ある夜、もし自分が世界を作る側だったらと考えた
これは完全に深夜の妄想です。
前回、世界は悪意でできているのかもしれないと書いたんですけど、その続きでふと別の疑問が湧きました。
じゃあ、この世界を作った人がいるとして、なんで作ったんだろう、と。
いや、作った人がいるかどうかは分からないです。宗教の話をしたいわけでもない。ただの思考実験として、もし自分が世界を作る側だったら、なんで人間なんて面倒な生き物を作ったんだろうって、布団の中で考え始めてしまった。
「急にどうした?」って自分で自分にツッコミを入れながら、それでもやめられなかった。
今日はその話を書きます。答えは出ません。いつものことです。
たぶん、何かが動いてほしかったんだと思う
もし僕が世界を作る側だったとして、何もない空間を用意したとします。
でも、ただ星だけがあっても、たぶん退屈なんですよね。
星が爆発しても、それを「すごい」と思う存在がいなければ、ただの物理現象でしかない。音が鳴っても、それを「綺麗」と感じる誰かがいなければ、ただの空気の揺れでしかない。
何かを「意味」に変えてくれる存在が必要だった。
そう考えると、人間を作った理由ってシンプルかもしれない。意味を生む装置が欲しかったから。
人間って、勝手に意味を作るんですよね。ただの夕焼けに「美しい」と思ったり、ただの偶然に「運命」って名前をつけたり、知らない人の死を見て「切ない」と感じたり。
世界にラベルを貼る生き物。
僕が世界を作る側だったら、たぶんそれが欲しかったんだと思います。何もない空間を「何かがある場所」に変えてくれる存在が。
もしくは、ただ単に退屈だったのかもしれません。
全部分かっていて、全部できる状態って、たぶんめちゃくちゃ暇ですよね。驚きもないし、期待もない。だから、先の読めない生き物を作った。
忘れる存在、間違える存在、悩む存在。そういう奴らを放り込んでおけば、勝手に物語が始まるから。
でもそれって、作った側も満たされてなかったってことでは
ここで、ちょっと嫌なことに気づきました。
もし世界を作った人が、「意味が欲しかった」「退屈だった」「自分にできない体験がしたかった」みたいな理由で人間を作ったなら——
それってもう、満たされていないってことじゃないか、と。
何かを求めているなら、足りないものがあるってこと。完全な存在は、たぶん何も求めない。求めないなら、何かを作る必要もない。
つまり、もし本当に誰かがこの世界を作ったとしたら、その人は完璧じゃなかった可能性がある。
これに気づいたとき、ちょっと面白いなと思いました。
神様的な存在って、勝手に「完璧な人」みたいなイメージがあるじゃないですか。でも、よく考えると、何かを作るという行為そのものが、不完全さの証拠なのかもしれない。
満たされているなら、何もしなくていいから。
……と書きながら、自分も同じだなと思いました。僕も夜中にこうして文章を書いているのは、何かが足りないからで。満たされている人は、たぶん何も書かずに静かに眠っている。
そもそも完璧って、何なんだろう
ここで根本的な疑問が出てきます。
そもそも「完璧」って、どういう状態なんでしょう。
辞書的には「欠点がない」「すべて満たされている」みたいなことだと思います。でも、これをよく考えると、変な話になってくる。
もし本当に完璧なら、変わる必要がないですよね。
でも変わらないって、動かないってことで、動かないってことは、何も起きないってことで、何も起きないって、それほぼ**「止まっている」状態**じゃないか、と。
止まっている状態を「完璧」と呼ぶのか?って、なんか腑に落ちない。
逆に「何でもできる」方を完璧と呼ぶなら、不完全になることも、失敗することも、全部できないと完璧じゃないことになる。でもそうすると、「完璧なのに失敗できる」って矛盾が出てくる。
考えれば考えるほど、完璧って言葉が怪しくなってきました。
もう一つ気づいたのは、完璧って比較がないと成り立たないってこと。
100点があるのは、99点や80点があるからで。美しいという言葉があるのは、美しくないものがあるから。全部が完璧だったら、「完璧」って言葉自体が意味を失う。
つまり、完璧って絶対的なものじゃなくて、人間が比べるために作った物差しなのかもしれない。
ここまで考えて、ちょっと頭が疲れました。完璧を追い求める感覚って、もしかしたら最初から存在しないものを追いかけているのかもしれない。
完璧な世界って、たぶん何も起きない
仮にです。全部が完璧な世界を想像してみたんです。
失敗がない。欲しいものが全部ある。争いもない。病気もない。全員が満たされている。
……それって、良い世界ですか?
