ある夜、「努力を捨てろ」と言う動画を見てしまった
深夜1時、YouTubeをダラダラ見ていた。
アルゴリズムに流されて、ある動画に辿り着いた。タイトルは忘れたけど、内容は**「努力なんか捨ててしまえ」**みたいな話でした。
頑張ることは時代遅れだ、もっと楽に生きろ、寝る前の3分で人生が変わる、みたいなことを言っていた。
見ている途中で、僕は半笑いになっていました。
「いやいや、そんな都合のいい話あるわけ……」
スピリチュアルっぽい雰囲気とか、断言しすぎる語り口とか、全部が胡散臭かった。僕はこういう「目覚めよ」系の話が昔から苦手です。何かを分かった気になっている人を見ると、反射的に距離を取りたくなる。
だから動画を閉じて、寝ました。
……のに、翌日もなぜかその言葉が頭に残っていたんです。
「努力すれば報われる」って、本当なのかな、って。
今日はその話を書きます。動画の内容に賛成しているわけじゃない。ただ、あの胡散臭い動画の奥に、ちょっと無視できない何かがあった気がして、それを言葉にしてみたいだけです。
頑張っている人ほど、疲れている気がする
動画を閉じた後、自分の周りを思い返してみました。
会社で一番頑張っている先輩。朝早く来て夜遅くまで残って、休日も家で資料を作っている人。その人、めちゃくちゃ疲れた顔をしています。給料が飛び抜けて高いわけでもない。
逆に、いつも定時で帰っている同僚。なんとなく飄々としていて、でも仕事はちゃんと回っている。その人の方が、なぜか表情が軽い。
「努力した人が一番幸せそう」という方程式が、現実では成立していない気がしたんです。
もちろん努力して成功している人もいます。それは本当です。でも一方で、めちゃくちゃ頑張っているのに報われていない人もたくさんいる。
「努力の量」と「報われる量」が、素直に比例していない。
これに気づいたとき、ちょっとゾッとしました。
だって僕らは小さい頃から「頑張れば報われる」と言われて育ってきたから。それが前提として体に染み込んでいる。でもよく見ると、その前提、証拠があんまり積み上がっていない。
いや、努力が無駄って言いたいわけじゃないんです。努力しないよりは、した方がいい場面は当然ある。
ただ、「努力すれば必ず報われる」という言い方は、たぶん盛りすぎなんですよね。
報われた人は「努力したからです」と語る。報われなかった人の声は、あまり表に出てこない。だから僕らの耳に届くのは、成功した側の話ばかりになる。
そうやって「努力=報われる」という物語が、実際以上に強く信じられている気がします。
本当は、もう少し運とかタイミングとか、そういうどうにもならないものが大きいのかもしれない。
「もっと頑張れ」という呪いみたいな言葉
そこから連想で、別のことを考えました。
僕らの頭の中って、だいたい**「もっと頑張れ」の声**が鳴り続けていませんか。
仕事でちょっと成果を出しても「まだ足りない」。休んでいても「休んでいる場合じゃない」。満足しかけると「満足したら終わりだ」。
この声、どこから来ているんだろう。
たぶん親、学校、会社、世の中全体から、少しずつ染み込んできたものなんだと思う。誰か一人が悪いわけじゃない。でも、気がついたら自分の内側に居座って、ずっと僕を追い立てている。
「もっと頑張れ」は、応援の顔をしているけど、実はわりと呪いに近いんじゃないかと思いました。
前回の記事で、僕は「不完全でいい」ということを書きました。完璧じゃなくていい、ズレがあるから愛とか優しさが生まれる、みたいな話。
それとこの話は、たぶん繋がっています。
「もっと頑張れ」の裏には「今の自分じゃ足りない」という前提がある。今の自分を不足として扱うから、努力で埋めなきゃと思う。
でも、不完全でいいって思えたら、埋める必要がなくなる。
動画の「努力を捨てろ」はさすがに言いすぎだと思うけど、「もっと頑張れ」の呪いを一回外してみるくらいは、やってもいいのかもしれない。
寝る前の時間は、意外と効いている気がする
動画の中で一個だけ、妙に引っかかった話があります。
「寝る前の時間の使い方で、翌日が変わる」みたいな話でした。
