通勤って、本当にただの「ムダな時間」なんだろうか
通勤時間は、人生のロスタイムだと思っていました。
家から会社までの、あの移動のあいだ。何も生み出していないし、何も楽しくない。ただ体を運ばれているだけの、できれば消してしまいたい時間。そう信じて疑わなかったんです。
だから僕は、少しでもこの「ムダ」を減らそうと、いろいろ試してきました。電車の中でニュースを読んだり、音声で勉強しようとしたり。要するに、移動時間を「何かの役に立つ時間」に変換しようと必死だったわけです。
でも、なんだかうまくいかない。
詰め込もうとすればするほど、朝から疲れる。会社に着く頃には、もう一仕事終えたみたいにぐったりしている日もありました。
「移動時間を有効活用しよう」っていう、あの正しそうな言葉。 あれに、ずっと振り回されていた気がします。
そんなとき、僕の通勤観をひっくり返すデータに出会いました。
「通勤=ストレス」は、もはや常識だと思っていた
通勤はつらいもの。これは、わざわざ言うまでもない常識だと思っていました。
満員電車にぎゅうぎゅうに詰められて。あるいは渋滞にはまって、ハンドルを握ったまま動かない車の中でイライラして。職場に着く前から、すでに消耗している。
実際、昔の研究の多くも、通勤を「悪いもの」として扱ってきたそうです。
- 長い移動は心身に負担をかける
- そのストレスを、そのまま職場まで持ち込んでしまう
- だから、通勤は短ければ短いほどいい
並べてみると、どれも「まあそうだよな」と頷いてしまう話ばかりです。僕も完全にこっち側の人間でした。
ところが、ある調査が、この「通勤は純粋な悪である」という前提に、わりとはっきり待ったをかけていたんです。
それは、スウェーデンの大きな三つの都市で、700人以上の通勤者を対象に行われた調査でした。
「通勤の満足度」と「その人の人生全体の幸福度」が、どうつながっているのか。 それを、けっこう細かく調べたものです。
結論から書くと、通勤は思っていたほど「ただの悪」ではありませんでした。 むしろ、扱い方しだいで、味方にもなる時間だったんです。
やっぱり、通勤は短いほど幸せらしい
まず、わりと身も蓋もない事実から。
通勤時間は、短いほど満足度が高い。 これは、はっきり出ていました。
具体的には、こんな感じです。
- 片道20分以内なら、満足度はいちばん高い
- 20分から35分くらいになると、少し下がる
- 35分を超えると、満足度はガクッと落ちる
「やっぱり短いほうがいいんじゃん」と言われたら、その通りです。
でも、僕がへえと思ったのは、ここからでした。20分というのが、なんとなく一つの目安になっている。これより長くなると、急に幸福度が削られ始めるラインがある、ということです。
これ、けっこう実感とも合うんですよね。
15分くらいの移動なら、「ちょっとした散歩」みたいな気持ちでいられる。でも、それが40分、50分となると、だんだん「耐える時間」に変わってくる。
同じ「移動」なのに、ある一線を越えたとたんに性質が変わる。 時間の長さって、こういう「質が変わる境目」があるんだなあと、妙に納得しました。
何で移動するかで、こんなに変わるのか
もう一つ、面白い発見がありました。
同じ時間の通勤でも、「何を使って移動するか」で、満足度がぜんぜん違ったんです。
満足度が高い順に並べると、こうでした。
- いちばん高いのは、徒歩や自転車などの「自分で動く」通勤
- 次に、車の通勤
- いちばん低いのが、電車やバスなどの公共交通機関
正直、ちょっと意外でした。
僕はてっきり、「楽に運んでもらえる電車がいちばんラクで、満足度も高いだろう」と思っていたからです。自分で歩いたり漕いだりするほうが、しんどいに決まってる、と。
でも、データはその逆を言っていました。
理由は、大きく二つあるそうです。
一つは、自分で動くこと自体が、ほどよい運動になっていること。体を動かすと気分が上がる、というのは、まあわかります。
そしてもう一つが、僕にはかなり刺さりました。 それは、「自分でコントロールできているかどうか」です。
