見たことのない文字がびっしり並び、その横には、現実にありそうで何という植物なのか分からない絵、星や円を組み合わせた図、液体のようなものに浸かる人物、薬壺らしきものまで描かれている。
これが、いわゆる「ヴォイニッチ手稿」です。
ネットでは「世界でもっとも謎めいた本」「誰にも読めない暗号文書」と紹介されることが多く、ときどき「ついに解読された」というニュースまで出ます。では、結局のところ何が書かれているのでしょうか。
先に答えると、2026年時点でも、本文の意味は学術的に確定していません。ただし、「何も分かっていない本」でもありません。現物の構成、羊皮紙のおおよその年代、近世以降の来歴、文字列に見られる規則性まではかなり調べられています。
ただ、話はここから少し複雑になります。文字列には自然言語を思わせる特徴がある一方、「意味のない文字列でも似た統計的特徴を作れる」という反対研究もあります。つまり、謎は単に「暗号の鍵がまだ見つからない」という話ではないんです。
今回は、イェール大学が所蔵する実物の情報と、言語学・統計・暗号研究をたどりながら、「分かっていること」と「まだ答えがないこと」を分けて見ていきます。
結局、ヴォイニッチ手稿には何が書かれているのか
ヴォイニッチ手稿は、現在イェール大学のバイネッキ稀覯本・写本図書館に Beinecke MS 408 として所蔵されています。同館の公式ページも、文字体系を「unidentified script」、本文を「undeciphered」として扱っています。
なので、「植物の薬効を記した本だ」「女性の身体について書いた医学書だ」「占星術の手引きだ」と、内容を一つに決めることはできません。
ただ、挿絵を見ると、まったく手がかりがないわけでもないんです。イェール大学は、絵の特徴から手稿を大きく六つのまとまりに分けています。植物が中心の部分、天文学・占星術らしき図が並ぶ部分、入浴や水路のようなものと人物が描かれた部分、複雑な円形図の部分、薬草や根と薬壺のようなものが描かれた部分、そして星形の印と短い文章が並ぶ「レシピ」のように見える部分です。
この分類だけ見ると、かなり「中世の医学・薬草・占星術をまとめた実用書」に見えます。
けれど、絵から想像できる内容と、本文を読んで確認できた内容は別です。たとえば、ある植物の絵が薬草に見えたとしても、その横の文章に本当に薬効が書いてあるのかは読めません。星の図があっても、占星術の説明なのか暦なのか、まったく別の仕組みを表した図なのかは確定できません。
この「絵は見えるのに、説明文だけが読めない」という状態が、ヴォイニッチ手稿をややこしくしています。
もし絵も文字も完全に意味不明なら、単なる落書きという説明もしやすいでしょう。反対に、既知の植物名や星の名前が一つでも確実に読めれば、そこを足場に解読を進められます。ところが実際には、その中間にいる。何かを説明していそうなのに、その「何か」が最後までつかめません。
実物を見ると「何の本か」は少しだけ見えてくる
ヴォイニッチ手稿は羊皮紙102葉から成り、その中には複数の折込葉も含まれます。イェール大学の詳細カタログを見ると、ほぼ全体にわたって文字と図が組み合わされていることが分かります。
植物の絵は特に有名です。葉、花、根が大きく描かれ、横には数行から十数行ほどの文字が続きます。薬草図鑑のようにも見えますが、描かれた植物の多くは、現実の植物ときれいに一致しません。複数の植物の特徴を組み合わせたように見えるものもあり、図だけから種を確定するのは難しい状態です。
天文・占星術らしき部分には、太陽や月を思わせるもの、円環、星、黄道十二宮に似た図があります。ここは比較的「何を扱っているか」が想像しやすい場所ですが、やはり本文が読めない以上、図の役割までは決まりません。
さらに奇妙なのが、人物が液体や管のようなものと一緒に描かれた部分です。裸の女性像がいくつも登場し、浴槽のような構造物や、互いにつながった管のような図形が描かれています。医学や入浴療法、生殖、身体内部など、さまざまな解釈が出てきたのも分かります。見れば見るほど「これは何かを表しているはずだ」と思わせるのに、答え合わせができません。
ただ、気をつけたいのは、現代の僕らが「植物図鑑」「医学書」「星占い」といった既知のカテゴリーに当てはめすぎることです。
絵が薬草に似ているから薬草書。円があるから天文学。女性が水に入っているから温泉療法。そう整理すると分かりやすいのですが、分かりやすさと正しさは同じではありません。
僕はヴォイニッチ手稿を見ていると、この罠がかなり強いと感じます。意味が分からないものほど、人は知っている形へ寄せて理解したくなる。だからこそ、図像の分類は「内容の候補」としては使えても、「本文の翻訳」として扱わない方が安全です。
