——正しさも、幸せも、信じられなくなった僕の独白
きっかけは、引っ越したばかりの夜だった
引っ越しをしたばかりの頃だった。
段ボールはまだ部屋の隅に積まれたままで、 カーテンも仮のもの。 部屋は妙に音が響いて、 自分の生活音だけがやけに大きく聞こえた。
夜、スマホの明かりだけで天井を見ていると、 急にどうでもいいはずの疑問が胸の奥から湧いてきた。
「……これ、何のために生きてるんだろうな」
別に不幸なわけじゃない。 食べるものもあるし、住む場所もある。 誰かと比べて極端に恵まれていないわけでもない。
なのに、 理由もなく”このままでいいのか分からない感じ”だけが残る。
この感覚、 たぶん同じように感じたことがある人は少なくないと思う。
正しさが、急に信用できなくなった
SNSで見た「正義の人たち」
その夜、何気なくSNSを眺めていた。
誰かが誰かを叩いていて、 それに対して別の誰かが「お前の方が間違っている」と返している。
政治、宗教、ジェンダー、働き方、生き方。
どの話題にも”正しい側”がいて、 全員が「自分こそ正義」みたいな顔をしている。
画面をスクロールしながら、 ふと冷めた感情が湧いてきた。
正しさって、こんなに簡単に人を攻撃する道具になるんだっけ?
(まあ僕も、コンビニでレジ割り込みされたら心の中で全力で裁いてるけど。)
正しさは時代と場所で簡単にひっくり返る
少し前の時代では「正しかったこと」が、 今では「差別」や「悪」になっていることがある。
国が違えば、 同じ行為が英雄にも犯罪者にもなる。
それを考えた瞬間、 自分が信じている価値観まで、 急に心もとなく見えてきた。
「今の自分の正しさも、10年後には”ズレた人”扱いされてるかもしれないな」
そう思うと、 正しさにしがみつく気力が、少し抜けた。
宗教や思想が「綺麗ごと」に見えた夜
「人間は特別」という物語への違和感
本棚にあったスピリチュアル系の本を、 気まぐれで開いた。
「あなたには意味がある」 「人は尊い存在だ」 「あなたはこの世界に必要とされて生まれてきた」
言葉自体は、嫌いじゃない。 むしろ、弱っているときには救われる人も多いと思う。
でもその夜は、 なぜか素直に受け取れなかった。
世界中に宗教や思想がこれだけたくさんあって、 みんな「愛」や「平和」や「幸せ」を語っている。
それなのに世界はずっと争っていて、環境は壊れ続けていて、人はどこか息苦しそうに生きている。
なんで?
平和を説いてるはずの人たちが、 自分と違う考えの人を「間違っている」と排除する。
「善を信じる心」そのものが、 他者を傷つける理由になっている場面を、何度も見てきた。
結局のところ、争いの根っこにあるのは宗教そのものの失敗じゃなくて、 「自分たちが正しい」という安心感が生む排他性なんじゃないかと思った。
宗教は「道」を示すけど、 歩くのは人間だ。
そして人間は、恐怖や不安や欲望に簡単に引きずられる。
教えを理解することと、それを生きることは、まったく別物だった。
地球や宇宙から見たら、人間はそこまで特別じゃない
宇宙の映像を見たことがある人なら分かると思う。
あのスケールの中で、地球なんてほとんど点だ。
その点の上で、 人類は増えすぎたり、争ったり、勝手に環境を壊したりしている。
でも地球の歴史を考えてみると、
- 全球凍結(地球まるごと凍りつく時代)
- 隕石衝突で生物の9割以上が絶滅
- 酸素が毒だった時代
こんなことを何度も経験して、それでも地球は回り続けてきた。
つまり、 **壊れているのは「地球」じゃなくて、「人間にとって都合のいい環境」**なんだと思う。
地球にとっては、人間の争いも環境汚染も、 長い歴史の中の一時的なノイズに過ぎない。
増えすぎたものは減る。 生態系は形を変えて再編される。 人間も、例外じゃない。
じゃあ問題ないのかというと、 地球にとっては問題ない。 でも、その過程で苦しむのは僕たち人間だ。
そう気づいたとき、 「人間のための物語」ばかり語る思想が、 少し空虚に見えてしまった。
(いや、それを言い出したら夜に一人でブログ書いてる行為もだいぶ空虚なんだけど。)
「正しさ」と「真理」は別物だった
正しさは社会の運営ルール
あの夜、 もう一つ気づいたことがある。
僕たちが「正しい」と呼んでいるものは、 時代・宗教・国家・立場によって変わる。
つまり正しさは、
- 社会が回るための約束
- 多数派や権力が決めるもの
- 状況に応じて書き換えられるもの
言い換えれば、 **人間社会を運営するための”都合のいいルール”**であって、 宇宙レベルの絶対的な真理ではない。
