「ここまで時間を使ったんだから、今さらやめるのはもったいない」
仕事でも勉強でも創作でも、こう考えることがあります。お金ならまだ数字で見えますが、何十時間、何か月、何年と積み重ねた努力になると、途中で手を止めることにはかなり抵抗があります。続けるのが苦しくても、「ここでやめたら今までが全部無駄になる」と感じやすいからです。
このとき関係してくるのが、行動経済学や意思決定研究でいう**サンクコスト(埋没費用)**です。すでに支払い、いまの選択を変えても取り戻せない時間・お金・労力を指します。
サンクコストの考え方だけを機械的に当てはめれば、過去に使った資源はこれからの判断から外し、今後の費用と便益だけを比べるべきだ、となります。ただ、実生活はそこまで単純ではありません。過去に費やした100時間は戻らなくても、その100時間で身についた技能や知識は残るかもしれません。あと2時間で完成するなら、その「残り2時間」は過去ではなく未来の条件です。
僕が今回の研究を追っていて気になったのは、まさにこの境目です。サンクコストはたしかに研究されてきた現象ですが、「頑張ったから続ける」という行動の全部を一つのバイアスで説明できるわけではありません。
この記事では、もう戻らない過去のコスト、今も残っている価値、これから必要になるコストを分けながら、「ここまで頑張ったからやめられない」という感覚を考えてみます。
「ここまで頑張った」は、これから続ける理由になるのか
サンクコスト研究の古典としてよく引用されるのが、Hal R. ArkesとCatherine Blumerによる1985年の論文「The psychology of sunk cost」です。二人は、金銭・努力・時間を投資したあと、その活動を続ける傾向が高まることをサンクコスト効果として扱いました。
有名なのは劇場のシーズンチケットを使ったフィールド研究です。購入時に支払った金額が高かった客のほうが、その後しばらく劇場へ足を運ぶ回数が多いという結果が報告されています。すでに支払ったチケット代は、劇場へ行っても行かなくても戻ってきません。それでも支払額の違いが、その後の行動に影響していました。
経済学的に考えると、少し奇妙です。たとえば、ある資格の勉強にすでに300時間使ったとしても、その300時間は続けてもやめても戻りません。今日の時点で考えるべきなのは、これから必要な勉強時間、合格できる見込み、資格を取ることで得られる価値、別のことに時間を使った場合の価値です。
ここで大事なのは、「過去の努力には意味がない」と言っているわけではないことです。
過去の300時間そのものは戻りません。しかし、その時間で身につけた知識は残っているかもしれない。勉強を続けた結果、自分がどれくらい試験に向いているかも分かってきたかもしれません。そうした現在に残っている技能や情報まで無視する必要はありません。
2015年にStefan Roth、Thomas Robbert、Lennart Strausが発表したメタ分析では、1976年から2013年までの研究から98の効果量をまとめ、経済的意思決定におけるサンクコスト効果には全体として肯定的な証拠があると報告しています。ただし、すでに買ったものを「使うか」という判断と、さらに資源を投入して「先へ進めるか」という判断では、効果や影響する要因が同じではありませんでした。
つまり、「人は過去の投資に引っ張られることがある」という大枠には根拠がありますが、どんな状況でも同じ強さで働く一枚岩の心理ではないようです。
「ここまで頑張った」は、過去を振り返る言葉です。続ける理由を考えるなら、その後ろに「だから、これから何が得られるのか」が必要になります。
なぜ人は「無駄にしたくない」と思うほど続けてしまうのか
頭では「過去は戻らない」と分かっていても、それだけで簡単に切り替えられるなら、サンクコストという言葉がここまで知られることもなかったはずです。
ArkesとBlumerは、サンクコスト効果の背景として「無駄にしたと思いたくない」という心理を重視しました。途中でやめると、それまでに払ったものが急に「無駄だった」と確定するように感じる。続けている間は、まだ回収できる可能性が残っているように見えます。
たとえば、完成の見込みが薄くなった仕事の企画に、すでにかなりの予算を使っているとします。ここで止めれば損失ははっきりしますが、追加予算を出せば「まだ成功するかもしれない」。その期待自体が根拠のあるものなら問題ありません。しかし、成功可能性が低いと分かっているのに、過去の損失を認めたくないことが追加投資の主な理由になれば、判断は別の方向へずれていきます。
この話と近い研究領域に、エスカレーション・オブ・コミットメントがあります。Barry M. Stawは1976年の研究で、240人のビジネススクールの学生を対象に投資判断のシミュレーションを行いました。その結果、悪い結果が出たときでも、以前の決定に自分が責任を負っている条件では、その方針へさらに資源を投入する傾向が強くなりました。
サンクコスト効果とエスカレーション・オブ・コミットメントは同じ概念ではありません。前者は過去に費やした回収不能なコストの影響、後者は自分が選んだ方針への責任や自己正当化なども含む、より広い継続投資の問題です。ただ、現実の「やめられない」では両方が重なることがあります。
