自由意志は存在しない?リベットの実験が暴いた「脳の真実」がヤバすぎた
ある夜、コンビニのレジ前で僕は迷っていた。
からあげクンにするか、Lチキにするか。
たぶん3秒くらい立ち止まっていたと思う。後ろに人が並び始めて、焦ってからあげクンを手に取った。
レジを済ませて外に出たとき、ふと思った。
「今の選択って、本当に僕の意思だったのかな」
いや、からあげクンの話じゃない。もっと大きな話だ。
僕たちは毎日、何百回と「選択」をしている。朝起きる時間、着る服、昼ごはんのメニュー、帰り道のルート。そのすべてを「自分の意思で決めている」と、なんの疑いもなく信じている。
でも、もしその「意思」が——後付けの錯覚だったとしたら?
ちょっと怖い話に聞こえるかもしれない。でも、これは都市伝説でもオカルトでもない。れっきとした科学実験の結果として報告されている話だ。
今回は、僕が夜中にネットの海をさまよっているときに出会った「リベットの実験」について書いてみたい。調べれば調べるほど、自分の「意思」というものが揺らいでいく。そんな不思議な実験の話だ。
正直、知らなければよかったと思う反面、知ってしまったからには誰かに話したくなってしまった。飲み会で話すには重すぎるし、彼女もいないので——ブログに書くことにした。悲しい。
ただ先に言っておくと、この記事を読んでも人生が劇的に変わったりはしない。むしろ「えっ、じゃあ俺の努力って何だったの」と微妙な気持ちになる可能性すらある。でも、知っておいて損はない。自分の「意思」の正体を知ることで、少なくとも自分への見方がちょっとだけ変わる——かもしれない。保証はしない。
そもそも「自由意志」ってなんだろう
本題に入る前に、ちょっとだけ整理しておきたい。
自由意志というのは、要するに「自分で自由に何かしようと決める力」のことだ。
今日はカレーを食べよう、とか。右手を上げよう、とか。この記事を読もう、とか。
僕たちが日常的にやっている「選択」や「決断」の裏には、いつもこの自由意志があると信じられている。というか、ほとんどの人はそんなこと考えもしないと思う。呼吸するくらい当たり前のことだから。
僕も正直、つい最近までそうだった。
「意思が弱い人向け!意志力を強くする方法!」みたいな動画がよく流れてくるけど、ああいうのを見るたびに「そもそも意志って本当にあるのかな」なんて考えたこともなかった。
でも、ある実験の存在を知ってから、その「当たり前」がガラガラと崩れ始めたのだ。
1983年、ある科学者が行った衝撃の実験
話は1983年にさかのぼる。
カリフォルニア大学の生理学者、ベンジャミン・リベットという人が、とんでもない実験結果を発表した。
その名も——「リベットの実験」。そのまんまだ。もうちょっとカッコいい名前つけてくれてもよかったんじゃないかと思うけど、科学者はネーミングにこだわらないらしい。
実験の内容自体は、拍子抜けするほどシンプルだ。
被験者に椅子に座ってもらい、6秒以内の好きなタイミングで手首を曲げてもらう。
それだけ。ちなみに「手首を曲げない」という選択もOKだったらしい。完全に自由だ。
ただし、いくつか仕掛けがあった。
まず、被験者の目の前には特殊な時計が置かれていた。普通の時計は60秒で1周するけど、この時計はなんと約2.5秒で1周するという、とんでもないスピードの時計だ。つまり、ものすごく細かい時間まで測れるようになっている。
被験者は「今から手首を曲げよう」と思った瞬間に、この時計の針がどこにあったかを覚えておくように言われた。
さらに、手首と頭にはセンサーが取り付けられていた。
つまり、リベットは3つの時間を同時に計測しようとしていたのだ。
- 意志の時間:「曲げよう」と自分で思った瞬間
- 脳波の時間:脳から「曲げろ」という命令が出た瞬間
- 運動の時間:実際に手首が動いた瞬間
ここまで聞くと、たぶん多くの人はこう予想すると思う。
「意志が先で、脳の命令が次で、最後に手首が動くんでしょ?」
僕もそう思った。というか、それ以外の順番なんて想像もできなかった。
だって、自分が「やろう」と思って、脳がそれを受け取って、体が動く。これ以外にどんな順番がありえるのかって話だ。
でも——結果は違った。
脳は「お前が決める前に」動いていた
リベットが報告した実験結果は、こうだった。
脳波の発生 → 意志の発生 → 実際の運動
もう少し具体的に書くと、脳波が発生してから約0.35秒後に「曲げよう」という意志が生まれ、さらにその約0.2秒後に手首が動いたというのだ。
つまり、「手首を曲げよう」と意識する約0.35秒前に、すでに脳は動き始めていたことになる。
……え?
