ツタンカーメンの呪いは本当か?発掘関係者の死亡記録と噂が広まった理由

ツタンカーメンの呪いは本当か?発掘関係者の死亡記録と噂が広まった理由 考察都市伝説

ツタンカーメンの呪いに証拠はあるのか

結論から言うと、ツタンカーメンの墓に「侵入者を殺す」という呪いの碑文は見つかっておらず、発掘関係者が不自然に早く死亡したことを示す統計的な証拠もありません。呪いの代表的な犠牲者とされたカーナーヴォン卿は、蚊に刺された傷から感染症を起こし、肺炎などを併発して亡くなりました。ただし、古代エジプトに墓を守る警告文が存在しなかったわけではなく、2002年の死亡者研究にも対象者の選び方などの限界があります。

ですから、「呪いは科学で完全に否定された」と一行で閉じるのも正確ではありません。確認できる範囲では、ツタンカーメンの呪いを支持する証拠はない。しかし、なぜ存在しない碑文が世界中で読まれ、病死や事故が一つの物語へ集められたのか。そこには、発掘の熱狂、新聞社どうしの競争、古代エジプトへの畏れ、そして死者の眠りを暴くことへの後ろめたさが重なっています。

呪いの正体を知るには、墓の奥より先に、1920年代の新聞紙面をのぞく必要があります。ファラオは三千年以上眠っていたのに、発見後わずか数か月で、本人の承諾もなく世界的な怪談の広報担当へ就任させられました。古代の王も、これには少し困ったと思います。

発見から「呪い」までに何が起きたのか

ツタンカーメンは、紀元前14世紀ごろの古代エジプトを治めた王です。九歳ほどで即位し、若くして亡くなったと考えられています。後の王たちは、宗教改革を行った父とみられるアクエンアテンにつながる痕跡を消そうとし、その影響でツタンカーメンの名も長く歴史の片隅へ追いやられました。[1]

考古学者ハワード・カーターは、その忘れられた王の墓が「王家の谷」のどこかに残っていると考えました。資金を出したのが、第5代カーナーヴォン伯爵ジョージ・ハーバートです。1917年から探索を続けても大きな成果が出ず、カーナーヴォン卿は資金提供を打ち切ろうとしました。カーターは最後の一季だけ続けるよう説得します。

1922年11月4日、エジプト人の作業員たちが階段の上部を発見しました。翌5日、カーターは手帳に、ラムセス6世の墓の下で墓を発見し、封印を確認したという短い記録を残しています。[2] 11月26日、通路の先にあった封鎖壁へ小さな穴を開け、ろうそくの光で中を見ました。動物のような像、彫像、そして金のきらめき。後にカーターが「すばらしいもの」と表現した光景です。

墓は古代に少なくとも二度侵入された形跡がありましたが、多数の副葬品が残っていました。前室、別室、宝庫、玄室の四室に、五千点を超える品々が収められていたとされます。墓全体を記録し、保存し、運び出す作業には長い年月が必要でした。発見は一夜の冒険に見えても、考古学の本体は、その後に続く気の遠くなるような番号付けと記録です。黄金の仮面の陰で、台帳が黙々と働いています。

1923年2月16日、玄室が正式に開かれました。そして同年4月5日、カーナーヴォン卿がカイロで亡くなります。発見から約五か月、玄室の開封から約七週間。物語を欲しがる人にとって、あまりにも「よくできた」間隔でした。

出来事と、後から加わった物語を分けるため、まず年表にします。

時期史料で確認できること呪いの物語で加わった意味
1917年から1922年カーターらが王家の谷で探索を続ける発見前から墓が人を誘い込んでいた
1922年11月4日エジプト人作業員が階段上部を発見封印を破った瞬間に呪いが解放された
1922年11月26日カーターらが封鎖壁の穴から前室を見る古代の警告を無視して侵入した
1923年2月16日玄室が正式に開かれる王の眠りを直接乱した
1923年4月5日カーナーヴォン卿が感染症と肺炎などで死去最初の犠牲者が呪いの実在を証明した
1939年3月2日カーターが発見から16年以上後に死去長く生きた中心人物は物語の脇へ置かれた

