何も成し遂げなくても、生きる価値はあるのか?成果と人間の価値を分けて考える

生き方・考え方

「自分は何も成し遂げていない」と思ったとき、そこから「だから自分には価値がない」まで一気に進んでしまうことがあります。仕事で結果を残していない。大きな収入や肩書きも、誰かに誇れる作品もなく、年齢だけは増えていくのに、履歴書に書けるようなものが増えていない。そう考えると、「結局、自分は何のために生きているんだろう」というところまで話が大きくなる。

最初に答えを言うと、成果と人間そのものの価値は、同じものとして扱わなくていいと僕は考えています。ただし、これは「心理学が、人間には無条件の絶対価値があると証明した」という話ではありません。「生きる価値」は科学だけで測れる問いではなく、倫理や哲学、人権の考え方まで含んでいます。

そのうえで研究を見ていくと、少なくとも「成果が多いほど人間として価値があり、成果がないほど価値がない」という単純な式はかなり怪しい。自己価値を成功や評価に強く預けることには不安定さがあり、心の充足や生きる意味も、実績の量だけでは説明できません。

今回は、「何も成し遂げていなくても価値がある」と励ますだけではなく、そもそも僕たちが一つの「価値」という言葉に何を詰め込んでいるのかを分けて考えてみます。

何も成し遂げていないことと「価値がない」は同じではない

まず分けておきたいのは、「成果があるか」と「人間として価値があるか」は、もともと別の種類の評価だということです。

たとえば仕事なら、売上、技術、納期、責任の果たし方などを評価できます。スポーツなら記録や勝敗があり、創作なら作品数や受賞歴、読者数といった指標もあります。こうした成果には確かに意味がありますし、現実の社会では評価や報酬にもつながります。

でも、その評価をそのまま人間全体へ広げると話が変わります。

「今月の仕事はうまくいかなかった」は、ある範囲では事実として評価できます。そこから「だから自分という人間には価値がない」となると、仕事の評価を人間全体の評価へ拡張していることになる。ここには一段、大きな飛躍があります。

心理学が直接研究しているのも、多くの場合は「人間の客観的な価値」そのものではありません。自己評価、自己尊重、幸福感、心理的欲求、生きる意味の感覚など、測定できる心理現象です。2021年のレビュー論文The Science of Meaning in Lifeも、生きる意味を心理学的に扱いますが、「人間の存在価値」を自然科学として証明する論文ではありません。

一方、社会が人間をどう扱うべきかという規範の世界では、別の基準があります。1948年の世界人権宣言は、前文で人類社会のすべての構成員に「inherent dignity(固有の尊厳)」があるという考え方を置いています。ここで尊厳の条件として、収入、肩書き、生産性、学歴、受賞歴は要求されていません。

もちろん、世界人権宣言を出したから「人間の価値は科学的に証明された」とは言えません。これは実験結果ではなく、社会が人を扱ううえで採用してきた規範的な基準です。ただ、少なくとも現代の人権の考え方は、「何を成し遂げたかによって、人として尊重される資格が発生する」という設計にはなっていない。

この区別はかなり大きいと思います。成果は評価されますし、能力には差もあり、責任を果たしたかどうかも問われます。でも、それらの評価と「人として扱われる価値」まで一つの点数にまとめる必要はありません。

なぜ僕たちは「結果が出たら価値がある」と考えやすいのか

それでも実際には、結果が出ないと自分全体が否定されたように感じることがあります。

この感覚を考える手がかりの一つが、心理学でいう contingencies of self-worth です。日本語にすれば、「自己価値が何に条件づけられているか」という考え方に近いでしょう。

Jennifer Crockerらは2003年の研究で、大学生の自己価値が、学業上の能力、競争、他者からの承認、外見、家族からの支え、徳、神から愛されている感覚(God’s love)など複数の領域にどの程度左右されるかを測定しました。

ここで大事なのは、「成果を気にする人はおかしい」という話ではないことです。誰でも自分にとって重要な領域があります。勉強を大事にしている人なら試験結果が気になるし、仕事を大切にしている人なら評価が気になる。それ自体は自然です。

ただ、自分の価値そのものまでその領域に預けると、成功と失敗の意味が重くなります。

試験に落ちたとき、「今回は点が足りなかった」で終わらず、「自分は頭が悪い」「自分には価値がない」まで進む。仕事で評価されなければ、「今回の仕事の評価が低かった」ではなく、「誰からも必要とされない人間だ」と感じる。成果の問題が、存在の問題へ変わってしまいます。

CrockerとLora Parkは2004年のレビューThe costly pursuit of self-esteemで、自己価値を証明しようとする追求が強くなると、脅威を受けた場面で学習、他者との関係、自律的な自己調整などにコストが生じる可能性を論じています。

ただし、この論文には同じ号で複数のコメントが出ており、「自己尊重を求めることをどこまで問題視するべきか」には議論があります。だから、「自己肯定感を求めるのは悪い」と単純化するのは行きすぎです。

