「頭がいい人」は、本当に得をしているのか
学生の頃、僕のすぐ近くに、どう考えても脳の作りが違う人がいました。
教科書を一回ざっと読んだだけで、もう内容を覚えている。先生が黒板に式を書いている途中で、答えにたどり着いて手を止めている。テスト前に半泣きで詰め込んでいる僕の横で、その人だけはなぜか落ち着いた顔で別の本を読んでいました。
正直に言います。ずるいと思っていました。
「その脳みそ、一日でいいから貸してくれ」と、本気で思っていた時期があります。頭さえよければ、勉強も仕事も人生も、全部イージーモードでクリアできるに決まっている。当時の僕は、わりと真剣にそう信じていたんです。
でも、今になって思い返すと、その人、ぜんぜん楽しそうじゃなかったんですよね。
頭がいい=人生イージーモード、だと思い込んでいた
僕たちはなんとなく、「賢さ」は人生の難易度を下げてくれるパスポートみたいなものだと思っています。
頭がよければ、いい学校に入れて、いい仕事に就けて、お金にも困らなくて、人間関係も上手にさばけて、最終的に幸せになる。なんとなく、そういう一本道をイメージしているんじゃないでしょうか。
僕もずっとそう思っていました。
だから、賢い人を見ると羨ましかったし、自分の理解の遅さがちょっと恥ずかしかった。「もっと地頭がよかったら、こんなに苦労しないのにな」と、何度も思いました。
ところが、です。
さっき書いた「脳の作りが違う同級生」を、僕はもう一度よく思い出してみたんです。そうしたら、ある記憶が引っかかってきました。
その人はいつも、どこか張り詰めていました。みんなが笑っている話題でも、一人だけ別のことを考えているような顔をしている。教室のざわつきを嫌がって、休み時間によく一人で外に出ていました。それから、季節の変わり目になると、決まって鼻と目を真っ赤にして、つらそうにしていたのも覚えています。
当時の僕は、それを「変わった人だな」くらいにしか思っていませんでした。
頭のよさと、その張り詰めた感じ。その二つが、実は地続きなんじゃないか。 そんなことを考えるようになったのは、つい最近のことです。
「賢い人ほど心を病みやすい」という、信じたくない数字
きっかけは、あるデータを目にしたことでした。
ものすごく頭のいい人たち——だいたい上位数パーセントに入るような知能を持つ人たちを、大勢集めて、その人たちが心や体にどんな不調を抱えているかを調べた調査です。
僕はてっきり、「賢い人は健康管理もうまいんだろうな」くらいに思いながら数字を眺めていました。
ところが、出てきた数字は、わりとショッキングなものでした。
平均的な人と比べて、こんなに不調を抱えやすかったんです。
- 気分の落ち込み(うつなどの気分障害)が、およそ3.9倍
- 不安の強さ(不安障害)が、およそ3.4倍
- 注意があちこちに飛んでしまう特性が、およそ3.4倍
- 物事を異常に深く処理してしまう特性が、およそ2.2倍
正直、ちょっと言葉を失いました。
「頭がいい人は得をする」と思い込んでいた僕からすると、ほとんど逆の景色だったからです。賢さは、人生をイージーにするどころか、心にかなりの負担をかけているように見えました。
理由を読んでいくと、なんとなく腑に落ちる部分がありました。
頭のいい人ほど、周りの世界に対して感情がぶわっと強く反応してしまうらしいんです。そして、一度気になり始めたことを、頭の中で何度も何度も再生してしまう。考えるのをやめられない。
考える力が高いというのは、裏を返せば「ネガティブなことも高性能に考えられる」ということでもあるわけです。
僕みたいに、夜に布団に入った瞬間にどうでもいい後悔がよみがえってくる人間からすると、これはもう想像するだけでしんどい。あの「考えすぎて眠れない夜」が、性能のいい脳だと毎晩フルスペックで起きているとしたら。
「貸してくれ」と言っていた脳みそ、ちょっと返却したくなってきました。
しかも、巻き込まれるのは心だけじゃなかった
ここまでなら、まだ「心の話」で済みます。
でも、僕が一番ぞわっとしたのは、この先でした。
