世界は悪意でできている|それでも優しくありたい

51581 angel 1284369 生き方・考え方

ある夜、世界は悪意でできているのかもしれないと思った

深夜3時、スマホをスクロールしていた。

ニュースアプリには戦争の見出し。SNSには誰かを叩く声。コメント欄には、知らない人同士が本気で罵り合っている。

普段なら「まあ、そういうもんか」で閉じるところなんですけど、その日はなぜか指が止まった。

電気を消した部屋で、スマホの光だけがぼんやり顔を照らしている。その状態でスクロールしていると、画面の向こうで色んな人が、色んな形で、誰かを削ろうとしているのが見えてきた。

ふと、ある言葉が頭に浮かんだんです。

「世界は悪意でできているのかもしれない」

急にどうした?って自分でも思った。夜中にラーメン食べた後みたいな、胃がもたれた感覚で脳まで重くなっていたんだと思う。

でも一度浮かんでしまったら、もう消せなかった。それから数日、僕はずっとこのことを考えていました。

答えは出ていません。今も出ていない。ただ、考えたことだけを書いておこうと思います。

「優しさ」って、そんなに見当たらないかもしれない

まず最初に、自分の一日を思い返してみた。

朝、満員電車で押された。誰も謝らない。会社ではミスを他人のせいにしている同僚がいた。昼休みに後輩が上司の陰口を言っていた。夕方、取引先が競合を落とすためだけの資料を作っていた。

帰りのコンビニでは、店員に向かって舌打ちしているおじさんがいた。

もちろん、笑い合う瞬間もあります。励まし合う場面もある。同僚と雑談して気が楽になることもあるし、知らない人が落とし物を拾ってくれることもある。

でも、よく観察すると、それすら「自分が気持ちよくいるため」だったりする。

優しさって、本当にあるんだろうか。

ここで大事なのは、僕が人間嫌いになったわけじゃないってこと。むしろ逆で、僕自身も同じことをしている

満員電車では僕も押し返しているし、都合の悪い会議ではスルーを決め込んでいる。人の失敗を聞くと、少しだけホッとしている自分がいる。

「あの人もミスするんだ」って、安心している。

認めたくないけど、たぶんいます。自分の中に、そういう冷たい部分が。

だから僕は、他人のことを責められる立場じゃない。ただ、この世界全体に流れている「何か」を、ぼんやり眺めているだけなんです。

悪意を「生き残りたい気持ち」と呼び替えてみる

ここで一つ、言葉を置き換えてみたんです。

「悪意」ってきつい言葉だけど、もっと噛み砕くと**「自分が生き残りたい衝動」**のことじゃないか、と。

他人を押しのけてでも、自分が先に電車に乗る。他人を差し置いてでも、自分が評価される。他人より、自分の子どもが大事。

これ、悪いことですか?

たぶん、生き物としては当たり前のことなんだと思う。魚は小魚を食べる。猫は鳥を狩る。植物ですら光を奪い合って伸びていく。森の中で背の高い木は、下の木の日光を全部持っていく。悪気があってそうしているわけじゃない。ただ生きているだけ。

生きるって、誰かから何かを奪うことと、切り離せないのかもしれない。

僕がこうして深夜にコンビニのおにぎりを食べているのだって、遡ればお米を育てた土が何かを奪い、稲が何かを奪い、それを運ぶトラックが燃料を燃やして何かを奪って、ようやく僕の口に届いている。