真理は言葉にした瞬間ズレる
じゃあ「真理」ってあるのか。
僕はたぶん、あると思っている。
ただしそれは、
- 言葉にしきれない
- 体系化すると歪む
- 「これが真理だ」と言った瞬間にズレる
という、かなり扱いにくい性質を持っている気がする。
真理は便利かどうかに関係ないし、人を安心させるとも限らない。
だから社会の表舞台にはほとんど出てこない。
一方「正しさ」は、
- 仲間ができる
- 立場が守られる
- 行動の理由になる
人が壊れずに生きるための支柱になる。
だから人は、真理よりも正しさを選び続けてきたんだと思う。
それは弱さというより、生存戦略だ。
じゃあ真理に近づく方法はないのかというと、 完全に掴むことはできなくても、 遠ざからない態度なら持てる。
それは何かというと、 **「自分の正しさを疑い続けること」**だと思う。
- 自分は間違っているかもしれない
- それでも今は、こう振る舞う
この姿勢は、たぶんどの時代にも通用する。
逆説的だけど、 真理に最も近い人は、「私は真理を持っていない」と知っている人なんじゃないかと思う。
(……急にカッコいいこと言ったな、と自分でも思ってる。明日の朝読み返したら恥ずかしいやつ。)
欲望が、自分を苦しめていることに気づいた
欲望の正体は「不安定でいたくない」という衝動
しばらく天井を見ながら、 自分の頭の中を整理してみた。
不安の正体って、何だろう。
- もっと上手く生きたい
- 意味のある人生を送りたい
- 誰かに認められたい
- このまま終わるのが怖い
結局、全部「欲望」だった。
でも、よく考えると、 欲望って単なる物欲やお金の話だけじゃない。
もっと根っこにあるのは、
「不確実な世界の中で、自分を固定したい」
という衝動だと思う。
「私は○○である」 「世界は○○であるべきだ」
そういう固定点を欲しがる。
宗教も、思想も、国家も、成功も、愛も、正しさも、承認も、 全部その「固定点」のバリエーションなんじゃないかと思った。
満たされない感じは、たぶんデフォルト
欲しいと思えば思うほど、 満たされない瞬間が増える。
思い通りにならない現実に、 勝手にがっかりして、 勝手に疲れていく。
何かを手に入れても落ち着かないし、 次の欲望がすぐ現れる。
これは僕の性格の問題じゃなくて、 欲望ってそういう構造なんだと気づいた。
欲望は「何かを得たい」のではなく、 **「不安定でいたくない」**という衝動だから、
満たしても満たしても、 次の「不安定」がすぐ見つかる。
だから「幸せになれない自分はダメなんだ」と思う必要はない。
うまくいかない感じ、 満たされない感じ、 どこか噛み合わない感覚は、
たぶんかなり”デフォルト”に近い。
(そう思えたら、深夜にコンビニでプリン買って帰る自分を少し許せるようになった。)
生きてるだけで、ちょっと苦しい
生には構造的に痛みが含まれている
欲望があるということは、 **「こうであってほしい」「今は十分ではない」**という差分を感じているということだ。
この「差分」こそが、苦しみの最小単位だと思う。
つまり、欲望と苦しみは表裏一体ということになる。
- 生きたいと思えば → いつか死ぬ
- 愛したいと思えば → 失う可能性がある
- 何かを大事にすれば → 壊れる不安が生まれる
これは誰のせいでもなく、 生きるという構造そのものだ。
だからと言って「人生は不幸であるべき」とは思わない。
ただ、 生には構造的に不確かさと痛みが含まれている という、かなり冷静な見方ができるようになった。
それだけで、 自分を責める気持ちが少し減った。
それでも生まれてくる理由(もし魂があるなら)
ここからは完全に僕の妄想に近い話なんだけど。
もし魂みたいなものがあると仮定するなら、 完成した存在が降りてくるんじゃなくて、不確定な状態で世界に投げ込まれる というイメージの方がしっくりくる。
苦しみのない場所では、 選択も、迷いも、手放しも起きない。
生まれるとは、 安全圏では起きない経験に身を晒すことなのかもしれない。
じゃあ「成長するため」なのかというと、 その言い方はちょっと甘い気がする。
もう少し正確に言えば、
魂は「関係の中で現れる」ために生まれる。
他者との関係、世界との摩擦、欲望との衝突。
その中で初めて、 「何を選ぶのか」「何を手放すのか」が問われる。
……とか書いてると急にスピリチュアルっぽくなるから自分で怖くなるんだけど。
結局のところ、 一番誠実な答えはこれだと思う。
なぜ生まれたのかは、生きている間には分からない。
