ディアトロフ峠事件の真相は雪崩?9人がテントを切って逃げた夜を科学から検証

考察・都市伝説

1959年2月、ソ連・北ウラルの雪山で、経験を積んだ若者を中心とする9人が全員死亡しました。発見されたテントには内側から切られた跡があり、靴や防寒着の多くは残されたまま。遺体の一部には重い胸部外傷があり、衣服から放射性物質も検出された――。これだけ並べると、軍事実験や未確認飛行物体の話が生まれたのも分からなくはありません。

現在もっとも具体的で、物理的に検証されている説明は、風で運ばれた雪による小規模な表層雪崩をきっかけに一行がテントを離れ、その後、低体温と外傷によって命を落としたというものです。2021年には雪崩研究者が数理モデルとシミュレーションを発表し、それまで雪崩説の弱点とされていた「斜面が緩い」「発生が遅すぎる」「大きな痕跡がない」という三つの疑問に答えました。

ただし、この研究が事件を丸ごと解決したわけではありません。論文が示したのは、当時の条件で特殊な雪崩が起こり得たことです。誰が最初に危険を察したのか、なぜ全員で森まで下りたのか、どの外傷がいつ生じたのかは確認できません。この記事では、雪崩説が埋めた空白と、まだ残っている空白を分けて見ていきます。

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ディアトロフ峠事件で確認されていること

1959年1月、ウラル工科大学の学生ら10人は、北ウラルを進む冬季のスキー遠征へ出発しました。リーダーは23歳のイーゴリ・ディアトロフです。参加者はいずれも厳しい行程に対応できる経験を持っていましたが、ユーリ・ユーディンだけは体調を崩して途中で引き返します。残る9人が、のちに「ディアトロフ峠事件」と呼ばれる遭難の犠牲になりました。

日記やカメラの記録から、一行が2月1日にホラート・シャフイル山の斜面へテントを張ったところまでは追えます。帰還予定を過ぎて捜索が始まり、テントが見つかったのは約3週間後でした。公開されている1959年捜査資料の画像と英訳によると、テントには切断痕があり、靴、防寒着、食料や装備の多くが中に残されていました。足跡は斜面の下にある森の方向へ続いていたと記録されています。

最初の2人は、テントから約1.5キロ離れた大きな杉の近くで見つかりました。焚き火の跡があり、杉の枝には人が登ったような損傷もありました。別の3人は、杉からテントへ戻る方向の斜面上で発見されています。残る4人は雪解けが進んだ5月、杉から少し離れた谷で見つかりました。

死因も全員同じではありません。多くは低体温による死亡とされましたが、3人には頭部や胸部の重大な外傷がありました。だから事件を考えるとき、「9人を一度に殺した何か」を探すと最初からずれてしまいます。テントを離れた原因、森で生き延びようとした行動、戻れなくなった理由、谷で受けた可能性のある外傷を、同じ瞬間の出来事としてまとめないほうが記録に合います。

1959年の捜査は、刑事事件を示す証拠がないとして終了し、一行は抗しがたい自然の力によって死亡したという趣旨の結論を残しました。説明があまりに抽象的だったため、何十年ものあいだ、空白を埋めるように数多くの説が生まれていきます。

雪崩説が長く疑われた3つの理由

自然災害なら、まず雪崩が思い浮かびます。それでも雪崩説は長く決定打を欠いていました。反論には、かなりもっともな理由があります。

一つ目は斜面の角度です。テント付近の平均斜度は約23度とされ、一般に雪崩が起きやすいと考えられる30度以上より緩く見えました。経験ある一行が、危険の分かりやすい場所をわざわざ寝床に選んだのかという疑問も残ります。

二つ目は痕跡です。捜索隊は大規模な雪崩の堆積物や、斜面上部が大きく割れた跡を報告していません。テントも深い雪の底に埋まっていたわけではなく、外から探し当てられました。テントを押し流すほどの雪崩なら、もっと分かりやすい跡があるはずだと考えるのは自然です。

三つ目は時間の遅れでした。一行は斜面の雪を削り、平らな場所を作ってテントを設置したとみられます。しかし、設営から緊急脱出までには9時間以上あった可能性があります。斜面を切ったことが引き金なら、なぜすぐ崩れず、夜中になってから動いたのでしょうか。

ほかにも、重い胸部外傷を負った人がテントから森まで移動できたのか、雪崩から逃げるのに斜面を横切らず下へ向かったのはなぜかという疑問があります。雪崩という単語だけを置いても、これらには答えられません。必要だったのは「大きな雪崩が起きたはずだ」という前提を外し、当時の地形、積雪、風を組み合わせた具体的な仕組みでした。