生きているだけで、僕はもう、色んなものを奪っている側なんですよね。

そう考えると、悪意は悪ですらないのかもしれないと思った。ただの「生きたい」という力なのかもしれない。

ここまで書いて、ちょっと怖くなった。あまりに身も蓋もないから。

じゃあ「善い行い」って何なんだろう

でも、世の中には明らかに優しい人がいますよね。

募金する人。困っている人に声をかける人。ボランティアをする人。僕にはできないことを、当たり前のようにやっている人たちがいる。

これは悪意じゃない。絶対、悪意じゃない。

……と、最初は思った。でも夜中に一人でぐるぐる考えていたら、別の見方が出てきてしまった。

善い行いって、もしかして「悪意をうまく管理する仕組み」なんじゃないか。

例えば「人を傷つけてはいけない」というルール。これがなかったら、みんなが好き勝手に殴り合って社会が壊れる。そうなると、結局は自分も殴られる側になる。

だから「傷つけるな」と決めた。

「嘘をつくな」「盗むな」「約束を守れ」——これらも全部、みんなが奪い合うと誰も生き残れないから、仕方なく作ったルールなのかもしれない。

善とは、悪意の交通整理。

信号機みたいなものかもしれないと思った。赤と青があるから、みんながぶつからずに進める。でも信号機自体は、別に優しくも正しくもない。ただそこにあるだけ。

そう考えると、道徳も法律もマナーも、全部「みんなで共倒れしないための工夫」に見えてくる。

冷たい見方だな、と自分でも思う。でも、完全に否定もできない。

僕が「ありがとう」を言うのも、言わないと感じ悪いからで。席を譲るのも、譲らないと罪悪感があるからで。それって本当に優しさなのか、単に自分が居心地よくいたいからなのか、もう分からなくなってきた。

協力って、仲良しごっこじゃなくて同盟なのかも

もっとモヤっとしたのは、協力について考えたとき。

会社のチーム、家族、友達グループ、国。僕らは色んな集団に属していて、そこで協力しながら生きている。

これって美しいことだと思っていた。

でも、よく見るとどうだろう。

会社のチームは、他の会社に勝つために協力している。家族は、家の外の厳しさから身を守るために寄り添っている。友達グループは、他のグループと張り合うために団結している。国も、他の国に負けないために一つになっている。

協力って、内側の優しさと同時に、外側への排除でもある。

これに気づいたとき、正直しんどかった。

だって僕が「仲間」と思っている人たちとの関係も、裏返せば「他の誰か」を排除することで成り立っているってことになる。

愛国心も、家族愛も、友情も。

全部じゃないと思いたい。でも、ゼロだとも言えない。

会社の飲み会で、同じ部署の人と盛り上がっているとき、だいたい話題になるのは「他の部署の文句」だったりする。その瞬間、僕らは結束していて、同時に、誰かを排除している。

こんなに身近なところにも、同じ構造があったんだって気づいて、ちょっと嫌になりました。

じゃあ、愛はどうなんだろう

ここまで考えて、最後の砦みたいに残ったのが「愛」でした。

愛は違うでしょ、と思いたかった。親子の愛、恋人の愛、友人への愛。これだけは、計算じゃないはずだと。

でも、夜中の思考は容赦ないんですよね。

親が子どもを愛するのって、よく考えると「自分の遺伝子を残したい」っていう生き物としての仕組みに沿っているだけかもしれない。恋愛も、相手を好きになる感情は、結局は種を残すためのプログラムなのかもしれない。

冷たすぎる考え方だと自分でも思う。でも完全に否定はできない。

そして、もっと嫌なことに気づいた。

愛は、排除とセットになっているってこと。

自分の子どもを守るというのは、他人の子どもより優先するということ。恋人を大事にするというのは、他の異性を諦めさせるということ。家族を愛するというのは、家族以外を後回しにするということ。

愛があるところには、必ず「愛されない誰か」がいる。

僕にも好きな人たちがいます。その人たちを大事にしたいと思う。でもその気持ちの裏側には、知らない誰かを無視している自分がいる。

これに気づいたとき、愛が急に遠いものに見えた。

でもまあ、遠ざかったまま眺めていても、次の日にはまた友達と笑っているんですよね。人間って、矛盾したまま生きられるようにできているのかもしれない。

正義って、たぶん人の数だけある

もう一つ気になったのは、正義のこと。

ニュースを見ていると、みんな自分が正しいって顔をしている。戦争をしている両方の国が「自分たちが正義だ」と言っている。SNSで誰かを叩いている人も「こいつは間違っているから叩いている」と思っている。