僕の中の素直な感覚は「うーん、退屈そう」でした。
だって、何も起きないんですよ。変える必要がないんだから。成長もないし、挑戦もないし、発見もない。たぶん会話すら減る。共通の問題がないから、盛り上がる話題もない。
不完全があるから、世界は動く。
足りないから、欲しくなる。分からないから、調べる。うまくいかないから、工夫する。
全部、不完全がエンジンになっている。
僕が昨日、仕事で小さなミスをして凹んだのも、よく考えれば、次はちゃんとやろうと思ったきっかけでもあるわけで。失恋も、孤独も、貧しさも、全部何かを動かす力になっている。
こう書くと「だから苦しみも必要」って話に聞こえるかもしれないけど、そこは保留させてください。後でまた書きます。
とりあえずここで言いたいのは、不完全って悪くないかもしれないってこと。
むしろ、生きていくために必要な条件なのかもしれない。
ただ、ここで一応言っておきたいのは、不完全にも二種類ある気がするってことです。
何かが動き出す方向の不完全と、ただ壊れていくだけの不完全。前者は余白や可能性で、後者は取り返しのつかない欠陥みたいなもの。
だから「不完全ならなんでもいい」って話じゃないんですよね。
大事なのは、その不完全さがどこに向かっているかなんだと思います。
ちょっと崩れている方が、記憶に残る
関係ない話に見えるかもしれないんですけど、少し寄り道させてください。
完璧すぎる顔より、少しだけ崩れている顔の方が、なぜか印象に残るってことありませんか。
完璧に整った部屋より、どこかに趣味のものが散らかっている部屋の方が落ち着くとか。完璧に計算されたストーリーより、少し歪んでいる話の方が心に残るとか。
あれって何なんだろうと、ずっと不思議だったんです。
でも、たぶん余白があると、見ている側が入り込めるからなんですよね。
完璧なものって、もう閉じているから、こっちが関わる余地がない。でも少し欠けていると、その欠けた部分に、自分の解釈とか感情とかが滑り込んでくる。
僕がたまに「この人いいな」と思う人も、だいたいどこかが抜けているというか、完璧じゃない人です。「あ、この人でも失敗するんだ」って瞬間に、急に距離が縮まる。
これも、不完全さがあるから起きる現象なんだと思いました。
不完全さは、人と人の間に隙間を作ってくれる。
その隙間に、関係が生まれる。
愛は、たぶん「欠け」から始まっている
ここからが本題です。
愛ってどこから生まれるんだろう、と考えました。
僕が誰かを好きになるとき、たぶんそこには**「一人じゃ足りない」**っていう感覚がある。
誰かといると安心する。誰かに話を聞いてもらうと楽になる。誰かに必要とされると、自分がここにいていいと思える。
これ、全部、自分が完結していない証拠なんですよね。
もし僕が完全に満たされていて、何も必要としない存在だったら、たぶん誰も好きにならない。寂しさを感じないなら、誰かと繋がりたいとも思わない。
愛は、欠けているところから滲み出してくるものなのかもしれない。
これに気づいたとき、ちょっと切なくなりました。
愛が美しいって、ずっと思ってきたんです。でも、その美しさの根っこには、「一人では耐えられない」という弱さがある。
弱いから、人を求める。弱いから、繋がりたい。弱いから、誰かを失うのが怖い。
でも、だからこそ愛は成立しているんですよね。
完璧な存在には、たぶん愛がない。愛は、不完全な生き物にだけ許された感情なのかもしれない。
芸術も、利他も、全部ズレから生まれている
同じことが、芸術や優しさにも言える気がしました。
芸術って、たぶん**「言葉にできないズレ」**を外に出そうとする行為です。
現実と自分の中の感覚がズレている。納得できない。でもうまく説明できない。その気持ち悪さを、絵とか音楽とか言葉にして吐き出す。
満たされている人は、たぶん芸術を作る必要がない。
ズレがないから、表現する動機がない。
僕がこうして深夜にブログを書いているのも、結局はどこかで何かがズレているからなんでしょうね。完全に納得して生きていたら、こんなに文章を書いていない気がします。
利他的な行動も同じかもしれません。
人を助けるのって、自分もいつか助けてほしいっていう不安があるから、とも言える。一人じゃ生きていけないって知っているから、助け合う。
最初は損得計算だったのかもしれない。でも繰り返しているうちに、それ自体が価値になっていく。
欠けを埋めるための手段だったはずのものが、いつの間にか目的になる。
これは前回書いた「善は選び続けるスタイル」の話と、たぶん繋がっています。
最初は生存戦略だった善が、繰り返されるうちに、ただの戦略じゃなくなっていく。それと似た構造が、愛にも芸術にも優しさにもある気がします。
苦しみは必要なのか、という厄介な問い
ここで避けて通れないのが、苦しみの話です。
愛も芸術も優しさも、不完全さから生まれる。じゃあ苦しみも必要なのか?
