愛し方がわからない僕が、それでも「愛する」について考えてみた夜の話
ある夜、彼女に「おやすみ」とLINEを送ったあと、なんとなくスマホを眺めていた。
別にケンカしたわけでもない。既読もついた。スタンプも返ってきた。なのに、胸のあたりがうっすらモヤッとしている。
「僕は、この人のことをちゃんと愛せているんだろうか」
急にそんなことを考えてしまった。
いや、好きだとは思っている。一緒にいると楽しいし、体調が悪いと心配もする。でも「愛しているか」と聞かれると、途端に言葉が詰まる。
好きと愛するって、何が違うんだろう。
気づいたら検索バーに「愛し方 わからない」と打ち込んでいた自分がいて、ちょっと笑ってしまった。20代後半の会社員が、夜中に一人でこれを検索している図、なかなかにシュールである。
でも、たぶん僕だけじゃないと思う。
愛されたいのに、愛し方がわからないという矛盾
「僕は誰かをちゃんと愛せているんだろうか」と思った夜
思い返してみると、「愛されたい」という気持ちは昔からハッキリしていた。
親に認めてほしかった。友達に必要とされたかった。彼女には「あなたがいてくれてよかった」と言われたかった。
愛されたい。大事にされたい。興味を持たれたい。
この欲求だけは、びっくりするくらいクリアに言語化できる。
なのに「愛したい」になると、途端にぼんやりする。愛したい気持ちがないわけじゃない。ただ、それを具体的にどうすればいいのかが、本当にわからない。
友達の相談に乗った帰り道、「いいことした感」よりも「ちゃんと寄り添えてたかな」という不安のほうが大きい。彼女の誕生日にプレゼントを渡しても、「これ、本当に喜んでくれてるのかな」と疑ってしまう。
愛しているつもりなのに、愛せている実感がない。これってなんなんだろう。
「愛し方がわからない」を検索している時点で、たぶん僕らは正直だ
でもね、一つだけ思ったことがある。
「愛し方がわからない」って、めちゃくちゃ正直な言葉だなと。
だって、世の中には「愛してるよ」とサラッと言える人がたくさんいる。SNSには「大切な人へ感謝」みたいな投稿が溢れている。みんな、愛し方を知っているかのように見える。
でも、本当にそうなんだろうか。
「わからない」と認められるのは、実はけっこうすごいことなんじゃないか。少なくとも、わかったフリをしていない。それだけで、もうスタートラインには立てている気がする。
……と、自分を慰めてみる。夜中のセルフ励まし、虚しさとの紙一重である。
「愛する」って、たぶん僕が思ってたものと違った
条件が揃えば愛せると思っていた頃の話
正直に言うと、僕はずっと「条件」で考えていた。
もっとお金があれば、もっと余裕を持って接してあげられるのに。もっと自分に魅力があれば、もっと堂々と愛情を表現できるのに。もっといい出会いがあれば、もっと深く人を愛せるのに。
お金さえあれば。見た目さえよければ。相手さえいれば。
そう思っていた時期がある。たぶんけっこう長い間。
でもある時、ふと気づいた。条件が揃うのを待っている間、僕は目の前にいる人を全然見ていなかった。「今の自分じゃ愛せない」と思い込むことで、愛することを先送りにしていたのだ。
これ、希望を持っているようで、実はめちゃくちゃ危ない思考だったと思う。だって永遠に「まだ準備ができていない」と言い続けられてしまうから。
「与える」という言葉の意味を、僕はずっと勘違いしていた
「愛するって、与えることだよ」
こういうセリフ、どこかで聞いたことがあると思う。僕も聞いたことがあった。で、僕はそれを**「自分を削ること」**だと解釈していた。
自分の時間を犠牲にして相手に尽くす。自分の欲しいものを我慢して相手に譲る。自分のやりたいことを後回しにして相手を優先する。
それが「与える」だと思っていた。
でも、これをやり続けると、どうなるか。めちゃくちゃしんどくなる。
そして「こんなに尽くしてるのに、なんで返ってこないんだ」と思い始める。与えているつもりが、いつの間にか「見返りの回収作業」になっている。これ、愛じゃなくて取引だった。
たぶん、本当の「与える」は、自分を削ることじゃない。