同じ調査で、心だけじゃなくて、体の不調まで多かったというんです。
- 環境のアレルギー(花粉とかハウスダストとか)が、およそ4.3倍
- 食べ物のアレルギーが、およそ4.1倍
- 喘息が、およそ2.3倍
- 免疫が自分の体を攻撃してしまうタイプの病気が、およそ2.0倍
ここで僕は、さっきの同級生の真っ赤な目を思い出したわけです。
あれ、ただの花粉症じゃなかったのかもしれない。
頭のよさと、あのアレルギー。点と点が、急につながった気がしました。
説明を読んで、なるほどと思いました。 頭のいい人は、感覚そのものがめちゃくちゃ敏感なんだそうです。
たとえば、服のタグの感触。普通の人なら気にも留めないようなチクチクを、痛みとして感じてしまう。日常のありふれた物音が、ガンガン響いてくる。そういう「ほとんどの人がスルーできる刺激」を、フルボリュームで受け取ってしまう。
それって、ずっと小さなストレスにさらされ続けているのと同じなんですよね。
僕なんて、隣の部屋のテレビの音が気になるくらいで「今日はもう無理だ」となるのに、世界中の刺激が常時このレベルで入ってくる体だとしたら。 そりゃ、体も悲鳴をあげるはずです。
要するに、脳も体も「ずっと全開」だと壊れる
このあたりまで読んで、僕なりに話を整理してみました。
たぶん、こういう仕組みなんだと思います。
まず、性能のいい脳は、常に全開で動いています。スイッチを切れない。世界を広く深く理解できる代わりに、休むことができない。
その「考えすぎ」が、ずっと続くストレスになって、今度は体に伝わっていきます。
体はそれを「なんか緊急事態が続いてるぞ」と勘違いして、いつも臨戦態勢に入る。逃げるか戦うか、みたいなモードからずっと降りられなくなる。
すると、本来は体を守ってくれるはずの免疫が、緊張しすぎて誤作動を起こす。 その誤作動が、アレルギーや喘息や、自分の体を攻撃してしまう病気として表に出てくる。
しかも厄介なのが、体の不調が今度は逆に脳に跳ね返って、また気分を落ち込ませる、という点です。
心が体を巻き込み、体が心を巻き込み返す。ぐるぐる回り続ける輪っかみたいなもの。
文章にしてみると、なかなかにハードな話です。
僕がぼんやり羨ましがっていた「頭のよさ」は、実は、感度がよすぎて常に振り切れているセンサーみたいなものだったのかもしれません。
性能がいいのは間違いない。でも、その性能で全部を受け取ってしまうから、心も体も削れていく。
ギフト(贈り物)なんて綺麗な言葉で呼ばれることもあるけれど、実態はけっこう、扱いの難しい代物だったわけです。
「賢いんだから大丈夫でしょ」が、たぶん一番こわい
この話を考えていて、もう一つ気づいたことがあります。
頭のいい人って、たぶん、助けを求めにくいんですよね。
僕たちはどこかで、「賢い人は何でも一人で解決できる」と思い込んでいます。だから、その人がしんどそうにしていても、「あなたなら大丈夫でしょ」「そんなに頭がいいんだから」と、つい流してしまう。
本人だって、周りからそう見られていることを知っています。 だから、弱音を吐きづらい。
「これだけ理解できる頭を持っているのに、こんなことで参っているなんて言えない」 そう思って、一人で抱え込む。
これ、けっこう残酷な構図だと思うんです。
一番センサーが敏感で、一番削れやすい人が、一番「あなたは平気そう」という扱いを受けてしまう。みんなが「あの人は強い」と思っているせいで、誰もそっと支えようとしない。
しかも、さっきの数字の中には、本来の特性が別のものとして扱われてしまうケースも含まれていました。あふれ出るエネルギーが、ただの落ち着きのなさとして処理されてしまったり。本人の感じている生きづらさの理由が、誰にも——本人にすら——うまく言葉にされないまま放置されてしまう。
僕は、あの同級生のことを思い出すたびに、これがちょっと悔しいんです。
あの頃の僕は、あの人を「すごいやつ」としか見ていなかった。張り詰めた横顔にも、季節ごとの真っ赤な目にも、何ひとつ気づかなかった。羨ましさで目がふさがって、その人がしんどそうにしていることが、まったく見えていませんでした。
