ある夜、「なんで僕はこんなに頑張ってるんだろう」と思った
残業を終えて、最寄り駅のコンビニに寄った。
カゴにおにぎりと味噌汁を入れながら、ふと思ったんです。
「僕、なんでこんなに頑張ってるんだろう」
別に、特別つらいことがあったわけじゃない。 上司にキレられたわけでもないし、理不尽な仕事を押し付けられたわけでもない。
ただ、なんか……疲れた。
それも、体が疲れたっていうより、「頑張ること」そのものに疲れた、みたいな感じ。
帰りの電車で、SNSを開いたのが良くなかった。
同世代のやつが昇進した話。 転職して年収が上がった話。 副業で月30万稼いでる話。
見るたびに、**「もっと頑張らないと」**って思う。 でもその「もっと」に、終わりが見えない。
頑張ること=正しい。
いつからか、僕はそう信じて疑わなくなっていたんです。
でも、ある夜ふと考えた。
「頑張る」って、本当にいつも正しいんだろうか。 もしかして、頑張りすぎてることが、今の疲れの原因そのものなんじゃないかって。
……まあ、急にこんなこと言い出したら「どうした?」って顔されるやつですよね。
でも、もう少しだけ付き合ってもらえたら嬉しいです。
この世界には、名前のつかない「大きな流れ」みたいなものがある気がする
夜、ベランダに出て空を見上げることがたまにあります。
月が出ていて、風が吹いていて、遠くで虫が鳴いている。
当たり前の光景なんですけど、ある夜こんなことを考えたんです。
「この世界って、誰が動かしてるんだろう」
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。 川は高いところから低いところへ流れる。 潮は満ちて、引いて、また満ちる。
誰も操作していないのに、全部ちゃんと回っている。
でも、人間だけがなぜか、その流れに逆らおうとしている気がする。
「もっと早く」「もっと多く」「もっと上へ」。
自然界を見ていると、無理やり何かを動かそうとしているのは、人間だけなんじゃないかって思えてくるんですよね。
「自然に」ってなんだろう?——山や川じゃなくて「おのずからそうなる」こと
「自然」って言葉、普段は山とか川とかのことを指して使いますよね。
でも最近、「自然」ってもう一つ意味があるんじゃないかと思うようになったんです。
それは、**「おのずからそうなる」**ということ。
誰かに強制されたわけでもなく、 計画されたわけでもなく、 ただ、そうなるべくしてそうなった状態。
春に花が咲くのは、誰かが「咲け」って命令したからじゃない。 条件が揃ったから、おのずと咲いた。
人間にもそういう「おのずとそうなる」流れがあるはずなのに、僕たちは作為的にコントロールしようとして、そのせいで疲弊しているんじゃないかと思うんです。
無理やり動かそうとしない。 あるがまま、自然のままに任せる。
それは「何もしない」ってことじゃなくて、「作為的なことをしない」ってこと。
この違いが、たぶん「無理しない生き方」の出発点なんだと思います。
目的を果たしたのに、まだ走り続けてしまう僕たちのこと
仕事でもプライベートでも、こういう経験ありませんか?
「目標を達成したのに、なぜかまだ走り続けている」
たとえば、営業目標を達成した。 それ自体はめちゃくちゃ嬉しい。
でも、達成した翌日にはもう「次の目標」が設定されていて、喜びに浸る暇もなく次のレースが始まる。
しかも、今度はもっと高い数字を求められる。
「もっと上を目指せ」 「まだまだやれるだろ」 「ここで止まったら終わりだぞ」
……え、いつ終わるのこれ?
目的を果たしたら、それでいいはずなんです。 本来は。
でも人間って、目的を果たした先にある「余計なもの」をつい追いかけてしまう。
もっと評価されたい。 もっと称賛されたい。 もっと「すごい」と思われたい。
それって、もはや当初の目的とは全然違うものですよね。
やりすぎることは、足りないことと同じくらい良くない。
ある時ふと、そう思ったんです。
引き際を見失う理由——手放すのが怖いだけだった
歴史上の有名人を見ても(いや、別にそんなに詳しくないんですけど)、トップに立った人が引き際を誤る話って、めちゃくちゃ多い気がしません?