右端の意味は、当時のすべての新聞が同じ形で報じたということではありません。後世まで繰り返された典型的な語りを整理したものです。年表にすると、事実と解釈の間に、思った以上の距離があることが分かります。

有名な「死は翼に乗って訪れる」という碑文は存在しない

ツタンカーメンの呪いには、しばしば恐ろしい警告文が添えられます。「王の眠りを乱す者には、死が翼に乗って訪れる」といった文です。翻訳の細部はいくつもありますが、共通するのは、墓の入口に死の警告が刻まれていたという筋書きです。

ところが、ペンシルベニア大学博物館のエジプト学者デイヴィッド・シルバーマンは、墓の壁にも、内部で発見された品にも、そのような呪いはなかったと明記しています。[3]

墓の宝庫には、横たわるジャッカルの姿をしたアヌビス像がありました。その近くの泥漆喰に書かれた文には、秘密の部屋を砂から守る趣旨の言葉が含まれていました。また、玄室を囲む金色の厨子には『死者の書』などの葬送文書に由来する文章と、翼を広げた女神の図像がありました。

それが報道の中で、「敷居を越える者を殺す」「翼ある死が訪れる」といった脅しへ変形したとシルバーマンは説明します。本来は死者を守り、来世で生き続けさせるための文が、生者を殺す宣告へ裏返されたのです。翻訳というより、物語の着替えに近い。しかも着替えた後のほうが、新聞の見出しにはよく似合いました。

ここで境界をはっきりさせておきます。ツタンカーメンの墓に有名な呪いの碑文は確認されていません。ただし、古代エジプト人が墓を守る警告や呪詛をまったく書かなかったわけでもありません。この二つを混ぜると、「別の墓に警告があるのだから、ツタンカーメンにもあったはずだ」という話になってしまいます。

スコットランド国立博物館の学芸員ダニエル・ポッターによると、現存する墓の警告文は比較的まれで、多くは「この行為をしたら、この罰を受ける」という法的な構造を持ちます。[4] 墓から小石を持ち出すな、他人の墓を侵害せず自分の場所を探せ、といった内容もあります。必ずしも、映画のように即死を宣告するものではありません。

古代人の声は、現代人が期待するほど毎回おどろおどろしくありません。「ここは人の家です。勝手に荒らさないでください」という、三千年前の立入禁止表示に近い場合もあるのです。

カーナーヴォン卿は何で亡くなったのか

カーナーヴォン卿は1923年3月、王家の谷に滞在していた時期に蚊に刺されました。その傷をひげそりで傷つけたことで感染し、丹毒、敗血症、肺炎へ進んだと、オックスフォード大学グリフィス研究所の人物記録は説明しています。何度か持ち直したものの、4月5日に亡くなりました。[5]

医学誌『The Lancet』に掲載された検討では、高熱、強い痛み、両肺の肺炎があり、最終的に心不全と呼吸不全へ至ったことが記されています。[6] 抗菌薬が一般に使われる以前の時代です。小さな皮膚感染が生命を脅かすことは、現在よりはるかに珍しくありませんでした。

ここを「蚊に刺されただけで死ぬなんて不自然だ」と感じると、呪いが入り込む余地が生まれます。しかし、現代の医療感覚を1923年へそのまま持ち込むことはできません。傷から細菌が入り、全身へ感染が広がる経過には医学的な説明があります。

一方で、因果関係の言い方にも注意が必要です。残された記録から、墓の空気や副葬品が病気を引き起こしたと証明されたわけではありません。カビや胞子が原因だったという説も語られますが、カーナーヴォン卿の死因として確認されたものではありません。「超自然の呪いではないなら、古代の菌に違いない」と次の劇的な説明へ飛ぶのも、同じ穴に別のミイラを入れるようなものです。

病気の経過を説明できることと、ある一つの原因を完全に確定できることは違います。確認できるのは、感染症とその合併症で亡くなったという医学的記録があり、超自然的な力を持ち出さなくても経過を説明できる、というところまでです。