いつ、誰が作った本なのか
ヴォイニッチ手稿についてよくある疑問の一つが、「いったい何年前の本なのか」です。
この点は、本文よりずっと調べやすい部分です。2009年、羊皮紙の一部が放射性炭素年代測定にかけられました。アリゾナ大学のGreg Hodginsによる2009年の測定報告では、複数の試料が15世紀初頭に集中し、4試料の加重平均について 1404〜1438年という95.4%確率の範囲が示されています。
ただし、ここは言い方を間違えると別の話になってしまいます。
放射性炭素年代測定が直接測っているのは、文字が書かれた瞬間ではなく、羊皮紙の原料になった動物が生きていた時期に近い年代です。羊皮紙が作られてから何十年も保管された後に文字が書かれた可能性を、測定だけで完全に排除することはできません。
それでも、少なくとも「古代エジプトの失われた知識を記した本」や「数千年前の文明の遺物」といった話とは合いません。物質としては、中世末期から初期近世へ向かう時代の写本として考えるのが自然です。
では作者は誰なのか。
ここは分かっていません。
かつては13世紀の学者ロジャー・ベーコンの名も候補として語られました。イェール大学に残る1666年のヨハネス・マルクス・マルチからアタナシウス・キルヒャーへの書簡には、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世がこの本を高額で購入し、ベーコンの作品だと考えていたという伝聞が記されています。しかし、羊皮紙の年代はベーコンの時代より後です。現在では、ベーコン著者説をそのまま採用するのは難しいでしょう。
確実性の高い来歴は、17世紀以降になるほど増えていきます。のちに本はキルヒャーのもとへ渡り、1912年に古書商ウィルフリッド・ヴォイニッチがローマ近郊のイエズス会関係施設から購入しました。現在の「ヴォイニッチ手稿」という呼び名は、このヴォイニッチの名前から来ています。
つまり、「作者は不明」ではありますが、「どこからともなく20世紀に突然現れた偽物」というわけでもありません。少なくとも近世までたどれる物理的な本が、実際に残っている。この点は、都市伝説として語るときにも大事な線引きです。
なぜ600年近く読めないのか
では、なぜこれほど長く読めないのでしょう。
単に暗号が難しいから、と言ってしまうと少し足りません。
普通の暗号解読なら、まず「元の言語は何か」「どんな種類の暗号か」「同じ記号は同じ文字に対応するか」といった仮定を置きます。ところがヴォイニッチ手稿は、その出発点から怪しい。
文字の形は既知のラテン文字と似たものもありますが、全体としては独自の体系です。研究者は分析のために記号をアルファベットへ置き換えて転写していますが、それは「この記号はaの音」という意味ではありません。あくまで同じ形を数えたり比較したりするためのラベルです。
さらに、元の言語も分かっていません。ラテン語、ロマンス諸語、ゲルマン系、セム系、人工言語など、長いあいだ多くの候補が提案されてきましたが、全文へ安定して当てはまるものはありません。
そもそも、本当に「既知の言語を暗号化したもの」なのかどうかさえ確定していません。
これが、解読を難しくする大きな理由です。
暗号なら鍵を探せばいい。未知の言語なら文法や語彙の対応を探せばいい。人工的に作った文章なら、その生成規則を探す必要があります。意味のない文字列なら「翻訳」そのものが存在しないかもしれません。
候補が多いだけでなく、候補ごとに解き方まで変わってしまうんです。
そして、確実な対訳資料もありません。ロゼッタ・ストーンのように、同じ文章が既知の言語でも書かれていれば事情はまったく違ったでしょう。ヴォイニッチ手稿には、そうした決定的な足場がありません。
それでも何世代もの暗号研究者や言語研究者が挑み続けてきたのは、文字列が完全な無秩序には見えないからです。
文字列は「本物の言語」らしいのか
文字列の分析に入ると、ヴォイニッチ手稿の別の顔が見えてきます。
本文は読めないのに、文字列を数えることはできます。
どの「単語らしきまとまり」が何回出るのか。どの文字が語の先頭や末尾に出やすいのか。特定の語同士が同じ場所に集まりやすいのか。ページや区分が変わると頻度がどう変わるのか。意味を知らなくても、こうした特徴は調べられます。
2013年、Marcelo A. MontemurroとDamián H. ZanetteはPLOS ONEの研究で、ヴォイニッチ手稿の語の分布と共起関係を情報理論的に分析しました。すると、離れた位置まで含む語の分布に、実在する言語で見られるような組織だったパターンがあると報告しました。