自分の中にある喜びとか、興味とか、「一緒にいて楽しいな」っていう感覚とか。そういう、自分の中に息づいているものを分けることなんだと思う。
与えたら損をする、と思っている時点で、僕はまだ「与える」の入り口にも立てていなかったのかもしれない。
愛し方がわからない原因は「愛の形」を一つだと思い込んでいたからかもしれない
気にかけること、応じること、邪魔しないこと、知ろうとすること
ある時、ぼんやりと「愛」を分解してみたことがある。夜中にノートを広げて(急にどうした感はある)。
で、出てきたのがこの4つだった。
配慮——相手のことを気にかけること。元気かな、大丈夫かな、と思うこと。
責任——相手が何かを求めた時、それに応じる準備ができていること。
尊重——相手がその人らしく生きていくことを邪魔しないこと。自分の都合で相手を利用しないこと。
知る——相手の考え方とか性格を、ちゃんと知ろうとすること。
書き出してみて思ったのは、全部を完璧にやれている人なんて、たぶんいないということ。
でも、この中の一つでも意識できたら、それはもう「愛している」と言っていいんじゃないか。「今日、ちょっとだけ相手のことを気にかけた」。それだけで十分じゃないか。
……と思いたい。思わせてほしい。
「自分を愛する」が先って言われても困るんですが
「まず自分を愛しなさい」。
この言葉、一回は聞いたことあるでしょう。僕も何回も聞いた。そのたびに「いや、その愛し方がわからないから困ってるんですけど」と思っていた。
自分を愛するってなんだ。毎朝鏡に向かって「今日もイケてるね」と言うことか。違うと思う。たぶんそれはナルシシズムだ。
ここで一つ、面白いことに気づいた。
自分のことばっかり考えている人って、自分を愛しすぎている人じゃなくて、実は自分を愛せていない人なんじゃないか。
自分を愛せないから、その埋め合わせとして自分を守ることに必死になる。自分の損得ばかり考える。一見すると「自分大好き人間」に見えるけど、本当は「自分を受け入れられない人間」なのかもしれない。
これに気づいた時、ちょっとドキッとした。もしかして、僕にも当てはまるんじゃないかと。
自分の愛し方がわからないのは、自分が嫌いだからじゃなくて、ただ単に「自分との付き合い方」を見つけられていないだけなのかもしれない。
僕らの「愛し方がわからない」には、たぶん社会のせいもある
消費することに慣れすぎた僕らの愛
仕事が終わって家に帰ると、もう何もしたくない。
ソファに倒れ込んで、YouTube開いて、コンビニの唐揚げ食べて、気づいたら寝てる。翌朝「また何もしなかった……」と軽く自己嫌悪。このループ、週3くらいで発生している。
で、思ったのだけど。
この「仕事終わりのダラダラモード」って、別に意志が弱いからじゃないらしい。毎日8時間、自分の意志じゃないやり方で働かされている反動で、自制心がゼロになるのは当然のことなのだ。
問題は、この状態で「愛する」なんて高度なことができるわけがないということ。
僕らは消費することに慣れすぎている。商品も、映像も、料理も、片っ端から飲み込んで、次を求める。世界は僕らの消費欲を満たすための巨大な果実みたいなもので、みんなそこに一斉にかぶりついている。
限りない希望を抱きながら、永遠に満たされない。
愛すらも「コスパ」で考え始めていた自分に気づいた時は、さすがにゾッとした。「この人と付き合って、自分にメリットあるかな」。……いや、それ投資の話じゃん。
SNSで「いいね」を数える僕が、隣の人の話を聞けているか
もう一つ、痛い話をしていいですか。
僕、人の話を聞いている最中にスマホが気になる。
彼女が仕事の愚痴を話してくれている時に、通知音が鳴ると、つい画面をチラッと見てしまう。友達と飲んでいる時も、トイレに立つたびにTwitterを開いてしまう。
一つの行動に集中できない。一人の人間に意識を向け続けられない。
これ、僕だけじゃないと思う。現代人の多くがマルチタスクに慣れすぎて、注意力が散漫になっている。そして、この「集中できなさ」が、実は愛し方がわからない原因の一つになっている気がする。