だから人は物語を作る。 理由を与える。 神話を語る。
それは嘘というより、 人が耐えるための言語なんだろう。
「目覚めた人」になりたくなかった
覚醒ムーブの危うさ
こういうことを考えていると、 たまに”答えっぽい言葉”に出会う。
「あなたは真理に気づいた側の人間だ」 「目覚めた人間は少数派だ」 「あなたの波動は高い」
正直、 その言葉にすがりたくなる夜もあった。
分からない状態って、しんどい。 何か一つ、「これが答えです」と言ってくれる存在が欲しくなる。
でも僕は、その言葉に乗らなかった。
なぜかというと、 「分かった側」に立った瞬間、人は簡単に他人を見下し始めるからだ。
実際、ネットで見かける自称覚醒者たちは、 深い問いの”雰囲気”だけを借りた、 かなり質の悪いコピー品に見えることが多い。
「自分は目覚めている」 「多くの人は未熟だ」 「問いを持つ自分は特別だ」
この語り口は、 一見深いようで、 中身は自己肯定感の過剰チャージだと思う。
「分かった側」に立つことへの警戒
ちゃんと考え抜いてきた思想って、 実はどれも同じことを警戒している。
**「分かった気になっている自分こそ、最も危うい」**ということだ。
- 悟ったと思った瞬間が最大の迷い
- 語れるようになった時点で本質からズレている
- 「知っている」と思い込む無知が一番たちが悪い
本物の思索って、
- 安心を与えない
- 自己像を壊す
- 立場を与えない
- 「あなたも私も分かっていない」と言う
つまり、人を元気づけないし、世界を良くすると約束しないし、明るい未来を保証しない。
逆に、質の悪いスピリチュアルは、
- 安心を与える
- 役割や使命を与える
- 「あなたは選ばれている」と言う
……要するに、欲しい言葉をくれる。
その違いに気づいてからは、 甘い言葉ほど警戒するようになった。
(これ、恋愛でも同じだと思う。やたら褒めてくる人ほど危ない。)
それでも、生き方は選べる気がした
壊れにくく生きるということ
あの夜から、ずっと考えている。
世界に正解がないなら、 人はどう生きればいいのか。
で、僕がたどり着いた(というか、たどり着きかけている)感覚はこうだ。
「正しく生きる」よりも、「壊れにくく生きる」ことを目指した方がいい。
正しさにしがみつくと、
- 自分が苦しくなる
- 他人を裁きたくなる
- 世界が敵に見える
一方、「壊れにくさ」はもっと人間的だ。
- 完璧でなくていい
- 間違えても戻ってこられる
- 他人の違いに耐えられる
欲望をなくすんじゃなくて、「欲望が起きているな」と気づけるだけでいい。
そうすると、 欲望は命令ではなく、ただの現象になる。
自分の中の弱さ――怒り、妬み、怖さ、逃げたい気持ち。 それを「ダメなもの」と切り捨てるほど、歪みは大きくなる。
「こんな感情があるな」と気づけるだけでいい。
気づける人は、他人の弱さにも少し優しくなれると思う。
小さな暴力を増やさないという選択
世界を救えなくてもいい。 人類の未来を背負わなくてもいい。
僕が最近やっているのは、こんな感じだ。
- 自分の正しさを、簡単に他人に押しつけない
- 分からないことを、分かったフリで埋めない
- 誰かを悪者にすることで、自分を正当化しない
- 目の前の一人に嘘をつかない
- 弱い立場の人を笑わない
- 自分が傷つけたら、言い訳せず認める
こういう誰にも見えない小さな善は、 大きな思想よりも確実に世界を保つと思っている。
世界を良くすることは出来なくても、 少なくとも、世界を悪くする側に”積極的に”ならないことくらいは出来る。
それだけで、 この息苦しい感じの中でも、 ほんの少しだけ楽に呼吸できる気がしている。
おわりに:この違和感は、たぶん間違っていない
正しさにも、 幸せにも、 宗教や思想にも、 どこか引っかかる感じが消えない夜がある。
でも今は、 その違和感を無理に消そうとはしていない。
答えを持てないまま考え続けることも、ひとつの誠実さだと思えるようになったから。
幸せになれなくてもいい。 悟れなくてもいい。 特別じゃなくていい。
それでも、 こうして考え続けてしまう自分を、 無理に否定しなくていい。
もし今、 「この世界、どこかおかしくないか?」と感じているなら、 その感覚は、 たぶんあなたがちゃんと世界を見ようとしている証拠だ。
救いの言葉じゃないけど、 少なくとも、
その違和感を持つ人は、あなただけじゃない。
「分からないまま生きている人間が、ここにもう一人いますよ」

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