通しがよくなった。変えるべきは「自分」じゃなくて、「自分の見方」なのかもしれないと。

つまり、僕らは自分が生きている世界に、自分なりの「意味」を与えながら生きている。同じ職場、同じ仕事、同じ人間関係でも、それをどう受け取るかは人それぞれだ。「自分はダメだ」という解釈も、「まあ、こんなもんか」という解釈も、どっちが正解というわけでもない。

ただ、自分を苦しめる解釈をわざわざ選んでいるなら、それは変えていいのだ。自分の性格を手術するとか、別人になるとか、そういう大げさな話じゃない。同じ現実に対して、違う意味を与えてみる。それだけの話。

……まあ、それが簡単にできたら苦労しないんですけどね。

過去のせいにしていた頃の話

僕には、何かうまくいかないことがあると、すぐ過去のせいにするクセがあった。

人付き合いが苦手なのは、学生時代にいじられた経験があるから。自分に自信がないのは、親にあまり褒められなかったから。恋愛がうまくいかないのは、過去の失敗がトラウマだから。

全部、「原因」があって「今」がある、という考え方。

これ、一見もっともらしい。実際、因果関係としてはそうなのかもしれない。でも、ある夜ふと思ったのだ。

「原因を特定したところで、何か変わったか?」

答えはNOだった。

原因がわかっても、現状は何も変わっていない。むしろ、原因を見つけることで「だから仕方ないんだ」と、自分に言い訳を与えてしまっていた。

もしかしたら、僕は変わることが怖かったのかもしれない。変わろうとして失敗したら、もっと自分が嫌いになる。だから「過去が原因だから変えられない」という物語を自分で作って、行動しない理由を確保していたのだ。

これに気づいた時は、正直けっこうキツかった。「お前、自分で自分を閉じ込めてただけじゃん」と。夜中に一人でセルフ説教、完全に不審者のメンタリティである。

でも、逆に言えば、原因じゃなくて「目的」に目を向ければ、何か変わるかもしれないということでもある。

自分は本当はどうなりたいのか。何を成し遂げたいのか。その目的がハッキリすれば、過去の出来事の「意味」だって変わってくるかもしれない。

……まだハッキリはしていないけど。

劣等感との付き合い方を、僕は盛大に間違えていた

自分が嫌いな人って、たぶん劣等感が強い。僕もそうだった。いや、今もそうだ。

人と比べてしまう。同期の方が評価されている。友達の方が充実した生活を送っている。SNSを開けば、自分より上手くやっている人が無限に出てくる。

劣等感が消えない。つらい。

で、僕がやっていたのは、その劣等感を隠すために背伸びすることだった。

知ったかぶりをする。ちょっとした自慢を挟む。「俺はこんなことも知ってるよ」アピールをする。充実してるフリをSNSに投稿する。

いま思えば、これはつま先立ちで歩いているようなものだった。実際の自分より大きく見せようとして、ずっとつま先で立っている。当然、足はガクガクになるし、いつかバランスを崩す。

そして崩れた時、余計に惨めになる。「やっぱり自分はダメだ」と。

自分のダメなところばかり目につくのは、たぶんこのループのせいだった。背伸びして→崩れて→落ち込んで→また背伸びして。努力はしているのに、方向が完全に間違っていた。

他人より優れているように見せることに全力を注いで、肝心の「自分がどうなりたいか」は放置したまま。

これを「誤った努力」と呼ぶのかもしれない。頑張れば頑張るほどつらくなる、あの感じ。心当たりのある人、たぶんけっこういると思う。

じゃあ劣等感って全部悪いものなのかというと、そうでもないと思う。

考えてみれば、僕が仕事のスキルを磨こうとしたのも、本を読むようになったのも、「このままじゃマズい」という劣等感がきっかけだった。劣等感があるから、人は成長しようとする。「もっと知りたい」「もっとうまくなりたい」という気持ちの根っこには、「今の自分じゃ足りない」という感覚がある。

つまり、劣等感そのものは悪者じゃない。問題は、それをどっちに向けるかだ。

「自分をよく見せること」に向けるか、「本当になりたい自分に近づくこと」に向けるか。前者は背伸び。後者は成長。見た目は似ているけど、中身は全然違う。

僕はずっと前者をやっていた。そりゃ疲れるわけだ。

「存在しているだけで十分」は、最初キレイごとだと思っていた

じゃあ、正しい方向ってなんなんだ、という話。

僕がここで思い出すのは、仕事で異動になった時の話だ。

新しい部署に移ったばかりの頃、僕は完全にお荷物だった。何もできない。聞くことすらわからない。周りの人は忙しそうで、話しかけるタイミングもつかめない。他人の目が気になって、昼休みのトイレで「早く役に立たないと」と焦っていた。

でもある日、隣の席の先輩が言ったのだ。

「いや、いてくれるだけで助かるよ。一人で回してた時より、誰かがいるってだけで気が楽になるから」

正直、最初は「慰めてくれてるんだな」と思った。存在しているだけで価値があるなんて、キレイごとだと。

でも、逆の立場を想像してみた。自分の大切な人——親とか、友人とか、パートナーとか。その人が、大きな成果を出さなくても、特別なことをしてくれなくても、ただ元気で生きてくれている。それだけで、嬉しいと感じないだろうか。