政治家でも経営者でもアスリートでも、「もうここで十分だろう」ってところからさらに突き進んで、結局すべてを失ってしまうパターン。
あれ、なんでだろうって考えたんですよ。
結論から言うと、たぶん**「手放すのが怖い」**んだと思う。
やっとの思いで手に入れたものを、手放したくない。 できる限り長く、しがみついていたい。
その気持ちは、正直僕にもわかります。 だってめちゃくちゃ頑張って手に入れたものですからね。
でも、しがみつけばしがみつくほど、かえって失うものが大きくなる。
仕事を成し遂げたなら、潔く身を引く。 それが一番きれいな形なのかもしれない。
……とか言いつつ、僕はコンビニのポイントカードすら手放せないんですけどね。(どの口が言ってるんだ)
自分を客観的に見ることの、恐ろしいほどの難しさ
引き際を誤るもう一つの理由が、自分を客観的に見られないことだと思います。
自分の能力、体力、精神力、見た目、話し方。
これらが以前と比べてどれくらい変わっているのか、自分ではなかなか気づけない。
特に立場や年齢が上がると、周りは本音を言ってくれなくなる。 みんな気を遣って、正直なフィードバックを控えるようになる。
結果、「自分はまだまだやれる」と思い込んで、ズルズルと居座り続けることになる。
他人のことがわかる人は、たしかに優秀だと思う。 でも、自分のことをちゃんとわかっている人は、もっとすごい。
人に勝つのは力がある人かもしれないけど、自分に勝てる人が、本当に強い人なんじゃないかな。
……これ、誰かの名言っぽく聞こえるかもしれないけど、夜中に布団の中でぼんやり考えてたら出てきただけです。信じてください。
自分を大きく見せようとして、僕はずっと消耗していた
これ、すごく恥ずかしい話なんですけど。
僕、わりと長いこと「自分を大きく見せよう」として生きてきたんですよね。
会議では、わかってなくても「わかってます」って顔をする。 飲み会では、大して読んでない本の話を知ったかぶりで語る。 SNSでは、充実してる風の写真を選んで投稿する。
つま先立ちで、ずっと背伸びし続けている感じ。
当然ですけど、つま先立ちで長く立ち続けるのは無理なんですよ。 足がプルプルしてきて、最終的に倒れる。
焦って先を急ぐ人は、結局遠くまで行けない。 自分の行動を「これは正しい」と言い張る人ほど、周りから認められない。 才能があると過信する人は、長続きしない。
なんか、全部心当たりがあって笑えない。
「すごいと思われたい」の正体
自己顕示欲って、たまにエネルギーになることもあるんですよ。
「認められたい」「評価されたい」という気持ちが、頑張る原動力になることは確かにある。
でもあるとき気づいたんです。
自己顕示欲を原動力にして手に入れたものって、長続きしない。
なぜかっていうと、「すごいと思われたい」が満たされても、次はもっと大きな「すごい」を求めてしまうから。
財産が欲しい。地位が欲しい。名誉が欲しい。
これらって、作りすぎて無駄になったご馳走みたいなもので。
食べきれないのに、まだ作り続けている状態。
余計な贅肉みたいなもんだなと思ったんです、自己顕示欲って。
切り落としたほうが、身軽に動ける。
知識が増えるほど動けなくなるパラドックス——情報を「捨てる」勇気
もう一つ、最近考えたことがあります。
知識が増えれば増えるほど、かえって動けなくなること。
情報をたくさん集めて、あれこれ分析して、リスクを考えて……。 その結果、「結局何が正解なの?」ってなって、何もできなくなる。
知識はあるに越したことはない。 でも、あればあるほどいいかっていうと、必ずしもそうでもない。
有り余る知識のせいで行動できなくなったり、 考えすぎて決定的なチャンスを逃したり。
特に今の時代、スマホを開けば無限に情報が流れ込んでくる。
そのせいで余計に不安になったり、ストレスを感じたりしている人、かなり多いんじゃないでしょうか。
余計な知識を手放すことができたら、余計な悩みも減るんじゃないか。
そう考えたとき、ちょっとだけ肩の力が抜けた気がしました。
本当にすごい人は、たぶん目立たない
ここからは、リーダーシップについて夜中に考えたことを書きます。
(「いや、お前がリーダーシップ語るの?」って思いますよね。僕も思います。でも書きます。)
世の中で「すごいリーダー」って聞くと、カリスマ性があって、ぐいぐい引っ張っていくタイプを想像しませんか?
でも僕は、本当にすごいリーダーって、たぶん誰にも意識されない人なんじゃないかと思うんです。
存在を意識されない指導者。
……これだけ聞くと「いや、それ意味あるの?」って感じですよね。
でも、考えてみてほしいんです。
人の見えないところで問題を未然に防いで、恩恵を施して、でも手柄は主張しない。 感謝もされないし、目立たない。 それでも常に悠然と構えている。
そういう人がいちばん上にいる組織って、部下は「自分がやるべくしてやった」と自然に思えるんですよね。
それ、すごくないですか?
