「世界でいちばん読まれている本」を、僕はほとんど読んだことがない
こんばんは、駄貧知です。
その夜、僕が気になってしまったのは、旧約聖書でした。 きっかけはしょうもない話で、夜ごはんのとき、なんとなく点けていたテレビで「世界でいちばん読まれている本は聖書です」というひと言を聞いたからです。 ふうん、と思って一度スルーしたのに、お風呂に入っているあいだにもう一回頭に戻ってきて、そのあと布団に入ってから完全に引っかかってしまった。
世界でいちばん読まれている本。 そのわりに、僕はほとんど読んだことがない。
日本人としては、まあ珍しくない状態だと思います。学校の世界史で名前だけは習った。文学作品の中で「アダムとイヴ」「ノアの方舟」くらいは知っている。「モーセの十戒」も聞いたことはある。でも、その程度です。中身を一度もめくったことがない本が、人類史上ダントツで読まれている本だと言われても、正直あまり実感がわかないんです。
それで、その夜、僕はスマホで「旧約聖書 いつ 誰が書いた」と検索しました。 軽い気持ちでした。たぶん「モーセ」とか誰かの名前がすぐに出てきて、「へえ」で終わるんだろうな、と思っていたんです。 ところが、読み始めて10分で、僕の浅い予想は完全に崩壊しました。
今夜は、そのとき僕がぼんやり眠れなくなった、旧約聖書という本の、成り立ちそのものの不思議について書いていこうと思います。 いつもどおり、僕は宗教の専門家ではありません。信者でもありません。ただの日本人の会社員です。 だからこそ書ける角度もあるはず、と信じて、今夜はのんびり書いていきます。
「旧約聖書」と「新約聖書」の違いを、僕はこの歳まで分かっていなかった
まず、情けない告白から始めます。
僕はこの年齢になるまで、「旧約聖書」と「新約聖書」の違いを、ちゃんと説明できたことが一度もありませんでした。 なんとなく、古いほうが旧約、新しいほうが新約、という字面のとおりのイメージしかなかった。まるで「ドラクエ1」と「ドラクエ2」くらいの関係だと思っていたんです。続編、みたいな。
でも、中身を調べてみて、これは続編と呼ぶにはあまりにも性格が違うことが分かりました。
ざっくり言うと、こういう話です。
- 旧約聖書は、ユダヤ教の中心にある聖なる書物で、神とイスラエルの民との「古い契約」を記したもの
- 新約聖書は、イエス・キリストの登場と教えを中心に記したもの
- そして面白いことに、ユダヤ教の人たちは、そもそも「旧約」とは呼ばない
最後の一文に、僕はしばらく固まりました。 「旧約」という呼び方は、キリスト教徒から見たときの言い方だそうなんです。彼らにとっては、「イエスによる新しい契約」が登場したから、それ以前のものが「古い契約」になる。 でも、ユダヤ教徒にとってはそうじゃない。彼らの書物は「古い」でも「旧」でもなくて、今も現役で一番大事な、唯一の聖なる書物なんです。彼らにとっては、それが全部であり、新約は自分たちの聖書の続編ではない。
この時点で、僕はすでにちょっと考えさせられていました。
何かが「古い」と呼ばれるためには、その外側から「新しい」と名付ける誰かが必要なんです。 自分の中では今も現役のものが、別の人の視点から見たときに、気がついたら「旧」と呼ばれ始めている。 これは聖書の話に見えて、実は僕たちの日常にもそのまま重なる構図だな、と思いました。
たとえば、昔ぼくがずっと聴いていた音楽。当時は普通に流行っていたはずなのに、今はなんとなく「懐メロ」みたいな扱いになっている。でも、僕の中ではぜんぜん懐メロじゃない。そう呼んでいるのは、僕の外側の、もっと若い世代です。 「旧」というラベルは、自分で貼るものではなくて、外から貼られてしまうものなんだな、と夜中に気づきました。 聖書の話から急に自分の懐メロの話になったのは脱線です。でも、この脱線のおかげで、僕はこの「旧約」という呼び名に対して、急に親近感が湧いてきたのでした。
「モーセが書いた」という伝承の、最大の矛盾点
さて、ここから本題です。
旧約聖書の最初の5つの巻 ― 創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記 ― は、ひとくくりに「モーセ五書」と呼ばれます。 そしてこの5つの書物は、長いこと、モーセという人物が自分で書いた、と信じられてきたそうなんです。