同じ年、Diego R. AmancioらもPLOS ONEの別研究で、語のつながりをネットワークとして分析しています。その結果、ヴォイニッチ手稿は単純に文字列をランダムにシャッフルしたものより、自然言語のテキストに近い性質を示しました。
こう聞くと、「じゃあ本物の言語じゃないか」と思いたくなります。
この結果だけを見ると、僕にはかなり強い材料に思えます。少なくとも、完全な乱数のように文字を並べただけの文書とは考えにくい。
でも、研究が言っているのはそこまでです。
「自然言語に似た統計構造を持つ」ことと、「自然言語で意味のある文章が書かれている」ことは同じではありません。前者は、意味を読めなくても測れます。後者には、実際の語彙や文法、翻訳可能な内容まで示す必要があります。
2021年のClaire L. BowernとLuke LindemannによるAnnual Review of Linguisticsのレビューも、ヴォイニッチ手稿を自然言語として扱う根拠を整理しつつ、内容そのものは未解読だとしています。
言語らしさはある。でも、何語なのか分からない。何が書いてあるかも分からない。
こうして並べると、謎が一つ減ったようで、別の謎が増えています。
それでも「意味のない文章」説が消えない理由
自然言語らしい統計が見つかっているのに、なぜ「意味のない文字列かもしれない」という説が残るのでしょうか。
理由の一つは、言語らしい統計そのものを人工的に作れる場合があるからです。
Torsten TimmとAndreas Schinnerは、2020年のCryptologia掲載論文で、ヴォイニッチ手稿の語形が、近くにある既存の語を少しずつ変形して作られたのではないかというモデルを提示しました。
ざっくり言えば、すでに書いた「単語らしきもの」を見ながら、文字を足したり消したり置き換えたりして、似た別の語を作っていく方法です。これなら辞書や暗号鍵を持たなくても、一定の規則性を保った長い文章を作れます。
彼らはこの方法で、ヴォイニッチ手稿に見られる統計的特徴の一部を再現できると報告し、「意味のない文字列を生成した偽書」という仮説を支持しました。
これは、先ほどの自然言語らしさを完全に否定する研究ではありません。むしろ、「統計が言語っぽい」という証拠だけでは決着しないことを見せています。
二つの研究は、同じ問いを真正面から争っているわけではありません。
自然言語説の研究は、「ランダムなでたらめでは説明しにくい構造がある」と示す。生成文説の研究は、「意味がなくても、ランダムでない規則を使えば似た特徴を作れる」と示す。
この二つは真正面から同じ実験をしているわけではありません。だから片方を読んで「本物の言語で確定」、もう片方を読んで「全部偽物で確定」とするのは早いんです。
僕が調べた範囲では、現在いちばん安全なのは、「文字列には強い構造がある。ただし、その構造が意味のある言語・暗号・人工的生成のどれによって生まれたのかは未確定」と置くことだと思います。
何度も出る「解読成功」は、なぜ決着しないのか
ヴォイニッチ手稿を調べると、かなり高い頻度で「解読した」という話に出会います。
ある研究者は特定の古語だと言い、別の人は暗号だと言い、また別の人は医学書だ、地図だ、宗教文書だと主張する。近年はAIを使った解析や個人プロジェクトも増えています。
それなのに、イェール大学の現行ページはいまも「undeciphered」と書いています。
なぜでしょう。
僕は、この状況を「学者が新説を認めたがらないから」と考えるより、解読と呼ぶための条件がかなり厳しいからと見る方が自然だと思います。
たとえば、数語だけそれらしい意味に変換できたとします。植物の横にある語を「薬草」、星の横の語を「月」と読めば、絵と文章が一致したように見えるでしょう。
でも、その対応表を別のページへ持っていったとき、同じ記号が同じ規則で読めなければ困ります。都合の悪い箇所だけ別の読み方を追加していけば、かなり多くの文章を「読めたように」することはできます。
本当に強い解読なら、少なくとも次のようなことが期待されます。
同じ規則を、解読に使っていない別のページにも適用できること。文法や語形変化が一貫していること。図像だけを見て後付けした意味ではなく、文字列そのものから予測できること。別の研究者が同じ手順を使って、同じ結果を再現できること。そして、想定した言語の時代や地域が、羊皮紙の年代や写本の来歴と大きく矛盾しないことです。
これはヴォイニッチ手稿だけの特殊ルールではありません。未解読文字を読むとき、都合のいい例だけでなく、読みにくい例まで同じ仕組みで説明できるかを見るのは当然です。
「一部がそれっぽく読めた」と「全文に使える解読体系ができた」の間には、かなり大きな距離があります。