「お金を使ったから」だけではなく、「自分で決めたから」「間違いだったと認めたくないから」「ここまで耐えた自分を否定したくないから」。こうなると、判断の対象は企画や勉強そのものだけではなく、自分自身の過去の選択にまで広がります。それなら、やめにくくなるのも不思議ではありません。
ただし、サンクコストの原因を「損失回避」や「自己正当化」の一つだけに決めてしまうのも慎重であるべきです。研究では、無駄を避けたい感覚、心理的な会計、後悔、損失の感じ方など、複数の説明が検討されています。サンクコスト効果が観察されることと、その心理メカニズムが一つに確定していることは別の話です。
お金よりややこしい「時間と努力」のサンクコスト
この記事のタイトルにある「ここまで頑張った」を考えるとき、金銭より難しいのが時間と努力です。
お金なら、「すでに払った1万円」と「これから払う1万円」を比較しやすい。ところが時間や努力には、その途中で得た技能や経験が混ざります。しかも「ここまで来た」という進捗そのものが、完成までの距離を変えています。
2021年のDavid Ronayne、Daniel Sgroi、Anthony Tuckwellによる「Evaluating the sunk cost effect」では、参加者が実際の作業によって獲得したくじを、明らかに条件のよいくじへ交換できる状況が用意されました。それでも23%の参加者が、努力して得た元のくじを保持しました。これは、現実の努力を伴う条件でもサンクコストと整合的な行動が起こりうる証拠の一つです。
ただ、時間をかけた活動を続ける理由が、すべて「時間を無駄にしたくない」からとは限りません。
Todd J. ThorsteinsonとChristian G. Billingsは2024年の研究で、時間を費やした案件を続ける判断について、サンクタイムだけでなく**completion effect(完成効果)**を分けて検討しました。5つの研究、7つのサンプルを使った結果、時間を多く費やしたこと自体の効果は一部で見られましたが、全体として小さく、その一部は「完成に近いから続ける」という完成効果で説明できる可能性が示されました。
たとえば、ある制作物に100時間を使い、あと2時間で完成するとします。「100時間も使ったからやめられない」と考えるなら、その100時間はサンクコストです。でも「あと2時間で完成し、完成品には自分にとって十分な価値がある」と考えるなら、それは過去ではなく残りコストと未来の便益を比べています。同じ「ここまで来た」という言葉でも、中身が違います。
さらに、100時間の作業で新しい技術を身につけたなら、その技術は今も手元にあります。100時間そのものは戻らなくても、技術まで消えるわけではありません。だから僕は、時間と努力を考えるときは少なくとも三つに分けたほうが分かりやすいと思います。
一つは、もう取り戻せない過去の時間。二つ目は、そこから今に残った技能・知識・成果物。三つ目は、完成までにこれから必要な時間です。
この三つを全部「ここまで頑張った」にまとめてしまうと、本当にサンクコストに引っ張られているのか、それとも未来を見て続けているのかが分からなくなります。
2026年のGeorge Beknazar-Yuzbashev、Sota Ichiba、Mateusz Stalinskiによる事前登録実験も、単純化しにくさを示しています。オンライン実験では1,806人を対象に、14分程度の実努力課題へ入るための価格を変えたところ、価格差によって作業時間が約1.3分、0.12標準偏差増える中程度のサンクコスト効果が報告されました。
ところが、11,328本のYouTube動画を使ったフィールド実験では、広告をスキップできるまでの待ち時間を変えても、その後の動画エンゲージメント全体への効果は有意ではありませんでした。統制された課題で見えた効果が、そのまま現実場面で強く現れるとは限らないわけです。
サンクコストは「誰にでも必ず働く強力な法則」と考えるより、条件によって現れ方が変わる意思決定の傾向として見たほうが、研究の実態には近そうです。
サンクコストの罠が危険なのは「次に失うもの」が見えなくなるから
サンクコストの何が危険なのかと聞かれたら、僕は「過去に失ったもの」より、これから失うものを見えにくくすることだと考えます。
すでに10万円使ったプロジェクトに、あと5万円必要になったとします。10万円を取り戻したい気持ちは自然ですが、続けるかどうかの判断で重要なのは、追加の5万円を払ったときに何が得られるかです。成功可能性が高く、得られる価値が5万円を上回るなら続ける理由があります。逆に、見込みがほとんどなくても「10万円を無駄にしたくない」だけで5万円を足すなら、過去の損失が未来の損失を呼ぶ形になります。
時間の場合も、資格試験に半年使ったあと、「あと半年続ければ可能性が十分ある」と判断するのと、「半年使ったから、もう半年使うしかない」と考えるのは似ているようで違います。前者は未来の見込みを見ていますが、後者は過去の投入量が主役になっています。