モーセというのは、教科書にも出てくる有名な人ですね。 赤ちゃんの頃に籠に入れられてナイル川に流され、エジプトの王女に拾われて王宮で育ち、後にイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、海を二つに割って渡り、山で神から十戒を授かった、あの人です。文字にするとフィクションにしか見えないんですが、とにかく有名な人物です。
で、彼が自分でモーセ五書を書いた。 ここまで読んだ僕は、「まあ、当時はそういう伝承で説明するのが普通だったんだろうな」とぼんやり思っていました。
ところが、次の瞬間、スマホの画面に書かれていた一文を読んで、僕は完全に布団の中で起き上がりました。
「モーセ五書の最後には、モーセ自身の最期が書かれている」
いや、待ってください。 自分の死後の様子を、自分で書き残すなんてことは、普通の人間にはできません。 これが事実だとすれば、「モーセが全部書いた」という伝承は、最低でもその部分で破綻していることになります。
ここで僕は、声を出して「そりゃそうか」と言いました。 言われてみれば、あまりにも当たり前の矛盾点です。それなのに、中世までの千年以上、この疑問は大きな声では言えなかった。 理由は分かります。聖書は神の言葉とされていて、それを疑うことは信仰そのものを疑うことになる。下手に言い出せば、命が危なかった時代が長くあったそうです。
でも、この話を読んで僕がなぜか感心したのは、**「おかしいよね、という常識的な疑問は、消されても消されても、必ずどこかで復活する」**ということでした。
人間は、どれだけ権威で口を閉じられても、「いや、それはさすがにおかしいだろ」という感覚を、最終的には手放せない生き物らしいんです。 17世紀から18世紀にかけて、少しずつ疑問の声が上がり始め、19世紀になると、モーセ五書は一人の人間が書いたものではなく、複数の資料を後の時代にまとめたものではないか、という説が本格的に議論されるようになる。
この、「違和感を口に出せるようになるまで千年かかった」 という時間の長さに、僕はしみじみ感じ入ってしまいました。 千年ですよ。日本が平安時代のはじめ頃から令和の今までとほぼ同じ長さのあいだ、「モーセの死後の話をモーセ本人が書いた?」というツッコミを、誰も大きな声で言えなかった。 信仰の強さというより、疑問を封じ込められる制度の強さのほうが、僕には怖く感じられました。
1章と2章でストーリーが微妙に食い違う、創世記の不思議
次に書きたいのは、モーセ五書の最初の巻、創世記の話です。
創世記というのは、「はじめに神は天と地を創造された」から始まる、あの有名な天地創造の物語のことです。 僕も名前だけは知っていました。ただ、ちゃんと読んだことはない。
夜中に調べていて、面白い指摘を見つけました。 創世記の1章と2章は、同じ「天地創造」の話なのに、順番や描き方が微妙にずれているそうなんです。
たとえばこんな違いがあるそうです。
- 1章では、神はまず天地を作り、植物、動物、そして最後に人間を作ったとされている
- 2章では、神はまず人間(アダム)を作り、その時点ではまだ植物が地に生えていなかったとされている
人間が先か、植物が先か。 これ、かなり根本的な部分で食い違っているんですよね。 同じ本の1章と2章で、創造の順番がそもそも違う。もし現代の小説家が自分の原稿でこれをやったら、編集者から真っ赤に修正が入るレベルの食い違いです。
さらに有名なノアの方舟の話にも、似たような二重構造があるそうで、動物を1組ずつ乗せろと書かれている箇所と、特定の動物は7組ずつ乗せろと書かれている箇所が共存しているらしい。
これを読んで、僕は最初「聖書、意外とガバガバだな」と失礼なことを思ってしまいました。 でも、調べていくうちに、この「ガバガバに見える部分」こそが、聖書の成り立ちの手がかりだったということが分かってきました。
研究者たちはこう考えたそうです。 「1章と2章で矛盾しているのは、そもそも別の人が書いた別の文章を、後の時代の誰かがまとめてつなぎ合わせたからではないか」 と。
この仮説を聞いたとき、僕は夜中にひとり、深く納得してしまいました。