……感じる。普通に感じる。

つまり、僕は他人に対してはそう思えるのに、自分に対してだけそれを認めていなかったのだ。

他人には「いてくれるだけでいい」と思えるのに、自分には「何か成果を出さないと価値がない」と思っている。このダブルスタンダード、冷静に考えるとかなり理不尽だ。

自分に対する基準だけ異常に厳しい。これが自己肯定感が低い状態の正体なのかもしれない。

人と関わるのが怖い。でも、人と関わらないと見つからないものがある

自分が嫌いだと、人と関わるのも怖くなる。

「どうせ嫌われる」「自分なんかと話してもつまらないだろう」。そう思って、壁を作って、一人でいることを選ぶ。

でもね、ちょっと矛盾しているのだけど、僕が「自分のことを少しだけマシだと思えた瞬間」は、全部人と関わっている時だった。

後輩に仕事を教えた時に「わかりやすかったです」と言われた。友達の引っ越しを手伝った後に「ありがとう、助かった」と言われた。彼女が落ち込んでいる時に、ただ隣で黙って座っていたら「いてくれてよかった」と言われた。

どれも、特別なことじゃない。

すごいスキルを発揮したわけでもないし、お金をかけたわけでもない。ただ、目の前の人のために、ほんの少しだけ時間と意識を使っただけ。

でも、その瞬間だけ、「自分にも何かできることがあるのかもしれない」と思えた。

人は一人で自分の価値を見つけるのが本当に苦手らしい。誰かと関わって、何かを与えて、それが受け取ってもらえた時に初めて、「あ、自分もここにいていいんだ」という感覚が生まれる。

だから、怖くても人と関わることをやめちゃいけないのだと思う。自分を変える方法の第一歩は、たぶん自分の中を掘ることじゃなくて、誰かに手を伸ばすことなのかもしれない。

ここで一つ、面白いなと思ったことがある。

話すこと、書くこと、読むこと。こういう基本的な能力って、全部「相手がいること」が前提になっている。誰かに伝えたいから話す。誰かに読んでもらいたいから書く。誰かの考えを知りたいから読む。

つまり、人は一人では能力すら伸ばせない。成長すること自体が、他者との結びつきの中でしか起こらないのだ。

そう考えると、「自分が嫌いだから一人でいたい」という気持ちは、わかるけど、たぶん逆効果だ。一人でいればいるほど、自分を測る物差しが「自分の中の厳しいジャッジ」だけになって、余計に自分が嫌いになる。

誰かと関わることで、自分では気づかなかった「良い一面」を見つけてもらえることがある。自分では何でもないと思っていたことが、誰かにとっては嬉しいことだったりする。

人との関わりの中で、自分の意味づけが書き換わる。 それは、自己啓発本を100冊読むよりも、たぶん効く。

……と言いつつ、明日の飲み会は行きたくない。人間ってそういうものだ。

自分が嫌いなまま、一歩だけ前に出てみる

ここまで書いてきて、まとめようとしたのだけど、うまくまとまらない。

自分の見方を変えればいい。目的に目を向ければいい。背伸びをやめればいい。人と関われば何か見つかる。

全部「いい」のはわかる。わかるけど、それができたら苦労しない。

ただ、一つだけ確実に変わったことがある。

「自分が嫌い」という気持ちに対して、前ほど焦らなくなった。

以前の僕は「自分が嫌い=ダメなこと」だと思っていた。だから急いで変わらなきゃと焦って、また空回りして、また落ち込んでいた。

でも今は、「自分が嫌いでも、別にいったん大丈夫」と思えるようになった。嫌いなところがあっていい。全部好きにならなくていい。自分の中に「まあ、ここは悪くないかな」と思える部分が一つでもあれば、それで十分じゃないか。

自己嫌悪をやめたいと思わなくていい。 ゼロにするんじゃなくて、嫌いな自分と一緒に、ちょっとずつ歩いていけばいい。

だって、自分が嫌いだと感じるのは、「もっとこうなりたい」という理想を持っている証拠でもある。完全に自分に満足している人には、劣等感なんて生まれない。つまり、「自分が嫌い」は、まだ諦めていない自分のサインなのかもしれない。

そう考えると、ちょっとだけ自分のことが嫌いじゃなくなる。ほんのちょっとだけ。

「自分が嫌い、変えたい」と検索した夜の自分に、今なら言えることがある。

変わらなくてもいい。でも、一歩だけ前に出てみるのは悪くない。その一歩は、仕事の成果とか、見た目の改善とか、そういう大きなことじゃなくていい。明日、誰かに「ありがとう」と言ってみるとか。隣の人の話を、最後までちゃんと聞いてみるとか。

それだけで、自分の見え方が少し変わるかもしれない。変わらないかもしれない。

でも、変わらなかったとしても、その「一歩出してみた自分」は、昨日の自分よりちょっとだけマシなはずだ。

……たぶん。保証はしない。保証できないまま、今日も布団に入る。

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