……と問われると、すぐには頷けないんですよね。
苦しみは、確かに人を動かす力があります。何か大きな苦しみを経験した人が、その後深い優しさを持つようになる、みたいな話はよく聞く。
でも、「だから苦しみは必要だ」と言ってしまうと、危険だなと思います。
苦しんでいる人を「成長のために必要」と扱うのは、たぶん違う。
苦しみには、たぶん二種類ある気がするんです。
何かに変換できる苦しみと、ただ削るだけの苦しみ。
前者は、時間が経つと意味になることがある。でも後者は、ただ消耗していくだけで、何も残らない。
僕も過去にしんどい時期はあったけど、「あれがあったから今がある」って言えることもあれば、「あれは本当にただ辛かっただけだな」って思うこともある。
だから、苦しみを全部肯定したくないんです。
不完全さは生きるために必要だけど、それと「苦しめばいい」は別の話。
ここは分けておきたいなと思います。
幸せって、状態じゃなくて関係なのかも
ここまで書いてきて、じゃあ幸せって何なんだろうと思いました。
一般的には「満たされている状態」みたいに言われます。お金があって、健康で、人間関係もうまくいっている。そういう状態。
でも、よく考えるとおかしいですよね。
満たされた瞬間って、すぐ慣れるから。
欲しかったものが手に入っても、一週間もすれば「普通」になる。給料が上がっても、しばらくすると当たり前になる。慣れた瞬間、また次のズレが生まれて、また足りなくなる。
じゃあ幸せは、永遠に届かないものなのか。
そうじゃなくて、たぶん**幸せは「状態」じゃなくて「関係」**なんですよね。
現実があって、自分の望みがあって、そこにはいつもズレがある。そのズレに対して、自分がどう向き合っているか。
ズレを埋めようと動いているとき、充実がある。ズレを受け入れているとき、安らぎがある。ズレが小さいとき、穏やかな幸せがある。
つまり、ズレとの付き合い方が幸せの正体なのかもしれない。
これって、不完全さを前提にしている考え方ですよね。
完璧な世界に幸せはない。ズレがないから。幸せは、不完全な僕らだけが感じられる感覚なのかもしれません。
もしかしたら、作った側も愛を知りたかったのかも
最後に、ちょっとロマンチックな話をします。
もし本当にこの世界を作った誰かがいるとして、なんで人間を作ったんだろう、という最初の問いに戻ります。
僕なりの、今夜の答えはこれです。
たぶん、愛を知りたかったんじゃないか。
完璧な存在には、愛が成立しないかもしれない。傷つかないし、失わないし、何も必要としないから。
でも、そういう存在でも、愛がどういうものかは気になるかもしれない。
だから、不完全な存在を作った。寂しがりで、傷つきやすくて、それでも誰かを求める生き物を。
そして、その生き物たちが誰かを想う瞬間を見て、**「ああ、これが愛か」**と理解しようとしたのかもしれない。
……という解釈は、完全に僕の妄想です。
根拠はないし、証明もできない。でも、そう考えると、今誰かを大事に思っている自分の気持ちが、ちょっと違う意味を持つ気がしたんです。
ただの個人的な感情じゃなくて、世界のどこかで「愛ってこういうものか」と理解されている、その一部なのかもしれない。
そんなわけないんですけど。
でも、夜中にそう思うと、少しだけ自分の不完全さが許せる気がしました。
あなたは、完全になりたいですか?
ここで、ちょっと自分にも読んでいる人にも問いかけたいことがあります。
もし完全になれるとしたら、なりたいですか?
何も欲しくない。何も失わない。変化もしない。全部満たされている。そういう状態。
僕は、たぶん選びません。
それはたしかに苦しみはないけど、同時に、驚きも、期待も、誰かへの想いも、全部薄くなる気がするから。
でも、別の形の「完全」ならどうだろう、とも思いました。
不完全でいられる自由を含んだ完全、というか。
変わり続けられる。欠けたまま受け入れられる。間違っても大丈夫。そういう「開かれた完全」みたいなもの。
これなら、近づいてもいいかもしれない。
固まってしまう完全じゃなくて、動き続けられる完全。
これってたぶん、前回書いた「善は選び続けるスタイル」の話とも繋がっていて。完璧な答えを持つんじゃなくて、ずっと選び続けていられる状態。それが、僕にとっての理想に近いのかもしれません。
完璧になりたいんじゃなくて、不完全なまま変わり続けたい。
夜中にそう気づいて、少しだけ楽になりました。
不完全なまま、今夜も誰かを想う
結局、今夜も答えは出ませんでした。
世界を誰が作ったかも、そもそも作った人がいるのかも、分からない。完璧って何なのかも、幸せが何なのかも、はっきりしない。
ただ、一つだけ自分の中で落ち着いた感覚があります。
不完全でいていいんだな、ということ。
完璧を目指そうとすると、たぶんしんどい。そもそも完璧が何か分からないし、近づいたつもりでもまたズレが見つかるから。
でも、不完全でいるのは許されている気がする。というか、不完全だからこそ、愛とか優しさとか、そういうものが生まれる余地がある。
欠けているところがあるから、誰かと繋がれる。足りないから、何かを求める。分からないから、考え続ける。
不完全さは、ちゃんと生きるための条件なのかもしれない。
今夜も僕は、分からないまま、足りないまま、眠ります。
明日になったら、また誰かに話しかけたくなるし、何かが欲しくなるし、どこかが痛むでしょう。でもそれが、生きているってことなんだと思います。
完璧じゃないから、今夜も誰かのことを想える。
それで十分な気がしました。



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