叩かれている側も、自分が間違っているとは思っていない。

正義って、立場によって反転するんですよね。

捕食者にとっての「獲物を捕る」は生存で、獲物にとっては「災厄」。会社の合併を進める側には「成長戦略」で、切られる部署には「裏切り」。

どっちが正しいかなんて、たぶん決まらない。

歴史の教科書に載っているのは、だいたい勝った側の話で、負けた側の言い分はあまり残っていない。正義って、もしかしたら「後から勝った人が書いた物語」なのかもしれない。

こういうことを考えていると、正義という言葉を使うのが、だんだん怖くなってきます。

自分が「これは正しい」と思った瞬間、誰かの「間違い」を作っているかもしれないから。

でも、正義がないと社会は回らないんですよね。みんなが「どっちでもいい」って言い出したら、ルールも秩序も成り立たない。

だから、正義は幻かもしれないけど、必要な幻なのかもしれない。

分かったような、分からないような。いつもこうなる。

善人より、悪人の方が世界を回している気がする

これは書いていてちょっと嫌になる話なんですけど。

善人って、優しいし、いい人だし、僕も好きです。でも善人だけの社会って、たぶん脆いんですよね。

なぜかというと、善人は人を許してしまうから。

裏切られても許す。嘘をつかれても許す。それは素晴らしいことなんだけど、ルールを破った人が罰されないと、ルールを守る意味がなくなっていく。

一方で、ちゃんと計算して動く人たちは、「ルールを破ると損だ」ってことを理解している

だから彼らは、強いルールを作って、破った人をしっかり罰する。そうしないと自分も損をするから。

結果として、秩序を支えているのは、優しい人じゃなくて、「ルールがあった方が得だと分かっている人たち」だったりする。

冷たい話だな、と書きながら思います。

でも、会社でも学校でも、実際にチームを回しているのって、めちゃくちゃ優しい人というよりは、「こうしないと全体が崩れる」って冷静に判断できる人だったりしませんか。

世界を回しているのは、純粋な善意じゃなくて、みんながちょっとずつ計算している合理性なのかもしれない。

そう考えると、悪意って悪者じゃないのかもしれないな、とも思えてくる。

悪意が悪意同士でぶつかって、お互いに「このままじゃマズい」と気づいて、ルールを作って、秩序が生まれる。

世界は悪意でできているけど、その悪意がうまくバランスを取ろうとしているから、今日もなんとか回っている。

そういうことなのかもしれないです。

もちろん、これも仮説です。明日になったら違うことを考えているかもしれない。

宇宙まで広げて考えてみた(話が急にでかくなる)

ここで急に話がデカくなります。引かないでください。

深夜テンションだったので、宇宙のことまで考えてしまった。

星は燃え尽きて爆発する。惑星はぶつかり合う。ブラックホールは周りを飲み込む。銀河同士も引き寄せ合って、いずれ衝突する。

宇宙のスケールで見ても、結局は奪い合いと破壊の連続なんですよね。

生命が生まれる前から、宇宙は何かを壊して何かを作っていた。僕らが「悪意」と呼んでいるものは、もしかしたらずっと前から、この世界の基本設定だったのかもしれない。

……って、壮大すぎて自分でも笑った。

たぶん宇宙は悪意とか思ってないし、星も「ライバル星を潰してやる」とか考えてない。ただ物理法則に従って動いているだけ。

でも人間だけが、そこに「善」とか「悪」とかの名前をつけている。

善悪って、人間が勝手に貼ったラベルかもしれない

ここでさらにモヤっとしたことを書きます。

宇宙には、ライオンがシマウマを食べる瞬間も、星が爆発する瞬間も、ただの「出来事」として起きている。そこに最初から「悪い」とか「良い」とか書かれているわけじゃない。