僕がこの研究から受け取るなら、問題は「成功したいこと」ではなく、成功しないと自分の価値が成立しない仕組みのほうです。

この仕組みだと、目標は二重の役割を背負います。一つは、本来の目的を達成すること。もう一つは、「自分には価値がある」と証明することです。後者まで乗ると、一つの失敗が必要以上に重くなるのも不思議ではありません。

幸せや心の充足は「実績の多さ」だけでは決まらない

「でも、実際に何かを成し遂げたほうが幸せなのでは?」という疑問は残ります。

これは半分はその通りです。目標を達成できればうれしいし、技術が身につくのも楽しい。仕事がうまくいけば生活が安定することもあります。成果を全部どうでもいいものとして扱う必要はありません。

ただ、心理学でウェルビーイングを考えるとき、成果だけが中心に置かれているわけでもありません。

Richard RyanとEdward Deciが2000年にまとめた自己決定理論のレビューでは、人がよく機能するために重要な心理的欲求として、自律性、有能感、関係性の三つが挙げられています。

自律性は、自分の行動を自分の意思と結び付けて感じられること。有能感は、自分が環境に働きかけ、ある程度うまく対処できる感覚。関係性は、人とつながり、互いに気にかけられている感覚です。

このうち「有能感」だけを見ると、やはり成果が必要に思えるかもしれません。しかし有能感は、「社会的に大きなことを成し遂げた」という意味ではありません。料理が前より少しできる、仕事の一部分を自分で扱える、昨日より理解できる、といった小さな手応えも含む考え方です。

さらにTim KasserとRyanの1996年の研究では、金銭的成功、魅力的な外見、社会的承認といった外発的な目標を相対的に重く置くことと、自己受容、人とのつながり、共同体、健康などの内発的目標を重く置くことでは、ウェルビーイングとの関連が異なっていました。外発的目標が中心なほどウェルビーイングが低い関連、内発的目標が中心なほど高い関連が報告されています。

これは「お金を稼ぐと不幸になる」という研究ではありません。相関を含む研究ですし、対象や時代にも限界があります。収入が生活の安全を支えることも当然あります。

それでも、「社会から分かりやすく評価される成果を増やせば、そのまま人生全体の充足も増える」という考え方には疑問が残ります。人は、何を達成したかだけで動いているわけではなく、自分で選んでいる感覚や、人との関係、自分なりの手応えにも影響されるからです。

たくさん成し遂げていても、自分の意思で生きている感覚がなく、人とのつながりも薄く、評価が下がることだけを怖がっているなら、数字ほど満たされないことはあり得る。逆に社会的には目立つ成果が少なくても、自分で選んだことに少しずつ関われて、人との関係があり、できることが増えているなら、心理的にはかなり違う生活になります。

「生きる意味」も「大きな目標を達成すること」だけではない

「何も成し遂げていない」という苦しさの中には、「自分の人生には意味がない」という感覚も混ざりやすいと思います。

ここでも、意味と業績は同じではありません。

KingとHicksの2021年のレビューでは、生きる意味の研究について、**coherence/comprehension(人生や経験がある程度理解できる感覚)、purpose(向かう方向や目的)、existential mattering/significance(自分の存在が重要だと感じられること)**といった側面が整理されています。

「意味のある人生」と聞くと、壮大な使命を思い浮かべやすいのですが、研究で扱う意味はもっと日常的です。自分の人生が完全な混沌ではなく、ある程度筋が通って感じられること。何かしら向かう先があること。そして、自分の存在が世界や誰かにとってまったく無関係ではないと感じられること。

そのうちmatteringという考え方をもう少し詳しく見ると、さらに面白い区別があります。

Isaac Prilleltenskyは2020年のMattering at the Intersection of Psychology, Philosophy, and Politicsで、matteringを大きく feeling valued と adding value の両面から捉えています。

feeling valuedは、自分が大切にされ、認められ、価値ある存在として扱われる感覚。adding valueは、自分が何かを付け加え、誰かや何かに貢献できる感覚です。

ここで「やっぱり役に立たないと価値がないのでは」と考えたくなるのですが、matteringは貢献だけでは完結していません。自分が価値を加えることと、自分が価値ある存在として扱われることの両方が含まれているからです。

これは僕にとって、今回のテーマを考えるうえでかなり大事なところでした。

「何も成し遂げていなくても価値がある」と言った直後に、「でも誰かの役には立とう」と続けると、成果主義を別の形に着替えさせただけになることがあります。「仕事で結果を出せ」から「誰かに貢献しろ」へ条件が変わっただけで、結局は何かを差し出さなければ存在を認めてもらえない。