だって、相手のことを本当に知ろうとしたら、集中して耳を傾けないといけない。ふとした表情の変化とか、言葉の裏にある不安とか、そういう繊細なものをキャッチするには、「ながら」じゃ絶対に無理だ。
愛情表現が苦手だと思っていたけど、そもそも「目の前の人に集中する」という基本ができていなかったのかもしれない。
愛し方がわからないまま、それでも「練習」はできるらしい
自分との約束を守る、という地味すぎる第一歩
愛し方がわからないなら、練習すればいい。
……と書くと、なんかスポーツの部活みたいだけど、割と本気でそう思っている。
で、その練習の第一歩が、びっくりするくらい地味だった。
自分との約束を守ること。
毎日ストレッチをする。寝る前に10分だけ本を読む。週に2回は自炊をする。そういう、誰にも褒められない、地味な約束を自分と交わして、それを守る。
ポイントは、嫌々やらないこと。「やらなきゃ」じゃなくて「やってみよう」くらいの温度感で、ゲーム感覚で楽しむ。やらない日があっても自分を責めない。
これが愛と何の関係があるのかと思うかもしれない。正直、僕もまだよくわかっていない。でも、自分との約束すら守れない人間が、誰かとの約束を守れるとは思えない。たぶん、ここが土台なのだ。
「一つのことだけやる」という、ものすごく難しい練習
もう一つ、やってみていることがある。
何かをする時、それだけをやる。
音楽を聴く時は、音楽だけ聴く。ご飯を食べる時は、スマホを置いて、ご飯だけ食べる。人と話す時は、相手の言葉だけに集中する。
これがね、本当に難しい。3分で他のことが気になり始める。自分の集中力のなさに愕然とする。
でも、たまに——本当にたまにだけど——相手の話を最後まで集中して聞けた時、不思議と心が満たされる感覚がある。「いい話が聞けた」とかじゃなくて、「ちゃんと向き合えた」という、静かな充実感。
もしかしたら、これが「愛する」の練習なのかもしれない。そう思いたいだけかもしれないけど。
すぐに答えを求めない忍耐、がいちばんキツい
そして、たぶんいちばんキツい練習が、答えをすぐに求めないこと。
「愛し方 わからない」で検索している時点で、僕はもう答えを急いでいる。5分で読める記事に、人生の処方箋を求めている。
でも、愛するって、そんなに簡単に身につくものじゃないらしい。
赤ちゃんが歩けるようになるまでのことを想像してみてほしい。何回も転ぶ。何回もぶつかる。でも諦めない。転んでも転んでも立ち上がって、少しずつバランスを覚えていく。
人を愛するのも、たぶんそれに近い。転んで当たり前。失敗して当たり前。怖くて当たり前。
人を愛するのが怖いのは、まだ練習の途中だからだ。
……と、自分に言い聞かせている。効いているかどうかは、正直まだわからない。
結局、愛し方はわからないままだけど
「わからない」を抱えたまま生きるのも、悪くないかもしれない
ここまで書いてきて、結局何がわかったかというと。
何もわからなかった。
いや、嘘。少しだけ見えたものはある。
愛するっていうのは、条件が揃ってから始めるものじゃないということ。自分を削ることでもないということ。相手を気にかけて、応じて、邪魔しないで、知ろうとすること。そして、それを身につけるには地味な練習がいるということ。
でも、「じゃあ明日から愛せます」とはならない。そんな簡単だったら、世の中はとっくに愛で満ちているはずだ。実際は全然そうなっていない。僕も、まだ全然できていない。
ただ、一つだけ変わったことがある。
「愛し方がわからない」ことが、前ほど怖くなくなった。
わからないなら、わからないまま生きればいい。わかったフリをして誰かを傷つけるより、わからないままモヤモヤしている方が、まだマシだと思う。
もし今夜、スマホで「愛し方 わからない」と検索してここにたどり着いた人がいるなら。
大丈夫。僕もわかっていない。たぶん、これからもずっとわからない。
でも、わからないまま考え続けることを、僕はやめないでおこうと思う。
それが愛なのかどうかは、まだ分からないけど。



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