「何もしない」は「何もしていない」とは違う
ここ、大事なポイントだと思うんです。
「干渉しない」と「放置する」は全然違う。
小魚を煮るとき、下手にかき回すと身が崩れて食べられなくなる。 でも、火加減は見てないといけない。
リーダーも同じで、あれこれ口出ししすぎると、かえって現場が混乱する。
過干渉って、仕事でも教育でも恋愛でも、だいたい悪い結果を招きますよね。
良かれと思って口を出したのに、相手の成長を阻害してしまった。 関係にヒビが入ってしまった。
余計な口出しをしないことは、「何もしない」こととは違う。
それは「信じて任せる」ということだと思うんです。
禁止事項が増えるほど、人は貧しくなる
これも感覚的な話なんですけど。
ルールや禁止事項が増えれば増えるほど、人ってかえって窮屈になって、創造性を失う気がするんです。
「あれもダメ、これもダメ」って言われ続けたら、最終的に何もしなくなるのが人間じゃないですか。
規則でがんじがらめにするより、緩やかに自主性を引き出す方が、組織も人もうまく回る。
「私が何もしないと、みんな自然とうまくやる」 「私が事を起こさないと、みんな自然と豊かになる」
……なんか、究極のミニマリスト経営みたいですけど。
でも、必要最低限のことだけをして、あとは自然に任せるっていうのは、リーダーに限らず生き方全般に言えることかもしれません。
「もう、これで十分だ」と思えたら——足るを知るということ
人間の欲望って、終わりがないんですよね。
何かを手に入れると、一瞬は満足する。 でもしばらくすると、**「次はもっと大きなものを」**って思い始める。
新しいスマホを買った。嬉しい。 でも半年後には、次のモデルが気になっている。
給料が上がった。嬉しい。 でもすぐに、もっと上の年収帯が気になり始める。
この無限ループ、いつ終わるんだろう。
あるとき、こんなことを思ったんです。
終わりのない欲望を100%満たそうとするんじゃなくて、自分にとっての「適量」が満たされていれば、もうそれで十分じゃないかって。
「足るを知る」ってやつです。
命さえあれば、もう十分。 そう思って生きていれば、長くこの世を楽しめる。
……なんて、悟ったようなことを言いつつ、Amazonのタイムセールでうっかりポチってしまう自分がいるんですけどね。人間だもの。
消費社会の中で「適量」を見失う僕たち
ただ、現代って欲望が刺激されやすすぎるんですよ。
SNSを開けば、誰かの「いい暮らし」が目に飛び込んでくる。 広告は24時間、**「あなたにはこれが足りない」**と囁いてくる。
自分が本当に欲しいものと、外から刺激されて欲しくなったものの区別がつかなくなる。
自分にとっての「適量」が、どんどんわからなくなっていく。
これ、結構深刻な問題だと思うんです。
たまには外の刺激を断って、自分の欲望をじっくり眺めてみる
だからたまには、意図的に外からの情報を断つ時間を作ってもいいんじゃないかと思います。
スマホを置いて、SNSを閉じて、広告のない場所で。
「今、自分は本当に何を求めているんだろう」
じっくり考えてみる。
すると、意外と**「別に、今のままで十分かもしれない」**って思えたりするんですよ。
僕もたまにやるんですけど、半日くらいスマホを触らないだけで、驚くほど心が静かになる。
あの焦燥感って、大半は外からの刺激によって作られたものだったんだなって気づく。
……ま、半日が限界で、夕方にはまたスマホ握りしめてるんですけどね。修行が足りない
水みたいに生きたい——柔らかさが最強だった話
ある日、台所で洗い物をしていたとき。
蛇口から出る水をぼんやり眺めていて、ふと思ったことがあります。
水って、すごくないですか?
(いきなり何言ってんだコイツ、って感じですよね。わかります。でも聞いてください。)
水は、自己主張しない。 他者と争わない。 障害物があれば、避けて通る。 重力に従って、高いところから低いところへ流れる。
どれだけ汚いところに溜まっても、文句を言わない。 どれだけ周りを潤しても、偉ぶらない。
それでいて、岩を砕き、地形を変えるほどのパワーを持っている。
柔らかくて弱いものが、硬くて強いものに勝つ。
そんなこと、誰でも知っている。 でも、実行できる人は極めて少ない。
……なんか、すごく大事なことを言われている気がしたんです。水に。
正論で人をねじ伏せるより、まず受け止めたほうがうまくいく
これ、人間関係でも同じだと思うんですよ。
正論を振りかざして、相手を理屈でねじ伏せようとする。
はい、僕のことです。
「こっちが正しいんだから」って思って、ガチガチに主張する。
でも、それでうまくいったことって、正直ほとんどない。
むしろ、まず相手の立場を理解しようと柔軟な姿勢を見せた方が、物事が良い方向に進むことの方が圧倒的に多い。
大きな海が何百もの河川の王者になれるのは、どの川よりも低い場所にいるから。
汚い水も、きれいな水も、分け隔てなく受け止めている。
へりくだって受け止めることで、結果的にいちばん大きな存在になっている。
それって、なんか……すごくかっこいいなって思いません?