いや、ちょっと待ってほしい。もう一回言う。
あなたが「やろう」と思う前に、脳はもう「やる」と決めている。
これ、初めて知ったとき僕は本当にゾッとした。夜中の2時にスマホで読んでいたんだけど、一気に目が覚めた。からあげクンどころの話じゃない。
だって考えてみてほしい。
僕たちが「自分で決めた」と思っていることが、実は脳が勝手に始めた動きを、後から「自分の意思でした」と思い込んでいるだけだとしたら。
ちなみに、この「脳が先に準備を始める」ときに出る脳波を**「準備電位」**というらしい。名前だけ聞くとなんだかカッコいい。必殺技みたいだ。でもやっていることは、僕の知らないところで僕の体を勝手に動かす準備をしているわけで、カッコいいどころかちょっと怖い。
車に例えるなら、自分がハンドルを握る前に、車が勝手にエンジンをかけて走り出すようなものだ。そしてドライバーの僕は、走り始めてから「あ、今自分で発進したな」と思い込んでいる。
自由意志って、なんだったんだ。
野球で考えるとさらに面白い
ここでひとつ、わかりやすい例を挙げたい。
野球のヒーローインタビューで、ホームランを打った選手がこう答える場面をよく見る。
「ストレートが真ん中に来たので、思いっきり振り抜きました」
めちゃくちゃカッコいい。僕も中学のとき野球部だったから、この手のコメントには純粋に憧れた。試合後のインタビューで「見えてましたね」とか言ってみたかった。まあ、万年補欠だったからインタビューどころか試合に出ることすら稀だったけど。
それはさておき、この「見えてたから打った」というコメント、生理学的にはちょっとおかしいらしい。
なぜかというと、ピッチャーが投げたボールがキャッチャーミットに届くまでの時間と、人間が「ストレートだ」と目で見てから「振ろう」と判断するまでの反応時間を比べると——反応時間のほうが長いからだ。
つまり、見てから考えて振っていたら、絶対に間に合わないのだ。
じゃあ、なぜバッターはボールを打てるのか。
答えは、脳が投球前からボールの軌道を予測して、あらかじめ筋肉に指令を出しているからだ。
これを「フィードフォワード」と呼ぶらしい。結果を見てから調整する「フィードバック」の逆で、未来を予測して先に動くという仕組みだ。
実際にボールが飛んでくると、脳はリアルタイムで微調整をかけてバットを振らせる。だからプロの選手は打てる。すごい。
でも裏を返すと、バッターが「ストレートだと思って振った」のではなく、脳が勝手に予測して振らせたものを、後から「自分で判断した」と解釈している可能性が高いということになる。
……いやいやいや。
僕の中学時代のあの空振り三振も、自分の判断ミスじゃなくて脳のせいだったってこと?
それはそれで困る。言い訳に使えそうだけど、監督には絶対に通用しない。「僕の脳の準備電位が遅かったんです」とか言ったら、間違いなくグラウンド10周だ。
分離脳の実験がさらにヤバい
リベットの実験だけでもお腹いっぱいなんだけど、この「意志は後付け」説を裏付ける研究がもうひとつあった。
分離脳の研究だ。
人間の脳は右脳と左脳に分かれていて、この2つは**脳梁(のうりょう)**という太い神経の束でつながっている。ところが、てんかんの治療などで脳梁が切断された患者さんがいる。これが「分離脳」と呼ばれる状態だ。
右脳と左脳が完全に分断されてしまっているから、右脳が知っていることを左脳は知らないし、その逆もそうだ。ちなみに右脳は左半身、左脳は右半身をコントロールしている。クロスしているのだ。ややこしい。
この分離脳の患者さんを対象に、ある研究者がこんな実験をしている。
まず、左耳(つまり右脳)にだけ聞こえるように「前に歩いてください」と伝える。
すると患者さんは実際に歩き出す。右脳が命令を受け取って、体を動かしているわけだ。ここまではいい。
問題はここからだ。
その後、右耳(つまり左脳)に向かって「なぜ歩いているんですか?」と質問する。
右脳と左脳はつながっていないから、左脳は「歩け」と言われたことを知らない。しかも言語を司っているのは左脳だから、答えるのは左脳の仕事だ。知らないなら「わかりません」と答えるのが普通だろう。
ところが、患者さんはこう答えた。
「喉が渇いたから、飲み物を買いに行こうと思ったんです」
……怖くない?