だから、今後また「ヴォイニッチ手稿、ついに解読」という見出しを見かけても、その場で信じる必要も、反射的に笑う必要もありません。何語だとするのか。規則は公開されているか。未知のページでも機能するか。第三者が再現できるか。そのあたりを見ると、話の強さがかなり分かります。
僕は「何が書いてあるか」より、ここが気になる
もちろん、ヴォイニッチ手稿に本当は何が書かれているのかは気になります。
薬草の処方なのか。天体と身体を結びつけた医学なのか。失われた言語なのか。かなり手の込んだ無意味な文章なのか。
ただ、資料を追っていくと、僕は内容そのものと同じくらい、「何をもって読めたと認めるのか」の方が気になってきます。
分からない文書は、解釈の自由度がとても高いです。文字の対応を少し変え、図の意味を少し変え、時代背景を少し変えると、別の物語ができてしまう。しかも元の文章を誰も読めないので、直感的には否定もしにくい。
だから、この手稿では「それらしい説明」より「間違っていたらどこで失敗するのかが分かる説明」の方が強いはずです。
これは僕の考察ですが、ヴォイニッチ手稿の本当の面白さは、謎を永遠に謎のまま守ることにはないと思います。むしろ、現物が残り、全ページの画像が公開され、同じ資料を世界中の人が検証できることにある。
もし明日、本当に一貫した解読法が出て、未知のページでも意味を予測でき、第三者が同じ結果を出せたなら、「謎がなくなって残念」ではなく、そこで初めてこの本の中身について話せるようになります。
今の段階では、そこまで届いていません。
でも「分からない」で終わるのではなく、何が分かっていて、どの証拠がまだ足りないのかまでは見えてきました。僕はその状態の方が、何でも好きな答えを当てはめられる状態より、ずっと面白いと思います。
参考文献・出典
- Yale University Library, Beinecke Rare Book & Manuscript Library, The Beinecke Cipher (Voynich) Manuscript
- Yale University, Beinecke Rare Book & Manuscript Library, Beinecke MS 408: Cipher Manuscript
- Greg Hodgins. “Dating Results for Voynich Manuscript Parchment Leaves 8, 26, 47 and 68.” NSF-Arizona AMS Laboratory, 17 February 2009. https://voynich.nu/papers/Carbon_GH_2009.pdf
- Claire L. Bowern, Luke Lindemann. “The Linguistics of the Voynich Manuscript.” Annual Review of Linguistics 7 (2021): 285–308. https://doi.org/10.1146/annurev-linguistics-011619-030613
- Marcelo A. Montemurro, Damián H. Zanette. “Keywords and Co-Occurrence Patterns in the Voynich Manuscript: An Information-Theoretic Analysis.” PLOS ONE 8(6) (2013): e66344. https://doi.org/10.1371/journal.pone.0066344
- Diego R. Amancio, Eduardo G. Altmann, Diego Rybski, Osvaldo N. Oliveira Jr, Luciano da F. Costa. “Probing the Statistical Properties of Unknown Texts: Application to the Voynich Manuscript.” PLOS ONE 8(7) (2013): e67310. https://doi.org/10.1371/journal.pone.0067310
- Torsten Timm, Andreas Schinner. “A possible generating algorithm of the Voynich manuscript.” Cryptologia 44(1) (2020): 1–19. https://doi.org/10.1080/01611194.2019.1596999



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