善悪を決めているのは、人間だけなんですよね。

自分にとって都合がいいと「善」、都合が悪いと「悪」。戦争でも、自分の国の勝利は「正義」、相手の勝利は「悪」。同じ出来事なのに、見る位置で呼び名が変わる。

そう考えると、善も悪も、世界の性質じゃなくて、人間が世界を整理するために貼ったシールみたいなものかもしれない。

シールを剥がしてみたら、そこに残るのは、ただ起きている出来事だけ。

……という考えは、とても自由な感じがして、同時にちょっと怖くもあります。

だって、善も悪もないなら、何をしてもいいことになる。それは違うよな、と思う一方で、「じゃあ何が違うのか」と問い返されると答えに詰まる。

たぶんこれも、夜中だから辿り着いてしまう場所なんですよね。朝にはまた「そんなわけない」って思う気がする。

ここまで書いて、分かったフリをしそうになる

ここまで書いてきて、危険な感覚が近づいてきたのを感じました。

「世界の正体が分かった」という、あの気持ちよさ。

でも、これはたぶん罠なんですよね。

世界は悪意でできている、なんて言い切った瞬間、僕は「気づいている側」になってしまう。まだそれに気づいていない人を、心のどこかで見下す準備が始まってしまう。

それが一番、嫌なんです。

夜中に哲学っぽいことを考えて、何か分かった気になって、次の日の会社で「世の中の本質ってさ」とか語り始める人、たぶん一番イタい。僕はそれにはなりたくない。

だから正直に言うと、この話は全部、ただの仮説です。夜中に一人でぐるぐる考えた、一つの見方でしかない。

本当に世界が悪意でできているのか、僕には分からない。

明日になれば、誰かに親切にしてもらって「やっぱり優しさはあるじゃん」って思うかもしれない。来週には、全然違うことを考えているかもしれない。

それでいい気がしています。

それでも、優しくありたいと思ってしまう

ここからが、この話で一番言いたかったことかもしれません。

仮に世界が悪意でできていて、善が幻で、愛が計算で、正義が物語だとします。

それでも僕は、人に優しくありたいって思うんです。

理由は、正直よく分からない。

きっと計算もあるし、自己満足もあるし、嫌われたくない気持ちもある。全部、悪意の管理装置の範囲内かもしれない。

でも、それでもいいんじゃないかって最近思います。

世界に意味がないとしても、どう振る舞うかは選べる。奪うように生きることもできるし、少しだけ誰かに何かを渡すように生きることもできる。

どっちもできる中で、僕は後者を選びたい

それは「善が絶対的に正しいから」じゃなくて、ただ「その方が自分がちょっと呼吸しやすいから」っていう、すごく個人的な理由です。

善が本物かどうか、もう分からない。でも、善く振る舞うことで、自分の生活が少しマシになる。それくらいの理由で、僕は明日も誰かに「おはようございます」って言うんだと思います。

善は真理じゃなくて、選び続けるスタイルなのかもしれない。

そう考えると、ちょっとだけ気が楽になった気がしました。

分からないまま、それでも朝は来る

結局、答えは出ませんでした。

世界は悪意でできているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。優しさは本物かもしれないし、悪意の管理装置かもしれない。

どれも、今の僕には判定できません。

ただ一つだけ分かったのは、こういうことを夜中に考えても、朝になればお腹が空くし、電車に乗って会社に行くということ。

世界の正体が何であろうと、僕は明日も通勤して、誰かに押されて、誰かを押し返して、それでも笑い合う瞬間を持って帰ってくる。

それが「悪意の管理」だとしても、別にいい気がしてきました。

管理されてようが、生き残り戦略だろうが、笑えるなら笑っておきたい。同僚と昼ごはんを食べて「あの会議、長すぎましたね」と言い合うあの時間が、仮に単なる共闘の儀式だとしても、それはそれで悪くない。

分かったフリをしないまま、分からないまま、それでも人と関わって生きていく。

たぶん、そのくらいが僕にはちょうどいいんだと思います。

今夜もまた、答えが出ないまま眠ります。

部屋の電気を消して、スマホも伏せて、ただ天井を見る時間が少し好きです。

世界は悪意でできているかもしれない。でも今、この部屋の中は静かで、誰とも奪い合っていない。その静けさだけは本物だって気がしました。

でも、少しだけ呼吸がしやすくなった気がしました。

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