発掘関係者は本当に次々と早死にしたのか

呪いの話には、カーナーヴォン卿以外にも多くの死者が登場します。発掘隊員、墓を見学した人、関係者の家族、遺物に触れた博物館職員。ところが、「関係者」の範囲を広げるほど、いつか病気や事故に遭う人は当然増えます。

重要なのは、分母です。何人が墓に入り、そのうち何人が、どのくらい後に亡くなったのか。亡くなった人だけを集めると、連続した異変に見えます。長く生きた人、何も起きなかった人、そもそも墓に入っていないのに物語へ加えられた人を同じ一覧から外せば、結論は最初から決まってしまいます。

カーター自身は、墓の発見から16年以上後の1939年に亡くなりました。墓の中心人物が長く生きた事実は、呪いを語る物語では扱いにくい。主役が一話目で無事だと、怪談の脚本会議が困るからです。

1934年の時点で、メトロポリタン美術館エジプト部門のハーバート・ウィンロックは、墓の開封に立ち会った人々の多くが生存していることを挙げ、呪いに反論しました。後に疫学者マーク・ネルソンは、印象ではなく生存期間を比べようとします。

2002年の死亡者研究は何を調べ、何が言えないのか

ネルソンは2002年、『British Medical Journal』に「The mummy’s curse: historical cohort study」を発表しました。[7] これは、ツタンカーメンの墓に入った人たちの生存を、後から記録でたどる歴史的コホート研究です。

対象は、カーターの記録から、1923年2月から1926年11月までの重要な開封時期にエジプトにいたと確認できた西洋人44人です。そのうち、玄室、石棺、棺、ミイラの開封時に墓へ入った25人を「呪いにさらされた可能性がある群」とし、残り19人と比較しました。

墓へ入った25人の死亡時年齢は平均70歳、入らなかった群は75歳でした。潜在的な曝露から死亡までの平均期間は、墓へ入った群が20.8年、入らなかった群が28.9年でした。しかし、年齢や性別を考慮した生存分析では、呪いへの曝露と生存の間に統計的に有意な関連は見つかりませんでした。墓の奥へ何段階進んだかという「曝露量」が増えるほど早く亡くなる、という関係も確認されていません。

この研究からは、少なくとも「墓へ入った西洋人が、入らなかった西洋人より明らかに早死にした」とは言えないことが分かります。呪いを支える死亡パターンは見つからなかった、という結論は妥当です。

ただし、この研究を「呪いが絶対に存在しないことの完全証明」と呼ぶのは行き過ぎです。対象者は44人と多くなく、カーターの記録で追える西洋人に限られます。発見と発掘を実際に支えた多数のエジプト人作業員は分析に入っていません。歴史記録の残り方自体に、当時の権力差が反映されています。

また、研究が比べた主な結果は死亡までの期間です。事故、不運、病気の回数など、呪いと呼ばれてきたあらゆる出来事を測定したわけではありません。そもそも「超自然的な呪い」を科学的にどう定義するかという問題もあります。測れないように条件を後から変え続ければ、どんな反証からも逃げられてしまいます。

だから最も堅実な言い方は、「設定した条件と確認できる記録の範囲で、呪いによる早死にを支持する証拠はなかった」です。控えめに見えますが、科学の文章はこのくらいがちょうどよい。ファラオの呪いに対抗するため、こちらまで大げさな呪文を唱える必要はありません。

なぜ呪いは世界中へ広まったのか

呪いが広まった背景には、情報をめぐる争いがありました。カーナーヴォン卿は、発掘費用を補い、現場への取材攻勢を抑えるため、墓に関する報道の独占権をロンドンの『The Times』へ売りました。[3]

ほかの新聞社は、公式情報を『The Times』より早く出せません。世界が最も知りたがっている発見を前に、現場へ自由に入れず、一次情報にも触れにくい。そこで、独占契約の外側にいる新聞が競争するには、公式発表とは別の物語が必要になります。

秘密、警告、死、古代の魔術。呪いは、その条件をすべて満たしました。しかも1923年4月、カーナーヴォン卿が亡くなったことで、物語には現実の悲劇が結びつきます。新聞にとって、発掘の保存処理や目録作成は重要でも、毎朝の大見出しにするのは難しい。一方、「三千年の呪いが最初の犠牲者を出した」なら、一行で読者の目を止められます。