2021年研究は何を再現したのか

スイス連邦工科大学ローザンヌ校の雪崩研究者Johan Gaumeと、チューリッヒ工科大学の地盤工学者Alexander M. Puzrinは、2021年に査読論文“Mechanisms of slab avalanche release and impact in the Dyatlov Pass incident in 1959”を発表しました。二人が検討したのは、広い斜面を轟音とともに流れ下る雪崩ではなく、硬い板状の雪が弱い層の上を滑る、小規模な表層雪崩です。

まず斜度について、雪に覆われた表面の平均は約23度でも、地面には局所的にもっと急な部分があり、積雪内部の弱層は約28度傾いていた可能性があるとしました。雪崩は必ず30度以上でしか起きないわけでもありません。論文が参照した事故データでは、雪の摩擦が小さい条件なら20度ほどから発生例があります。表面だけを見て「23度だから不可能」と切り捨てることはできない、ということです。

次に時間の遅れです。一行がテントを置くため斜面を切った直後は、弱層にも雪を支えるだけの結びつきが残っていた。しかし夜のあいだ、強い下降風が斜面上部から雪を運び、切り込みの上へ少しずつ積もらせたと考えます。追加された重さが限界を超えたところで弱層が壊れ、板状の雪がテントへ滑り落ちる。設定した物性値と風送雪量では、モデル上の破壊までの時間は7.2〜13.5時間となり、法医学的な時間推定9.5〜13.5時間と重なりました。

ここは数字の一致だけで感心して終われないところでもあります。風で運ばれる雪の量、弱層の摩擦や結合の強さは、1959年2月1日のテント地点で直接測られたものではありません。論文は近隣の気象データや既存の雪研究から妥当な範囲を与え、事件と両立する組み合わせを求めています。時間を正確に予言したのではなく、「何時間も遅れて起きるのは物理的に無理」という反論を崩した、と受け取るのが適切です。

痕跡の乏しさにも、小規模であることが関わります。計算された破壊部分はテント周辺に限られ、雪塊は長い距離を走らず、斜面を掘って作ったテント床を埋めるように衝突します。論文は、発見まで26日が経過し、その間にも風や降雪があったことを考えれば、はっきりした破断面や堆積が見つからなくても矛盾しないと説明しました。

人体への影響は、雪塊の動きと自動車衝突試験の胸部データを組み合わせてシミュレーションしています。想定した雪塊はおよそ秒速2メートルで、硬い地面と雪の間に横たわる身体へ当たると、報告された胸部外傷に近い変形を起こし得ました。とはいえ人体は単純化され、骨や臓器を一つずつ再現したモデルではありません。雪塊の大きさや身体の位置で結果も変わります。

二人自身も、これを完全な解決とは書いていません。論文の結論は、珍しい条件が重なった表層雪崩が事件を説明し得ると示した、という範囲です。さらに、胸部外傷はテントで雪塊を受けたためではなく、逃げた先の急な谷で雪の崩落を受けたためかもしれないとも認めています。

テントを離れてから何が起きたのか

雪崩説を「9人は雪崩にのみ込まれて死亡した」と理解すると、遺体の位置と合いません。雪崩またはその切迫を察した一行がテントを切って脱出し、二次的な崩落を恐れて森まで退避した、というのが出発点です。

装備を置いたまま出たことも、のんびり身支度できない危険があったなら説明できます。切り口は、入口へ回る時間さえ惜しかった可能性を示します。ただ、全員が裸足同然だったという語られ方は正確ではありません。着衣には差があり、靴を履いていた人もいました。それでも真冬の北ウラルで長時間過ごせる装備ではなく、いったん森まで下れば、テントへ戻ることが生存の条件になります。

杉のそばには焚き火の跡がありました。枝を集め、高い位置からテントの方向を確認しようとした可能性も考えられます。その後、一部は森に残り、3人は斜面を上ってテントへ戻ろうとし、4人は谷で雪を掘って風を避けようとした――遺体の位置は、少なくとも一行が何もせずパニックのまま散ったのではなく、生き延びる行動を取ったことをうかがわせます。

2020年、ロシア検察の再調査を担当したAndrey Kuryakovが公表した再構成では、写真測量、微気候、法医学、地形などの検討をもとに、雪の移動でテントを離れ、視界の悪化と厳寒のなかで戻れなくなったことが中心に置かれました。公表内容を伝える記事の英訳には、夜が深まるにつれて体感温度がさらに下がり、視界もごく限られたという推定があります。