というのも、僕もかつて会社で似たような経験をしたことがあるからです。 部署の引き継ぎ資料を整理したとき、前任者が作った資料と、さらに前の担当者の資料と、創業当初の古いマニュアルが、全部ひとつのファイルに統合されていたことがあったんです。 読み進めると、前半と後半で会社の方針そのものが食い違っている。同じ手順が2回、違う言い方で説明されている。でも、誰もそれを修正できないまま、「うちの部署の資料」として何年も使われ続けていた。
旧約聖書のモーセ五書がそういう構造だと知ったとき、僕はその引き継ぎ資料のことをはっきり思い出しました。 千年単位のスケールで作られた、人類史上最大の引き継ぎ資料。そう言い換えると、なんだか旧約聖書との心の距離が一気に縮まってしまった気がしたんです。もしかして不謹慎な喩えかもしれません。でも、僕にはこのくらい引き寄せないと、あの本の重さが実感として分からなかった。
神様の呼び名が、場所によって違うという発見
さらに面白かったのが、神様の呼び名の使い分けの話です。
旧約聖書の中では、神様を指す言葉として、「ヤハウェ」 と 「エロヒム」 の2つが使われている箇所があるそうなんです。 日本語に訳されるとどちらも「神」になってしまうので気づきにくいのですが、原典のヘブライ語をちゃんと読むと、箇所によって呼び方がはっきりと違う。
- ヤハウェは、神様の固有名詞(いわば名前そのもの)
- エロヒムは、神様を意味する普通名詞(「神」という一般名詞)
言ってしまえば、「太郎くん」と「男性」 くらいの違いがあるわけです。 同じ書物のなかで、ある章では「太郎くんはこう言った」と書かれ、別の章では「男性はこう言った」と書かれている。どう考えても、書いた人が違う感じがしますよね。
そして、神の呼び名ごとに文章を分類していくと、ヘブライ語の使い方そのものにも、それぞれ特徴があることが分かってきたそうなんです。 つまり、別々の人が、別々の時代に、別々の文体で書いたものが、後の時代にまとめて編集されて、今のかたちになっている。
この説は**「文書仮説」と呼ばれていて、有力な研究者によれば、モーセ五書の元になった資料はおよそ4つ**あったと考えられているそうです。それぞれ、紀元前10世紀から紀元前6世紀くらいにかけて、長い時間をかけて書かれた別々の文書。それらが紀元前5世紀ごろに、ひとつにまとめられていったのではないか、と。
ここで僕は夜中に考え込みました。
自分の名前で呼ばれることと、自分の肩書きで呼ばれることの違いって、現代の僕たちにもありますよね。 たとえば、家の中で僕は下の名前で呼ばれます。会社では「〇〇さん」と苗字で呼ばれます。SNSではニックネームで呼ばれます。取引先のメールでは肩書付きで呼ばれる。どれも同じ僕のはずなのに、呼び方がひとつ変わるたびに、僕自身の輪郭がちょっとずつずれていく感覚がある。
旧約聖書の中の神様も、同じだったんじゃないか、と僕は思いました。 ある地域の人にとっては「ヤハウェ」という親しい固有名で呼ぶ存在だった。 別の地域の人にとっては「エロヒム」という普遍的な呼び名で呼ぶ存在だった。 そのふたつの呼び名が、長い年月のあいだに、同じひとつの神様のものだということにされていった。
僕はこの考え方が、なんだか少しだけ好きでした。 違う呼び名で呼ばれていたものが、最後には「ぜんぶ同じ存在のことだったんだよ」とまとめられる ― これは聖書の話というより、人間の物語の作り方そのものの話のように聞こえたからです。
捕囚の地で書かれ始めた、という仮説の切なさ
次に印象に残ったのは、「旧約聖書はバビロン捕囚のころから本格的にまとめられ始めたのではないか」 という説です。
バビロン捕囚というのは、古代イスラエル王国が滅ぼされ、多くのユダヤ人たちが異国の地(バビロニア)に強制的に連行された出来事のことらしいんです。世界史の授業でちらっと聞いた覚えがあります。
僕がこの話を読んで、一番胸に来たのは、このくだりでした。
「祖国を追われ、異国の地で、自分たちの信仰と歴史を文字として残し、再確認する必要に迫られた」
この一文を読んだとき、僕は本当にしばらく手を止めました。
想像してみてください。 あなたは、ある日突然、住んでいた国を追われます。家族は無事だけれど、国そのものが無くなっていく。遠い異国の地に連れて行かれ、そこで暮らすことを強いられる。周りは言葉も宗教も違う人たち。故郷がいつ取り戻せるかは分からない。 自分たちが何者だったのか、どんな神を信じていたのか、どんな歴史を生きてきたのか。放っておけば、数世代で忘れ去られてしまう。