19世紀にはすでに、よみがえるミイラや墓の呪いを扱う小説が読まれていました。スコットランド国立博物館は、ミイラの呪いという観念が19世紀のフィクションで育ち、ツタンカーメン発見後の扇情的報道で広く定着したと説明しています。[4]

作家アーサー・コナン・ドイルは、カーナーヴォン卿の死について、古代の神官が墓を守るために作った「精霊的な存在」が関係した可能性を語り、報道をさらに熱くしました。シャーロック・ホームズの作者が超常的な説明を支持したことは、当時の人々には意外ではありません。ドイルは心霊主義を真剣に信じ、講演も行っていました。名探偵の作者だから、私生活でもすべてを虫眼鏡で片づけるとは限らないのです。

つまり、呪いは一人の記者が無から発明し、全員がだまされたという単純な話ではありません。すでにあったミイラ文学、古代エジプトへの熱狂、独占報道への反発、実際の死、著名人の発言が重なりました。物語が広まると、その後の死や事故は「新しい証拠」として吸い寄せられます。原因が違っていても、呪いという箱に入れれば同じ形に見えるのです。

通説と確認できる事実を対照する

ここまでを、後から見返せる形にまとめます。

よく語られる通説確認できる事実判断
墓の入口に死を告げる呪文があった墓の壁や発見品に、その呪文は確認されていない創作・誤訳が広まった可能性が高い
カーナーヴォン卿は原因不明で急死した蚊の刺し傷から感染し、丹毒、敗血症、肺炎などを経て死亡医学的に説明可能な経過が記録されている
墓へ入った人は次々に早死にした25人の曝露群と19人の非曝露群で生存差は有意でなかった早死にを支持する統計的証拠はない
古代エジプトの墓にはすべて呪いがある警告文は存在するが比較的まれで、ツタンカーメン墓には該当する呪いがない古代の慣習と近代の怪談を分ける必要がある
カビや古代の菌が呪いの正体だった墓の微生物がカーナーヴォン卿の死因だと確定した証拠はない超自然説の代わりに断定してはいけない

この対照から見えるのは、「説明がついたから全部くだらない」ということではありません。むしろ、どうすれば現実の出来事が、これほど長く残る伝説へ変わるのか、その仕組みのほうが不思議です。

僕の考察――呪いは、死者ではなく生者の側から生まれた

ここからは史料で確認された事実ではなく、僕の考察です。

ツタンカーメンの呪いを調べていて、僕が最も印象に残ったのは、存在しない碑文でした。本当は刻まれていないのに、人々は墓の入口に「入るな」という声を聞いた。新聞が作ったからだ、と説明することはできます。でも、作られた言葉が百年以上残るには、それを受け入れる側にも、何かが必要だったはずです。

墓は、ただの古い部屋ではありません。誰かが、自分の身体と名前と大切な品を置き、来世まで続く家として封じた場所です。近代の考古学は、そこを開き、記録し、保存し、人類の歴史を明らかにしてきました。その価値は大きい。一方で、本人が閉じてほしいと願った空間へ入る行為でもあります。

「呪われる」という物語は、死者の超能力を信じたい気持ちだけではなく、生者が境界を越えたことへの薄い罪悪感から生まれたのではないでしょうか。僕たちは、知りたい。黄金の棺を見たい。歴史を取り戻したい。けれど同時に、「ここまで入ってよかったのか」とも感じる。その矛盾を、呪いは一つの物語にしてくれます。

有名な偽の碑文は、奇妙な意味で、近代人が古代の王へ代わって書いた立入禁止札です。ツタンカーメン本人が残した言葉ではない。それでも、「眠りを乱すな」という内容だけは、墓という場所に対して僕たちが感じた倫理的なためらいを表しています。偽物だから無意味なのではなく、偽物であるからこそ、それを必要とした生者の心が見えるのです。

もう一つ気になるのは、2002年の研究がカーターの記録に名前のある西洋人を対象にしていることです。これは研究者の怠慢というより、追跡できる歴史資料の限界です。しかし、階段を最初に見つけ、砂を運び、発掘を支えたエジプト人たちの多くは、呪いを検証する名簿にも、世界的な発見の物語にも、十分な名前を残していません。