これ、完全に作り話だ。実際には「前に歩け」と言われて歩いているだけなのに、左脳がもっともらしい理由を勝手に捏造してしまうのだ。しかも、本人はそれが作り話だという自覚がまったくない。
これを知ったとき、僕はしばらくボーッとしてしまった。
もしかして僕たちが「自分の意思で行動している」と感じているのは、全部こういう後付けのストーリーなんじゃないかって。
今日仕事でちょっとイラッとして、同僚にきつい言い方をしてしまった。帰り道に「疲れてたからだな」と自分に言い訳した。でもそれも——脳が勝手にやったことに、後から僕が「疲れてたから」というストーリーを貼り付けただけかもしれない。
なんだかもう、自分というものが信用できなくなってくる。
昨日の夜、友達に「最近どう?」とLINEを送った理由。「なんとなく連絡したくなった」と思っていたけど、本当は脳が何かの信号を受け取って勝手に指を動かしただけで、「連絡したくなった」は後から左脳が作った物語だったのかもしれない。
こういうことを考え始めると、夜が本当に長くなる。一人暮らしの部屋で天井を見つめながら、「今この天井を見ているのは自分の意思なのか」とか考え出す。もう末期だ。
でも、反論もちゃんとある
さて、ここまで読んで「もう何も信じられない」と思った人もいるかもしれない。
安心してほしい。僕も同じ気持ちになった。
でも調べていくと、リベットの実験にはちゃんと反論も存在する。大きく分けて2つだ。
①実験結果そのものへの疑問
まず、そもそも測定が正確だったのかという点。
被験者が「今、手首を曲げようと思った」と感じた瞬間を、高速で回転する時計の針で記憶させるわけだけど——これ、正確にできる人いる?
僕なら絶対ムリだ。普通の時計ですら「今何時?」って聞かれて即答できないのに、2.5秒で1周する時計の針の位置なんて覚えられる気がしない。
また、脳波として計測された「準備電位」が、本当に「手首を動かす」ための信号だったのかも怪しいという意見もある。もしかしたら、まったく別のことがよぎった瞬間の脳波だったかもしれないではないか、と。
ただ、ここが科学のすごいところで、この実験は何度も何度も追試されている。
2008年には、リベットの実験当時にはなかった**fMRI(機能的磁気共鳴画像法)**という精密な脳活動の測定法を使った検証も行われていて、結果はやっぱり——本人が決断を意識するより前に、脳はすでに動いていたという方向だった。
反証しようとした科学者たちが、逆に結果の正しさを証明してしまったわけだ。なんという皮肉。粗探しに行ったら、自分で「やっぱり合ってました」と報告する羽目になったのだ。気まずい。
②「自由意志がない」という結論への反論
こっちのほうが個人的には面白いと思った。
実は、リベット本人も自由意志を完全に否定してはいなかった。
彼は実験の中で、あることに気がついていた。脳が勝手に始めた行動を「やめる」ことはできるという点だ。
つまり、こういうことになる。
- 脳が「手首を曲げろ」と勝手に命令を出す → これは止められない
- でも、その命令を**「いや、やめとこ」と拒否する**ことは → できる
実際に、2005年に発表された論文でも、行動の約0.2秒前であれば、脳の指令を拒否できるという結果が報告されている。
0.2秒。たった0.2秒の猶予。短い。でも、ゼロではない。
なるほど、と思った。
つまり人間は、「何かをする」自由は持っていないかもしれないけど、「やらない」と決める自由は持っている可能性がある。
……これって、自由意志と呼んでいいのだろうか。
「選ぶ自由」はないけど「断る自由」はある
ここからは完全に僕の個人的な感覚の話だ。
この「やることは選べないけど、やめることはできる」という構造を知ったとき、なんだか妙にしっくりきた。
思い返してみると、僕の人生もわりとそんな感じだからだ。
たとえば仕事。今の会社に入ったのも、正直「ここで働きたい!」と強く思ったわけじゃない。就活中にいくつかの選択肢が目の前に現れて、なんとなく——本当になんとなく——今の会社を選んだ。