ただし、この英訳記事は検察庁の最終報告書そのものではなく、担当者の説明を新聞がまとめたものです。また、検察側は谷で見つかった重傷者について、避難場所を掘った際の雪の崩落や落下を重視しており、2021年論文が計算した「テントを直撃した雪塊」と同じ筋書きではありません。

二つを無理に一本へ縫い合わせる必要はないでしょう。共通しているのは、最初の雪の危険、森への退避、低体温、谷での事故という複数段階で考える点です。各段階の細部には幅があり、誰が何時にどこで負傷したかまで決められる資料は残っていません。

舌・放射線・重傷は怪奇現象の証拠か

この事件が都市伝説として語られるとき、もっとも強い印象を残すのは遺体の状態です。一人は舌を失い、複数の遺体で眼球や顔の軟部組織が失われていました。しかし、谷の4人が見つかったのは遭難から約3か月後で、雪の下の流水に接する場所でした。発見時の損傷だけから、生前に何者かが切り取ったとは判断できません。検視記録では、舌の欠損を殺害の積極的証拠として結びつけていません。

重い肋骨骨折や頭部外傷も不気味ですが、「外傷がある」ことと「人に襲われた」ことは同じではありません。2021年モデルは硬い雪塊でも胸部外傷が生じ得ることを示し、2020年の再調査は谷での雪圧や落下を候補にしました。どちらが各人の負傷をより正確に説明するかは決着していないものの、少なくとも外傷だけを根拠に第三者の暴力を必要とする状況ではありません。

放射性物質は、事実と推論を切り分ける必要がさらにあります。1959年の検査で、一部の衣服から基準を上回るベータ線が検出されました。一方、全員から一様に強い汚染が見つかったわけではなく、放射線障害が死因とされた人もいません。2020年の再調査では、汚染衣服の所有者が1957年のマヤーク核施設事故による汚染地域を訪れた経歴との関係が示されましたが、それだけで由来を確定できるわけでもありません。

大事なのは、2021年の雪崩論文も放射性物質を説明したふりをしていないことです。著者らは、衣服の放射能、テントを出た後の行動、遺体の位置や状態などは研究の対象外であり、残る論争点だと明記しました。雪崩説に未説明点があることは事実です。ただし、未説明点があるというだけで、軍事実験やUFOの証拠が増えるわけではありません。

軍用ロケット説について、2020年の再調査は同日に発射失敗があったことを確認しつつ、飛行方向と落下地点が事件現場から異なるとしました。殺人説にも、一行以外の足跡や争いを示す確かな記録が乏しいという問題があります。異説を「奇抜だから」で笑う必要はありませんが、追加の仮定をいくつ置けば全記録へつながるのかを比べると、自然災害と低体温の組み合わせのほうが少ない仮定で済みます。

「解決した」と「説明可能になった」は違う

2021年論文には、「斜面が緩い」「9時間以上たってから雪崩は起きない」「痕跡がない」という反論を、ひとつながりの物理モデルで検討した強みがあります。計算に使ったデータとコードも公開され、どの仮定からどの結果が出たかを後から確かめられます。

論文後の調査も前提を補強しました。著者らの2022年の記事“Post-publication careers: follow-up expeditions reveal avalanches at Dyatlov Pass”とETH Zurichの解説によると、3回の現地遠征とロシアの雪・気候研究者による独立調査から、この地域に雪崩が起こり、局所的に十分な斜度がある証拠が得られました。「あの場所では雪崩そのものがあり得ない」という反論は、以前よりかなり弱くなっています。

それでも、1959年2月1日の夜に雪崩が起きた瞬間を記録したものはありません。当夜の積雪断面は測れず、現場が見つかったのも26日後です。モデルの入力値には幅があり、誰がどう判断して森へ向かったかは数式から出てきません。研究が立証したのは、雪崩が起こり得て外傷も生み得ること。歴史上の一度きりの出来事が、その順番で起きたと確定したわけではないのです。

では真相は不明のままかというと、それも少し雑な言い方になります。すべてが分からないことと、何も分からないことは違います。雪の危険がテントからの退避を招き、極寒と視界不良が帰還を妨げ、森と谷での複数の出来事が死につながったという骨格には、記録と物理の両方から支持があります。UFOや未知の怪物を想定しなくても、事件の主要部分は説明できます。

僕は調べる前、「雪崩説で説明できない奇妙な証拠がいくつも残る事件」だと思っていました。調べ終えて変わったのは、謎の数ではなく、ひとつの謎だと思っていたものが複数の時間帯と場所へ分かれたことです。説明できる部分を狭く確かめると、残った空白も前より正確な形で見えてきました。

参考文献・出典

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