呪いの物語は「墓へ入った者を王が罰する」と語ります。けれど、歴史を見直すと、誰が墓へ入り、誰が発見者と呼ばれ、誰の名前が記録されたのかという、もっと現実的な問いが浮かびます。超自然の罰は確認できなくても、記録からこぼれた人々は確かにいます。

説は疑うべきです。死亡記録を選び、存在しない碑文を置き、原因不明をすぐ超自然へ結びつける語りは、事実として退けなければなりません。でも、ロマンまで捨てる必要はないと思います。

カーターが小さな穴からろうそくを差し入れた瞬間、三千年以上閉ざされていた金色の品々が、揺れる光の中に現れた。その驚きは、呪いがなくても少しも減りません。むしろ、魔法を足さなくても現実が十分に異様で美しいことに気づきます。名を消されかけた少年王が、死後三千年を経て世界で最も有名なファラオの一人になる。こちらのほうが、作られた呪文よりずっと奇妙です。

ツタンカーメンの墓に、死を運ぶ翼の碑文はありませんでした。ただ、翼を広げて王を守る女神の姿はありました。生者はその翼を「侵入者へ飛んでくる死」に読み替えましたが、本来は死者の永遠を守る翼でした。

同じ翼を見ても、守護と脅威のどちらを読むかは、見る側の心で変わります。呪いの正体は墓の奥から放たれた力ではなく、閉ざされた扉を前にした人間の想像力だったのかもしれません。そして想像力は、ときに史料を歪めますが、同時に、遠い死者の眠りへ畏れを取り戻す力にもなります。

証明されていないから真実ではない。美しいから事実でもない。それでも、なぜ僕たちが死者に「怒っているはずだ」と思わせたのか。その問いを残しておくことは、古代の王より、現代を生きる僕たちを知る手がかりになるはずです。

参考文献・出典

[1] Egypt Exploration Society, “Unearthing Tutankhamun” (2022). ツタンカーメンの治世、カーターとカーナーヴォン卿の探索、1922年11月の発見経過を整理したエジプト探査協会の資料。https://www.ees.ac.uk/resource/unearthing-tutankhamun.html

[2] Griffith Institute, University of Oxford, “Tutankhamun: Anatomy of an Excavation” / Howard Carter’s excavation diaries. カーターの手帳、発掘日誌、写真、カードなどを公開する一次資料アーカイブ。https://www.griffith.ox.ac.uk/discoveringtut/

[3] Silverman, D. P. (1987). “The Curse of the Curse of the Pharaohs.” Expedition Magazine, Penn Museum. 呪いの碑文が存在しないこと、報道独占契約、文言の変形、関係者の死亡が物語化された経緯を検討した博物館資料。https://www.penn.museum/sites/expedition/the-curse-of-the-curse-of-the-pharaohs/

[4] Potter, D. (2025). “Ancient Egyptian tomb warnings, curses, and ghosts.” National Museums Scotland. 古代エジプトの墓の警告文、死生観、19世紀のミイラ文学と近代の呪い像の違いを解説した博物館資料。https://www.nms.ac.uk/discover-catalogue/ancient-egyptian-tomb-warnings-curses-and-ghosts

[5] Griffith Institute, University of Oxford, “Lord Carnarvon.” 蚊の刺し傷から丹毒、敗血症、肺炎へ進んだ経過と1923年4月5日の死を記録した人物資料。https://tutankhamun.griffith.ox.ac.uk/people/lord-carnarvon

[6] Cox, A. M. (2003). “The death of Lord Carnarvon.” The Lancet, 361(9368), 1498–1499. 残された医学記録からカーナーヴォン卿の症状と死因を検討した医学誌の論考。https://doi.org/10.1016/S0140-6736(03)13576-3

[7] Nelson, M. R. (2002). “The mummy’s curse: historical cohort study.” BMJ, 325(7378), 1482–1484. カーターの記録で追跡できた西洋人44人を、墓への潜在的曝露の有無で比較した歴史的コホート研究。https://doi.org/10.1136/bmj.325.7378.1482

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