さらに見落としやすいのが機会費用です。何かを続けるために使う時間やお金は、同時にほかの選択肢へ使えなくなります。
週10時間を、うまくいっていない活動へ追加で使う。その10時間で新しいことを始められたかもしれない。休むこともできたかもしれない。別の方法を試すこともできたかもしれません。サンクコストの罠に入ると、「今までの100時間を守る」ことに意識が向き、「これからの10時間をどこへ置くか」という問いが後ろへ下がります。
Stawの研究が示したエスカレーションの問題も、ここにつながります。失敗した方針へ追加資源を投入すると、その追加分もまた新しいサンクコストになります。そして次の判断では、「ここまでさらに入れたのだから」と、いっそう撤退しにくくなる可能性があります。
ただし、現実の仕事では評判、契約、取引先との関係、切り替えコストなどもあります。そうしたものまで「サンクコストだから無視」と処理してはいけません。現在や未来に影響するコストなら、それは現在の判断材料です。
ただし「続ける=サンクコスト」ではない
サンクコストを知ると、今度は反対側の落とし穴があります。「続けている自分はバイアスに陥っているのでは」と何でも疑い始めることです。でも、続けること自体が非合理なわけではありません。
Marcello Negrini、Arno Riedl、Matthias Wibralが2022年に発表した「Sunk cost in investment decisions」では、実際の報酬を伴う二段階の投資課題で、古典的なサンクコスト効果は確認されませんでした。むしろ初期投資が大きいほど、その後の追加投資をしにくいreverse sunk cost effectが観察されています。
興味深いのは、同じ参加者たちが仮想シナリオでは標準的なサンクコスト効果を示していたことです。質問紙で「こうすると思う」と答える行動と、実際に自分の報酬がかかった場面の行動が一致しない可能性があります。
先ほどの2026年研究でも、統制されたオンライン課題では効果が見られたのに、YouTubeのフィールド実験では全体の動画視聴への有意な効果が確認されませんでした。研究者自身も、サンクコスト効果はよく語られる一方で、実証上は捉えにくい側面があると述べています。
こうした結果を見れば、「人は必ず過去の投資に支配される」と断定するのは強すぎます。日常でも、続ける合理的な理由はいくつもあります。
完成後に得られる価値が高い。残り作業が少ない。途中で得た情報から成功可能性が上がった。別の選択肢へ移るコストが大きい。積み上げた技能が次の工程で使える。こうした理由は、単なるサンクコストではありません。
逆に、「もう100時間使ったから」という理由だけが残っているなら、一度疑ったほうがいい。この区別をすると、「続けるか、やめるか」という二択そのものより、何を理由に続けようとしているのかを見るほうが大切だと分かります。
粘り強さは、ときに大きな成果につながります。何でも早く見切ればいいわけでもありません。サンクコストという概念の使い道は、「続ける人を非合理と判定すること」ではなく、過去の投資が現在の判断へ紛れ込んでいないかを点検することにあるのだと思います。
やめるか続けるかは「過去」ではなく、現在地点から比べ直す
では、実際に迷ったときは何を考えればいいのでしょう。
僕なら、まず「今日この選択肢を初めて知ったとして、今から同じ残りコストを払うだろうか」と置き換えます。
もちろん、過去を完全に消した設定にはできません。すでに技能も情報も持っているからです。そこで、過去の事実を消すのではなく、項目を分けます。
これから必要になる時間、お金、労力はどれくらいか。続けた先で何が得られるのか。その見込みは今の情報でどの程度あるのか。やめた場合、空いた資源を何へ回せるのか。切り替えには新しい費用がかかるのか。
そのうえで、過去の努力から今も残っているものも数えます。資格の勉強をやめても、学んだ知識が仕事に使えるなら、それは残っています。制作を中止しても、そこで作った素材や技術が次に使えるかもしれない。ある方法がうまくいかないと分かったこと自体が情報になる場合もあります。
一方、「半年使った」「20万円払った」「ここまで苦労した」という事実だけは、現在の選択によって回収できません。そこは別枠です。
ここで完成効果との区別も役立ちます。「90%まで終わったから続ける」と聞くと、サンクコストっぽく見えます。でも本当に重要なのは、残り10%に必要なコストと、100%にしたときの価値です。残り1時間で完成し、完成させる価値が十分あるなら、続ける判断は過去の90%とは関係なく合理的になりえます。
反対に、90%まで進んでいても、残り10%に途方もない費用がかかり、完成しても価値がほとんどないなら、「90%やったから」という数字は判断を助けません。
「ここまで来た」を、進捗の情報として使うのか、過去への執着として使うのか。似ていますが、意味は違います。
また、Rothらのメタ分析では、経済的意思決定への慣れや教育があれば自動的にサンクコスト効果を避けられる、という単純な結果にはなっていませんでした。言葉を知っているだけで免疫ができるわけではなさそうです。