これもスピリチュアルっぽく言われると胡散臭いんですけど、自分の経験と照らし合わせると、わりと当たっている気がしたんです。
不安なニュースを見ながら寝た日。SNSで誰かと口論した夜。嫌なことを反芻しながら布団に入った日。
翌朝、だいたい機嫌が悪いんですよね。
逆に、ゆるい動画を見てちょっと笑ってから寝た日とか、布団の中で「今日のあれは良かったな」と思いながら目を閉じた日は、翌朝の気分がまあまあいい。
これ、気のせいかもしれない。でも、少なくとも僕の感覚では、そこそこ再現性がある。
宇宙がどうとか潜在意識がどうとか、そういう説明は僕にはできません。
でも**「寝る直前の気分は、次の日に尾を引く」**というのは、ただの観察として、なんとなく認めざるを得ない気がしました。
じゃあ、寝る前にスマホでネガティブなニュースを延々見るのって、たぶん自分にあまり良くないんだろうな、と。
これは動画の主張を丸呑みしているわけじゃなくて、僕自身の生活の中で気づいたこととして、書いています。
違和感を無視しすぎてきた気がする
もう一つ、引っかかった話があります。
「違和感を感じたら逃げろ」「直感を信じろ」みたいな話。
これもスピリチュアル寄りの文脈で言われると警戒するんですけど、**自分の人生を振り返ると、後悔していることの多くは「違和感を無視した場面」**だったりします。
この人なんか合わないな、と思いながら関係を続けた。 この職場、空気が重いな、と感じながら何年もいた。 この話、なんか引っかかるな、と思いながら頷いた。
全部、後から「あのとき違和感があったんだよな」と思い出す。
違和感って、言語化できない情報なんだと思う。
論理で説明できないから、つい「気のせいかも」で片付けてしまう。でも体の方は、言葉になる前に何かを察している。
僕はこれまで「空気を読む」ことを重視しすぎて、自分の違和感を後回しにしてきた気がします。
もう少しだけ、違和感を大事にしてもいいのかもしれない。
もちろん、違和感を全部信じたら社会生活が回らないので、バランスは必要です。でも、今までのバランスは明らかに「違和感を殺す方」に寄りすぎていた。
ここは、認めようと思いました。
孤独は、思っていたより悪くないかもしれない
最後にもう一つだけ。
動画では「孤独を愛せ」的な話もされていました。正直これも反射的に「出た、孤独マウント」と思いました。孤独を美化する話は、強がりのことが多いから。
でも、最近の自分の生活を振り返って、一人で過ごす時間が案外悪くないとは思っていました。
週末、誰とも会わずに家でダラダラしていた日。何もしていないのに、なぜか気分が少し回復する。
逆に、予定をパンパンに入れて色んな人に会った週末は、月曜に疲れが残っている。
人といるのが嫌いなわけじゃないんです。好きな人といる時間は大事にしたい。でも、一人の時間がないと、自分の考えが自分の中で育たない感じがある。
他人の声ばかり聞いていると、自分の違和感も、自分の願いも、薄くなっていく。
孤独を美化したいわけじゃないです。ただ、孤独を怖がりすぎなくていいかもしれないとは思った。
誰かといない時間は、空白じゃなくて、たぶん仕込みの時間なんですよね。
情報を入れすぎると、たぶん疲れる
もう一つ、最近よく思うことを書きます。
電車に乗っている時間、休憩時間、寝る前の時間。気がつくと、ずっとスマホを見ている自分がいます。
ニュース、SNS、誰かの切り抜き動画、知らない人の炎上、見知らぬ人の投稿。
面白いわけでもないのに、指がスクロールを止められない。
ある日ふと気づいたんです。**「情報を入れれば入れるほど、疲れているな」**と。
知識が増えて賢くなっているならいいんですけど、そんな感じもしない。ほとんどの情報は、次の日には忘れている。自分の生活には何の関係もない他人の言い争いを見て、なぜか疲れている。
これ、たぶん入れすぎなんですよね。
頭の中のスペースって、たぶん有限で。余計なものが詰まると、自分の考えるスペースが減っていく。
最近、意識的にスマホを遠ざけて、何もしない時間を作るようにしています。
電車の中で窓の外を見るとか、食事中にテレビを消すとか、そういう小さいことです。
そうすると、不思議なことに、頭の中が少し静かになる。