でも振り返ると、その「なんとなく」の中身は、たぶん脳が勝手に計算した結果だったんだろうなと思う。給料、通勤時間、面接官の雰囲気、オフィスの匂い。そういう情報を脳が無意識に処理して、「ここにしろ」と命令を出していたのだ。
僕はただ、その命令に「まぁ、いっか」と従っただけだ。
逆に、辞めたいと思ったことは何度もある。日曜の夜、サザエさんのエンディングを聞きながら「もう無理かもしれない」と思う。月曜の朝、満員電車に揺られながら「辞めよう」と思う。脳は確実に「逃げろ」と命令してきている。
でも、僕はそれを「いや、まだやめない」と拒否し続けている。
これが自由意志だとしたら——なんとも地味な自由だ。
華やかに何かを選び取る自由じゃなくて、しんどいことを「まだ続ける」と踏みとどまる自由。キラキラした自己啓発本に書いてある「自分の人生は自分で選べる!」とは、だいぶ温度感が違う。
でも、考えてみたらそっちのほうがリアルな気もする。
人生で本当に大事な場面って、何かを選ぶ瞬間よりも、何かを「やめない」と決める瞬間のほうが多い気がしているからだ。
僕たちは脳の奴隷なのか
ここまで書いてきて、ちょっと考えたことがある。
もし人間の行動が本当に脳の無意識的な反応で決まっているとしたら、僕たちは自分の脳に操られていることになる。
これ、けっこう怖い話だ。
でも同時に、ちょっと面白いとも思った。
だって考えてみてほしい。脳って、僕の一部だ。僕の頭蓋骨の中にあって、僕の記憶を保存していて、僕の20数年分の経験から学習している。その脳が出す命令は、ある意味では**「無意識の自分」が出している命令**とも言えるんじゃないだろうか。
つまり、操られているんじゃなくて——自分の中にいるもう一人の自分が、先に動いているだけかもしれない。
そう考えると、ちょっとだけ気持ちが楽になった。
僕がからあげクンを手に取ったのも、脳が過去の経験(美味しかった記憶、前にLチキで口の中を火傷した記憶、からあげクンのパッケージの親しみやすさ)を総合的に判断して、「こっちにしろ」と指令を出した結果だったのかもしれない。
それは厳密には「自分の意思」ではないかもしれないけど、「自分の歴史」が選んだ結果ではある。
……なんか、それはそれでいい気もしてきた。
裁判の場で「自由意志はないから無罪です」が通用しないのと同じで、社会的には自由意志があることにしないと色々と成り立たないのだろう。でも、科学的には確実にグレーだ。
ある有名な言葉に、こんなものがある。
「人生はトランプゲームに似ている。配られたカードは決定論を意味し、どう切るかはあなたの自由意志である」
リベットの実験を踏まえると、この言葉は妙にリアルに響く。カードを配るのは脳で、僕たちにはそれを選ぶ力はない。でも、そのカードを使うかどうか——つまり「やめる」かどうかだけは、自分で決められるのかもしれない。
不自由な自由。矛盾しているようだけど、なんとなくそれが人間の本当の姿な気がしている。
結局、自由意志はあるのか
正直に言う。
わからない。
これは現在進行形で、脳科学者も哲学者も議論を続けている超難問だ。脳科学、心理学、哲学の3つの分野にまたがるテーマで、僕みたいな一般の会社員が夜中にスマホで調べて答えが出る問題じゃない。
ただ、ひとつだけ面白いなと思ったことがある。
こうやって「自由意志ってあるのかな」と考えているこの行為自体が、はたして自分の意思なのか脳の勝手な命令なのか、僕にはまったくわからないということだ。
もし脳が勝手に「自由意志について考えろ」と命令を出していたのなら、僕はその命令に従ってこの記事を書いていることになる。
でも、書かないこともできたはずだ。リベットの言う通り、「やめる自由」はあるのだから。
にもかかわらず、僕はこうして書いている。
それが自由意志によるものなのかどうかは——分からないまま、とりあえず今日もコンビニにからあげクンを買いに行こうと思う。
……いや、今日はLチキにしようかな。
この迷いが自由意志の証拠なのか、脳のバグなのかは、たぶん誰にも分からない。
でも、分からないまま迷えること自体が、なんだか人間っぽくていいなと、僕は思っている。



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