「やめる」は、これまでの努力を無駄にすることなのか
サンクコストの話が苦しくなるのは、数字の問題だけではないからだと思います。
何かをやめると、「自分は何のためにここまでやったんだろう」と感じることがあります。過去の努力を判断から外せと言われても、過去そのものを否定されたように聞こえるかもしれません。
でも、意思決定の上で「過去のコストを理由にしない」ことと、「過去に意味がなかった」と評価することは別です。
Carsten Wroschらは2003年の研究で、達成不可能になった目標から離れる能力や、新しい目標へ再関与する能力と、主観的ウェルビーイングとの関連を複数の研究で調べています。これはサンクコスト研究ではありませんし、「やめれば幸せになる」という因果を証明した研究でもありません。それでも、目標を手放すことが常に失敗や不適応を意味するわけではない、と考えるための関連研究にはなります。
ここまで調べてきて、僕は「過去を無視する」という表現は少し雑だと感じています。
無視するのは、正確にはもう回収できない過去の支出を、これから続ける理由として使うことです。過去から得た知識や技能まで捨てる必要はありませんし、過去の選択そのものを「間違いだった」と断罪する必要もない。
当時の情報では妥当だった選択が、今の情報では合わなくなることもあります。状況が変われば、同じ人が別の判断をしても矛盾ではありません。
続けるにしても、やめるにしても、「ここまで頑張ったから」という一言だけに決定を預けない。そのくらいの距離を取れると、過去を守るためではなく、今いる場所から次を選びやすくなる気がします。
参考文献・出典
- Hal R. Arkes & Catherine Blumer (1985), The psychology of sunk cost, Organizational Behavior and Human Decision Processes, 35(1), 124–140.
- Barry M. Staw (1976), Knee-deep in the big muddy: a study of escalating commitment to a chosen course of action, Organizational Behavior and Human Performance, 16(1), 27–44.
- Stefan Roth, Thomas Robbert & Lennart Straus (2015), On the sunk-cost effect in economic decision-making: a meta-analytic review, Business Research, 8, 99–138.
- David Ronayne, Daniel Sgroi & Anthony Tuckwell (2021), Evaluating the sunk cost effect, Journal of Economic Behavior & Organization, 186, 318–327.
- Marcello Negrini, Arno Riedl & Matthias Wibral (2022), Sunk cost in investment decisions, Journal of Economic Behavior & Organization, 200, 1105–1135.
- Todd J. Thorsteinson & Christian G. Billings (2024), Progress Decisions Involving Time: Sunk Cost or Completion Effects, Journal of Behavioral Decision Making, 37(4), e2405.
- George Beknazar-Yuzbashev, Sota Ichiba & Mateusz Stalinski (2026), To the depths of the sunk cost: Experiments revisiting the elusive effect, Journal of Economic Behavior & Organization, 241, 107352.
- Carsten Wrosch, Michael F. Scheier, Gregory E. Miller, Richard Schulz & Charles S. Carver (2003), Adaptive Self-Regulation of Unattainable Goals: Goal Disengagement, Goal Reengagement, and Subjective Well-Being, Personality and Social Psychology Bulletin, 29(12), 1494–1508.



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