歩きや自転車は、自分のペースで進めます。止まるのも進むのも、自分の意思です。 でも満員電車は違う。混雑も、遅延も、隣の人との距離も、全部、自分ではどうにもできない。
僕がいちばん消耗していたのは、たぶん「自分でどうにもできないこと」に囲まれている時間だったんだと思います。 移動の長さそのものより、自分の手綱を握れていない感じ。あれがしんどかった。
ここからが本題。通勤の大半は、ストレスじゃなかった
さて、ここまでなら「短く、自分で動け」という、まあ予想の範囲内の話です。
でも、この調査がいちばん面白いのは、ここからでした。
「通勤=ストレス」という、あれほど固かった常識。 それが、データの上では、けっこうあっさり崩れていたんです。
通勤中の感情を調べてみたら、ネガティブな気持ちでいる人より、リラックスしていたり、落ち着いていたりする人のほうが、圧倒的に多かった。
ある場面では、「ストレスを感じた」と答えた人が十数人だったのに対して、「リラックスしている・とくに何も感じない」と答えた人は、その十倍以上いた、というくらいの差でした。
つまり、ほとんどの人にとって、通勤は「苦痛に耐える時間」ではなかった。 むしろ、けっこう穏やかな時間だったわけです。
これを読んで、僕はちょっと言葉を失いました。
だって、僕自身は通勤を「消したい時間」だと思っていたのに、感情のデータを見ると、僕みたいな人のほうが少数派だったかもしれない、ということですから。
僕は、通勤がつらいと思い込んでいただけで、本当はそこまでつらくなかったのかもしれない。 「通勤は嫌なものだ」という台本を、勝手に演じていただけなのかもしれない。
そう思ったら、なんだか、急にそわそわしてきました。
通勤は、オンとオフを切り替える「のりしろ」だった
じゃあ、なんで人は通勤中にリラックスできるのか。
その答えとして書かれていたのが、僕にはいちばんしっくりきました。
通勤は、「のりしろ」みたいな役割を果たしている、というんです。
会社という、緊張している自分。 家という、ゆるんでいる自分。 このまったく違う二つの自分を、いきなり切り替えるのは、けっこう無理があります。
その間に、通勤という「どっちでもない時間」が挟まっている。 仕事モードを少しずつ脱いで、家モードに着替えるための、緩衝地帯。
そう言われてみると、思い当たることがありました。
仕事で嫌なことがあった日。もしその瞬間に瞬間移動で家に帰れたら、たぶん僕は、その嫌な気持ちをそのまま家に持ち込んでいたと思うんです。
でも実際は、帰りの電車に揺られているあいだに、なんとなく気持ちが落ち着いていく。窓の外をぼんやり眺めているうちに、「まあ、明日考えよう」くらいに切り替わっている。
あの「どうでもいいぼんやり時間」が、実は、心の切り替えをやってくれていた。 ムダだと思っていた時間が、こっそり仕事をしていたわけです。
ちなみに、長距離になってしまう場合は、公共交通機関にも強みがあるそうです。歩きや車と違って、移動中に本を読んだり、好きなものを観たりできる。退屈やストレスを、別のもので埋められる。自分でハンドルを握っていたら、それはできません。
なるほど、長い通勤には長い通勤の、ちゃんとした使い道があるわけです。
たかが通勤が、人生の幸福の「12%」を握っている
ここまでで、僕の中の「通勤=悪」というイメージは、だいぶ崩れていました。
でも、この調査でいちばん「うわ、そこまでか」と思ったのは、最後に出てきた数字です。
通勤の満足度が、その人の人生全体の感情のバランス——ポジティブな気持ちとネガティブな気持ちの、どっちが上回っているか——の、およそ12%を説明していた、というんです。
12%。
12%という数字を最初に読んだとき、「思ったよりずっと大きいな」と感じました。
だって、たかが通勤ですよ。一日の中の、ほんの一部です。仕事でもなければ、家族との時間でもない。人生の主役からは、いちばん遠いところにいる脇役みたいな時間。
その脇役が、人生の機嫌のうち、けっこうな割合を握っていた。
僕はこれを読んで、自分のことを振り返りました。