無理に戦わなくても、勝てる方法がある。 それが「水のような生き方」なんだと、最近は思っています。
弱くて柔らかいことは「生きている」証拠
もう一つ、水について考えていて面白いなと思ったことがあります。
人間も植物も、生きている間は柔らかい。 でも、命が尽きると固く硬直する。
赤ちゃんはふにゃふにゃで柔らかい。 若い植物はしなやかに揺れる。
でも枯れた木は硬くなって、折れやすくなる。
つまり、柔らかいことは「生きている」ということ。 硬いことは、ある意味「死に近い」ということ。
もしそうだとしたら、柔らかくて弱い存在でありながら、生命力に溢れている赤ちゃんが、ある意味いちばん理想的な人間の姿なんじゃないかって思えてくるんです。
無知無欲。 でも、エネルギーに満ちている。
「弱いからダメ」なんじゃなくて、「弱いからこそ強い」。
この逆転の発想が、僕にはすごく新鮮でした。
持っているものが、自分を苦しめることもある
最近、SNSを見ていてよく思うことがあります。
「持っている人」が、必ずしも幸せそうに見えない。
美しい容姿を持つ人が、嫉妬の対象になって潰される。 突出した才能を持つ人が、誰にも理解されずに孤立する。
トラやヒョウが美しい毛皮のせいで狩られるように、 猿や猟犬が賢さや俊敏さのせいで捕らわれるように、
生まれ持った才能が、かえってその人を苦しめることがある。
これ、人間社会でも全く同じですよね。
豊かな才能を持つ人が周囲から嫉妬を買って潰されたり、 理解されずに孤立してしまうのは、よく見られる光景です。
「幸せに見える人生」と「幸せな人生」は別物
世の中の常識、規範、評価基準。
これらって、見る角度やタイミングによっては、全くのデタラメだったりするんですよね。
人間の幸せを保証してくれる絶対的な条件なんて、たぶん存在しない。
そして何より、他人から「幸せだね」と思われる人生と、自分が「幸せだ」と感じる人生は、全くの別物です。
年収が高くても、心がカラカラの人はいる。 恋人がいても、孤独を感じている人はいる。 SNSでキラキラしていても、夜中に一人で泣いている人はいる。
たった一つの物事や基準に執着して、見栄を張ったり、嫉妬したり、健康を犠牲にしてまで何かを手に入れようとすることに、果たしてどれほどの意味があるのか。
そう考えると、ちょっとだけ肩の力が抜ける気がしません?
失敗も劣等感も、捉え方次第でひっくり返せるかもしれない
逆に言えば、今抱えている失敗や劣等感も、見方を変えれば全部プラスに反転させられるかもしれないってことです。
失敗したから、人の痛みがわかるようになった。 劣等感があるから、謙虚でいられる。 持っていないから、執着しなくて済む。
「持っていないこと」が、実は最大の強みだったりする。
……いや、これは自分に言い聞かせてる面も正直ありますけどね。 給料日前の財布の中身を見ながら「持っていないことが強み……持っていないことが強み……」ってブツブツ唱えてます。
(嘘です。さすがにそこまではしてない。たぶん。)
答えは出ないけど、少し息がしやすくなった
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
長々と書いてしまいましたが、まとめるとこんな感じです。
「無理しない生き方」のエッセンス:
- この世界には人間が操作しなくても回っている大きな流れがある
- 目的を果たしたら、それ以上を求めすぎない
- 自分を大きく見せようとする「余計な贅肉」は切り落とす
- 情報を減らすだけで、心は驚くほど静かになる
- 本当に優れた人は目立たない
- 「もうこれで十分だ」と思えることが、いちばんの豊かさ
- 水のように柔らかく、低いところに身を置く生き方が最強
- 持っていないことが、強みになることもある
……正直、この記事を書き終えた今も、僕は「無理しない生き方」を完全に実践できているわけじゃありません。
明日もたぶん、SNSを見て焦るし、 会議では知ったかぶりをするし、 Amazonのセールでポチってしまうと思います。
でも、「無理しなくてもいいんだ」という選択肢があることを知っているだけで、少し息がしやすくなる。
答えは出ないまま。 でも、柔らかく、流れるように。
僕はこのまま、分からないまま生きていこうと思います。
もしこの記事が、あなたの「モヤッとした夜」に少しでも寄り添えていたら、それだけで十分です。



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