賢さは、目に見えます。 でも、その裏側の重さは、たいてい目に見えません。
そして、見えないものは、放っておかれてしまう。
……と、ここまで書いて、ふと手が止まった
ここまで一気に書いてきて、僕は急に怖くなりました。
これ、ものすごく都合のいい話なんじゃないか、と思ったからです。
だって、考えてみてください。
頭がそんなによくない僕みたいな人間にとって、「賢い人ほど苦しんでいる」という話は、めちゃくちゃ気持ちのいいストーリーなんですよ。
「自分は賢くないけど、その代わり心も体も健康だもんね」 「むしろ凡人でラッキーだったのかも」
そうやって、自分を慰める材料に使いたくなる。
でも、それってたぶん、ただの逆転した見下しです。 今までは賢い人を羨んでいたのが、今度は「賢い人は大変そうでかわいそう」という上から目線にすり替わっているだけ。
向きが変わっただけで、人を勝手に決めつけているのは同じこと。
それに、当たり前ですが、頭がよくて、しかも健やかに生きている人なんていくらでもいます。数字はあくまで「平均すると、そういう傾向がある」という話であって、一人ひとりの人生がそれで決まるわけじゃない。
僕は、自分が安心するために、この数字を都合よく切り取ろうとしていなかったか。
正直、ちょっと切り取ろうとしていました。 危ない、危ない。
だから僕は、こう考えることにした
それでも、この話から僕が受け取りたいことは、はっきりしています。
一つは、もう「頭のいい人はずるい」とは思わない、ということ。
賢さは、ノーリスクのチート能力なんかじゃありませんでした。あれは、世界を高解像度で受け取ってしまう代わりに、心と体にちゃんと負担がかかる、トレードオフのある力だった。羨むだけの対象じゃないし、見下す対象でもない。ただ、別の重さを背負っているだけなんだと思います。
だから僕は、賢くて、なんだか張り詰めて見える人に会ったら、心の中でこっそり「お疲れさまです」と思うことにしました。あの同級生にも、今さらだけど一回言いたい気分です。
もう一つは、自分の「敏感さ」を、欠陥として扱うのをやめる、ということ。
僕はあの同級生ほどの脳は持っていません。でも、隣の音が気になって眠れない夜があるし、人の機嫌の変化を察知しすぎて勝手に疲れる日もあります。
今まではそれを「自分は神経質でめんどくさいやつだ」と責めていました。 でも、それも結局は、性能のいいセンサーが拾いすぎているだけなのかもしれない。
センサーの感度は、たぶん自分では選べません。生まれつきよく拾ってしまう人は、よく拾ってしまう。それを「気にしすぎ」「考えすぎ」と言われ続けると、自分の感じ方そのものが間違っているような気がしてきます。
僕も長いこと、そう思っていました。 人より物事が気になってしまう自分を、どこか欠陥品みたいに扱っていた。
でも、感度が高いこと自体は、悪でも欠陥でもないはずなんです。問題は、拾いすぎたものを下ろせないこと。ずっと握りしめたまま、休ませてあげられないこと。
センサーが優秀なら、たまにはスイッチを切ってあげればいい。
だから最近は、意識的に「何も考えない時間」を作るようにしています。スマホを置いて、何も拾わない時間を、自分にちゃんと許してあげる。これがびっくりするほど下手くそで、五分ももたずに何か考え始めるんですが、まあ、練習中です。
頭のよさが幸せに直結しないのなら。 だったら僕は、自分のセンサーをちょっと労ってあげられる人でいたい。
賢さがあってもなくても、自分の感じすぎる部分とどう付き合うかは、結局その人次第なんだと思います。これだけは、地頭の良し悪しとは関係なく、誰にでも練習できることです。
それは賢さがあってもなくても、誰にでもできることだと思うから。
僕はそう考えて、今日も静かにスマホを伏せます。 何も拾わない数分間を、自分にプレゼントするつもりで。 ……三分後にまた手に取るんですけどね。



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