僕はいつも、人生の幸せを、どこか大きな出来事のほうに探していた気がします。昇進とか、旅行とか、特別な誰かと過ごす日とか。「何かいいことが起きたら、幸せになれる」と思っていた。
でも、そういう劇的な出来事って、年に数えるほどしかありません。 一方で、通勤は、毎日あります。
そして、毎日くり返されるものほど、気づかないうちに、僕らの気分のベースを作っている。
特別な日の幸せは、たまにしか来ない。 でも、地味な毎日の質の悪さは、毎日効いてくる。
たぶん、人生の機嫌を本当に決めているのは、後者なんじゃないか。 そんなことを、満員電車のことを考えながら、ぼんやり思いました。
……と、ここで僕はちょっと立ち止まった
ここまで書いてきて、僕は急に冷静になりました。
これ、調子に乗ると危ない話だな、と思ったんです。
だって、この流れだと、「だから通勤を楽しもう!」みたいな、やたら前向きな結論にたどり着きそうじゃないですか。明日から満員電車の中で無理やり笑顔を作って、「これは心ののりしろ……これは心ののりしろ……」と唱える。控えめに言って、ちょっと怖い。
そもそも、これはスウェーデンの都市での調査です。日本の朝の満員電車を、この人たちが体験したかどうかは、僕にはわかりません。あの圧縮された車内を「のりしろ」と呼べるかどうかは、正直、自信がない。
それに、「通勤は実はいいものだ」という話は、長時間通勤を我慢している人にとって、都合よく使われかねません。「ほら、通勤も悪くないんだから、もう少し頑張れるよね」みたいに。
それは違う、と思いました。 データが言っているのは「通勤を我慢しろ」じゃない。むしろ逆です。
短いほうがいい。自分で動けるならそのほうがいい。それははっきり示されている。 そのうえで、避けられない移動の時間には、ちゃんと役割もあった、という話なんです。
だから僕は、通勤を「敵」から外すことにした
この話を読んでから、僕がやめたことが一つあります。
それは、移動時間を「有効活用」しようと必死になるのを、やめました。
今まで僕は、通勤を消したいムダだと思っていたから、そこに無理やり勉強や情報を詰め込んで、せめて元を取ろうとしていました。でも、それをやればやるほど、心の「のりしろ」をつぶしていたんだと思います。緩衝地帯に、仕事を持ち込んでいたわけです。
だから今は、帰りの時間くらいは、あえて何も詰め込まないようにしています。
窓の外を見る。ぼんやりする。今日あったことを、考えるともなく考える。 生産的なことは、何もしていません。でも、たぶんそれでいい。その「何もしない移動」が、僕を仕事モードから降ろしてくれているんだから。
実際にやってみると、これが思ったより難しいんです。手が勝手にスマホを取り出して、気づいたら仕事のメールを開いている。せっかくの緩衝地帯に、自分から仕事を持ち込んでいる。何度も「いや、今は降ろす時間だろ」と自分にツッコミながら、スマホをポケットに戻しています。練習中です、いまだに。
そして、もう一つ決めたこと。 これからは、できるだけ「自分の足で動く部分」を、移動の中に少しでも増やそうと思っています。
一駅手前で降りて歩く。それくらいの、小さなことです。劇的に幸福になるとは思っていません。でも、自分の意思で進んでいる時間が、ほんの少し心をラクにしてくれるなら、やってみる価値はある気がしました。
僕らはつい、人生の幸せを、どこか特別な出来事のほうに探しに行きがちです。 でも本当は、毎日くり返している、こういう地味なルーティンの質のほうが、人生全体の気分を静かに決めているのかもしれません。
通勤は、もう僕の敵じゃありません。 うまく付き合えば、一日の機嫌を整えてくれる、地味だけど大事な相棒です。
明日の朝も、たぶん満員電車に揺られます。 それでも、一駅ぶんくらいは、自分の足で歩いてみようと思っています。 そのほんの数分が、僕の一日の機嫌を、こっそり整えてくれることに賭けてみるつもりです。


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