忘れていたことを思い出したり、何か書きたいことがふわっと湧いてきたり。情報を入れるのをやめたら、自分の中から何かが出てくるスペースができた感じ。
これも動画の言ってることと近い話なんですけど、僕の場合は大きい説明は要らなくて、ただ頭の中の騒音が減ったという、地味な体感です。
それくらいのサイズで、受け取っておきたいと思います。
でも、「努力を捨てろ」は言い過ぎだと思う
ここまで書いてきて、動画の言っていたことにいくつか頷けるポイントはありました。
でも、やっぱり**「努力を捨てろ」は言い過ぎ**だと思います。
だって、好きなことを続けるのだって努力だし、人間関係を丁寧にするのだって努力だし、寝る前に不安を反芻しないように工夫するのだって、ある意味で努力です。
努力を全部捨てたら、たぶん生活が崩れる。
じゃあ何が違うのか、と考えたんですけど。
たぶんこういうことです。
「もっと頑張れ」の呪いに追い立てられた努力は、疲弊する。 でも「これ、やりたいな」から出てきた行動は、努力という感じがしない。
同じ「動いている」でも、出どころが違う。
動画の人が言いたかったのは、たぶん前者の努力のことで、僕もそれには同意です。
でも「努力」という言葉を全部ひっくるめて捨てろと言うと、大事な部分まで捨てることになる。
だから僕の着地は、「努力を捨てる」じゃなくて、**「呪いの方の努力と、自発的な行動を、少しずつ見分けていく」**くらいが、ちょうどいい気がします。
結局、努力すれば報われるかは分からない
長くなりましたけど、最初の問いに戻ります。
「努力すれば報われる」は本当なのか。
正直、分からない。
報われている人もいるし、報われていない人もいる。努力の方向が合っていれば成果が出ることもあるし、方向がズレていたらどれだけ頑張っても届かないこともある。
「努力=必ず報われる」という素直な方程式は、たぶん成立していない。
でも、だからといって「努力なんか無駄」とも言い切れない。動かないと何も変わらないのは確かだから。
じゃあどうするのか。
今の僕が思うのは、こういうことです。
結果が約束されていないことを引き受けたうえで、それでも動くかどうかを自分で決める。
報われるから動くんじゃなくて、動きたいから動く。報われたらラッキーだし、報われなくても自分が選んだことだから諦めがつく。
そのくらいの温度感で、努力と付き合っていきたい気がします。
動画の「努力を捨てろ」は受け取れないけど、「努力すれば報われる」という信仰からは、そろそろ降りてもいいのかもしれない。
そう思えただけでも、今夜の胡散臭い動画を見た甲斐はあった気がします。
分からないまま、明日もそこそこ頑張る
今夜も答えは出ませんでした。
努力が報われるのか、頑張ることが正解なのか、違和感を信じるべきなのか、孤独は味方なのか。
全部、完全には分からない。
ただ、「もっと頑張れ」の声をそのまま信じなくていいくらいのことは、なんとなく分かった気がします。
明日もたぶん僕は、そこそこ頑張るんだと思う。完全には力を抜けないし、そもそも抜き方もよく分からないから。
でも、少しだけ**「報われるかどうかに振り回されない」**感覚で仕事をしてみようと思います。
動画の言う通りにはならないし、胡散臭さも消えないけど、一部分だけはこっそり持ち帰って、こっそり試してみる。
そのくらいの距離感が、僕には合っている気がしました。
全部信じる必要も、全部捨てる必要もない。
誰かの言うことを丸ごと取り込むと、たぶん自分の形が歪む。でも全部はねつけると、変わるきっかけも失う。だから、「ここは使えるかも」「ここは違うな」って、少しずつ選り分けながら受け取る。
これは動画の話に限らず、自己啓発とか、人生論とか、そういうもの全部との付き合い方として、僕なりに落ち着いた距離感です。
今夜は、不安なニュースは見ずに寝ます。
それだけでも、たぶん明日の僕は、ちょっと楽です。
答えは出ないまま、今夜も眠ります。
分からないまま生きていくのが、やっぱり一番、僕には合っている気がしました。



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