人との関係は、交換だけで成り立っているわけではありません。何かをしてもらったから大切なのではなく、その人だから気になるという関係もあります。心理学のmatteringは、それをそのまま哲学的な「無条件の価値」の証明にするものではありませんが、少なくとも「人が意味や重要感を感じる仕組みは、成果の一方向だけではない」と考える材料にはなります。

それでも、何も目指さなくていいという話ではない

ここまで読むと、「では成果なんて気にしなくていいし、何も目指さなくてもいいのか」と思うかもしれません。

僕はそこまでは言えないと思います。

自己決定理論には有能感が含まれていますし、自分で選んだ目標へ取り組み、できなかったことができるようになる喜びは確かにあります。人は何かを作ったり、働いたり、学んだり、誰かを助けたりすることで、自分の生活に手応えを持つことがある。目標や達成まで否定すると、今度は「成長したい」「挑戦したい」という自然な欲求まで悪者にしてしまいます。

分けたいのは、成果を求めることと、成果がなければ人間として価値がないとすることです。

目標の研究を見ても、「一度決めた目標は何があっても達成すること」だけがよい自己調整とはされていません。Carsten Wroschらの2003年の研究では、達成不能になった目標から離れる力と、別の目標へ関わり直す力が主観的ウェルビーイングと関連していました。研究は3つの異なるサンプルを扱っており、「諦めれば幸福になる」と証明したものではありませんが、少なくとも「達成できなかった目標がある=人生の失敗」という見方とは合いません。

目標を続けるか、やり方を変えるか、いったん保留するか、別の方向へ移るか。こうした調整については、このブログの「全部やり直したくなるのはなぜ?『リセット癖』と再出発の境界」でも詳しく扱いました。

成果に価値があるからこそ、達成できなかったときは悔しい。それでいいと思います。ただ、その悔しさを「自分という人間全体の失格」にまで広げる必要はない。目標は目標として評価し直せばよく、自分の存在まで同じ採点表に乗せなくても話は成立します。

自分の価値を「証明する」以外のものさしを持つ

ここまでの資料を一つにまとめると、「価値」という言葉を四つくらいに分けると考えやすくなります。

一つ目は、人としての尊厳です。これは人権の考え方では、成果を出した人だけに与えられるものではありません。仕事ができる日も、できない日も、人として尊重される基準は変えない。

二つ目は、生活の中での成果・能力・責任です。ここは普通に評価されていい領域です。仕事がうまくできなければ改善が必要なこともありますし、約束を守れなければ責任を問われることもある。人の尊厳と分けるからといって、何をしても同じ評価になるわけではありません。

三つ目は、関係の中でのmatteringです。自分が誰かにとって大切だと感じることもあれば、自分が誰かや何かに貢献できたと感じることもある。ここでは「役に立つ量」だけでなく、「価値ある存在として扱われる」という受け取る側も含まれます。

四つ目は、本人が感じる意味や満足です。自分の人生に筋が通っている感覚、向かいたい方向、日々の手応え。これは固定された点数ではなく、時期によって増減してもおかしくありません。

この四つを全部まとめて一つの採点表にすると、かなり苦しくなります。

仕事で失敗した。

本来なら二つ目の「成果・能力」の評価で済む話なのに、そこから一つ目の尊厳まで下げ、三つ目の「誰にも必要とされていない」へ飛び、四つ目の「人生に意味がない」まで連鎖する。こうなると、一件の失敗が人生全体への判決になります。

逆に、分けておけば「今回はうまくいかなかった」「この能力は足りなかった」「この目標はいったん見直そう」と厳しく評価しながらも、自分全体を否定せずに済みます。失敗を甘く見るためではなく、失敗が担当する範囲を広げすぎないための区別です。

「何も成し遂げていない」という感覚も同じです。実際に、望んでいた成果がまだないことはあるでしょう。その悔しさや焦りまで「気にしなくていい」と消す必要はありません。けれど、そこから「だから生きる価値もない」と結論づけるには、成果と人間の価値が同じ尺度だという前提が必要です。そして今回確認した心理学や意味研究、人権の考え方を並べる限り、その前提を当然のものとして受け入れる理由は見つかりませんでした。

ここまで考えて、僕がいちばん使いやすいと思ったのは、「自分を評価しない」ことではなく、いま何を評価しているのかを取り違えないことでした。仕事の失敗なら仕事を、目標に届かなかったなら目標を見直す。そこで話を止めて、人間全体の価値まで同じ評価に巻き込まない。

うまくいかなかった日に「自分は何点なんだろう」と考え始めたら、僕はまず、その点数が何につけられたものなのかを確かめたいと思います。

参考文献・出典

この記事を書いた人
深夜3時の駄貧知 運営者
駄貧知

駄貧知|小説とブログを書く物書き。日常の違和感を出発点に、心理、科学、歴史、都市伝説を研究や史料をもとに調べています。「説は疑う。でも、ロマンまでは捨てない」を基本姿勢に、事実と考察を分けながら、人間や世界の不思議を考えます。

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