そこで、彼らは文字を書き始めた。
旧約聖書は、こういう文脈の中でまとめられていった可能性が高い、という話なんです。 華やかな神殿の中で、権威ある祭司が優雅にペンを走らせていた ― という絵面ではなくて、「自分たちが消えそうになっている」という静かな危機感の中で、震える手で書き始めた。そういう本だったのかもしれない。
この説が正しいかどうかは、僕には判断できません。 でも、もしこれが本当だとしたら、旧約聖書という本の印象は、僕の中でまったく別のものになります。
世界でいちばん読まれている本は、「消えないために書かれた本」 だった、ということになるからです。
権威のために書かれた本ではなく、記録を残すために書かれた本。 支配のために書かれた本ではなく、アイデンティティが消滅する寸前で、自分たちが自分たちでいるために書かれた本。
僕は宗教を信じていません。たぶん、これからも信じる予定はありません。 でも、「消えないために書かれた文字」というものに、僕はめっぽう弱いんです。 日記も、手紙も、ブログも、全部**「このままだと何かが消えてしまう」という焦りから生まれている**のは同じだ、と僕は思っています。僕がこうして夜中に文章を書いているのも、たぶん、そのいちばん遠い親戚です。
結局、旧約聖書は「千年かけて書かれた不思議な本」だった
長くなってしまったので、いちど整理します。
その夜に僕が知ったことをざっくりまとめると、こういうことでした。
- 旧約聖書は、たった一人の人物(モーセ)が書いた本ではない
- その最初の5巻(モーセ五書)は、別々の時代・別々の地域の人が書いた少なくとも4つの資料をもとに、紀元前5世紀ごろに編集されたと考えられている
- 編集の中心となった可能性があるのは、バビロン捕囚から帰還した祭司たちだった
- 最終的にユダヤ教の聖典として公式にまとまったのは、紀元1世紀の終わりごろ
- つまり、元となった最古の資料から数えれば、旧約聖書は完成までに1000年以上かかっている
千年。 もう一度書きます。 旧約聖書は、完成までに千年以上かかった本なんです。
現代の感覚だと、本というのは、ひとりの作家が数年かけて書くもの、というイメージですよね。 シリーズものでも、10年、20年くらいが最長です。 千年かけて書かれた本なんて、書き終えるどころか、書き始めた人も、続けた人も、まとめた人も、全員が別々の時代に生きて、別々の場所で死んでいる。
これ、よく考えたらすごいことです。 千年分の人間のリレーが、ひとつの本のかたちになっている。 しかも、そのリレーの途中で、国が滅び、言語が変わり、人々は何度も追放され、神殿は壊され、それでもバトンは繋がり続けた。
僕はこの事実の前で、正直、ちょっとだけ言葉を失っています。
そして、最後にひとつだけ、どうしても書いておきたいことがあります。
今夜書いたのは、聖書を学問的に分析した人たちが積み上げてきた説の話です。 でも、世界には今も、「モーセ五書はモーセ自身が書いた」と信じて生きている人たちがたくさんいます。 僕は、その人たちの信仰を笑うつもりは一切ありません。 学問的な説明の正しさと、信仰の正しさは、そもそも同じ土俵で争うべきものではない、と思っているからです。
むしろ、今夜調べながら思ったのは、こういうことでした。
学問は、この本がどうやって生まれたのかを教えてくれる。 信仰は、この本がなぜ生き残ってきたのかを教えてくれる。 どちらも、別々の角度から同じ本のことを説明していて、どちらかだけでは見えないものが、組み合わさると少しだけ見えてくる。
僕は無宗教です。これからも無宗教のまま生きていくと思います。 でも、無宗教だからこそ、千年かけて書かれた本に対しては、無宗教なりの敬意の払い方があってもいいんじゃないかと思いました。
その夜、僕は結局、旧約聖書を1ページも読みませんでした。 でも、代わりに、あの本が生まれるまでに積み上がった千年分の時間の厚みに対しては、少しだけ頭が下がった気がしています。 明日の通勤電車の中でも、もし気が向いたら、もう少しだけこの話の続きを調べてみるかもしれません。続きがあるのかどうかさえ、よく分からないままですけどね。


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