「どちらでもない」が許されない場面の話~白黒つけることの功罪、分類の落とし穴~

「どちらでもない」が許されない場面の話 生き方・考え方

どちらでもない、という答えが許されない場面がある。

仕事か家庭か。安定か挑戦か。今を楽しむか将来に備えるか。

「で、結局どっちなの?」という問いが来たとき、「どちらでもあるし、どちらでもない」と答えると、相手はだいたい困った顔をする。

でも正直、「どちらかに決めてください」という問いに違和感を感じることが多い。

人間の感情も状況も、そんなにきれいに二つに分けられるものじゃない気がするから。

ある時期、「自分はどういう人間か」を明確に言語化しようとしていた。強みはこれ、弱みはあれ、目指しているのはこっちの方向。

でも整理すればするほど、何か大事なものが落ちている感じがした。

きれいに言語化できた部分はあっても、言葉にできない自分が残っていて、むしろその部分の方が重要な気がしていた。

「白黒つけること」の功罪

物事を分類することは、便利だ。

仕事のできる人と苦手な人、好きなこととそうでないこと、やるべきこととやらなくていいこと。区別することで判断が速くなり、動きやすくなる。

でも、この分類という操作にはコストがある。

分類の外側に落ちるものが必ず出てくる。どちらにも完全には当てはまらないものが、どちらかに押し込まれたり、無視されたりする。

人間についてこれをやると、けっこう問題が起きる。

「この人は使える人か使えない人か」という分類を始めると、どちらでもない人が見えなくなる。「あいつは信頼できるか信頼できないかどちらだ」という問いは、実際には「信頼できる部分もそうでない部分もある」という答えを切り捨てる。

自分自身についても同じだ。

「自分は自信がある人間か自信がない人間か」という問いに答えようとすると、「場面による」という最も正直な答えが無効化される。

白黒つけることで、分かりやすくなる。でも分かりやすくなった分、実際とのズレが生じる。

このズレに気づかないでいると、「自分で整理したはずの現実」と「実際に感じていること」が乖離していく。

一つ体験談を書くと、以前チームの人間関係を整理しようとしたことがある。

「あの人は信頼できる」「この人は少し注意が必要」と分類してみた。分類すると、一時的に安心した。接し方が分かりやすくなった気がした。

でもしばらくして気づいた。分類した瞬間から、「信頼できないカテゴリー」に入れた人への見方が変わっていた。少し距離を置くようになった。そして相手も、僕が距離を置いていることを感じ取っていたかもしれない。

結果的に、「この人は注意が必要」と判断した根拠は、その後の関わり方によってさらに強化された。

「そうである」と決めた瞬間から、「そう見える証拠」ばかりを拾うようになる。

分類は、一度やると取り消しにくい。だからこそ、「どちらでもある」「まだ分からない」を保持し続けることの価値がある気がしている。

力んでいるときと、力が抜けているときの違い

何かに必死に取り組んでいるとき、うまくいかないことがある。

頭では分かっているのに、身体がついてこない。もっとうまくやろうとすればするほど、ぎこちなくなる。

でも、ある瞬間に「もういいや」と力が抜けると、急にスムーズになることがある。

これは色々な場面で経験した。

文章を書くとき、「うまい文章を書かなければ」と思いながら書いていると、どこかぎこちなくなる。でも「とりあえず思ったことを書いてみよう」と思い直したとき、言葉が自然に出てきやすくなる。

人と話すときも似たようなことが起きる。「うまく伝えなければ」「良い印象を与えなければ」という意識が強いと、かえって会話が詰まる。でも「まあ伝わればいいか」という感じで話しているとき、不思議と伝わりやすい。

この「力を抜いたときの方がうまくいく」という経験は、スポーツでも仕事でも、特定の分野に限らず起きる気がしている。

なぜなのか、ずっと気になっていた。

一つの仮説は、「うまくやろうとする意識」が、自分の中にある自然な動きを邪魔しているということだ。

意識的に「こうしよう」と思って動くとき、その思考が実際の動きに遅れを生んでいる。でも意識より先に体や感覚が動くとき、その遅れがない。

「力を抜く」というのは、手を抜くことじゃない。意識的な努力を手放して、もっと奥にある自然な動きに任せることだと思っている。

このことを一番強く感じたのは、プレゼンの場面だった。

入念に準備した発表で、緊張しすぎてぎこちなくなった経験がある。準備しすぎたせいで、「次にこれを言わなければ」という意識が前に出すぎて、目の前の反応を見られなくなっていた。

逆に、ほとんど準備できないまま臨んだ発表で、「とりあえず自分が思っていることを話そう」と開き直ったとき、むしろ場がうまく動いたことがある。

準備が少なかったから良かったわけじゃない。でも、「うまくやろう」という意識が薄かったから、目の前の人に集中できた。

この経験から、「準備」と「力を抜くこと」は対立しないと思っている。準備はしっかりやって、でも本番は「準備した自分に任せる」ような感覚。

それができるかどうかが、実力を発揮できるかどうかに関係している気がしている。

不完全なものに、なぜ惹かれるのか

完璧に整ったものより、少し崩れたものの方が好きなことがある。

整然と並んでいる本棚より、少し乱れた本棚の方が生活感があって好き、という感覚。新品のテーブルより、傷が入って使い込まれたテーブルの方が落ち着く、という感覚。

なぜだろうと考えることがある。

一つは、不完全さに「時間」が見えるからだと思う。傷や汚れや色の変化は、その物がそこにあり続けた時間の痕跡だ。完璧に整ったものにはそれがない。

もう一つは、不完全さに「余白」があるからかもしれない。完璧に完成したものは、見る側に何かを想像させる隙がない。でも少し欠けていたり、完成しきっていないものは、見る側が何かを補う余地がある。

音楽でも、テンポが少し揺れていたり、声に少し荒さがある方が、心に刺さることがある。完璧に整ったパフォーマンスより、どこかに生身の感触があるものの方が、記憶に残りやすい。

これは、完璧さを目指さなくていい、という話ではない。

でも、「完璧でなければ価値がない」という考え方に対して、「不完全さの中にも何かがある」という視点を持っていることが、日常を少し豊かにしてくれる気がしている。

自分が何かを作るときも、「完成させなければ」という意識が強すぎると、手が止まる。でも「不完全でもいいから出してみよう」という気持ちに切り替えると、動けることがある。

完成への強迫観念を少し緩めること。それが、継続することへの入口だと思っている。

このブログを書き続けていると、「ちゃんと書けるまで出さない」という心理が働くことがある。

でも「ちゃんと書けた状態」を待っていると、なかなか出せない。

出すことで、次が書けるようになることも多い。不完全でも出したものが、誰かの何かに触れて、それがまた自分に返ってくる。

完全な状態を待って出すより、不完全なまま出して動き続ける方が、長期的には積み重なるものが多い気がしている。

不完全さを許容することは、諦めることじゃない。完成という幻想より、動き続けることを選ぶことだと思っている。

何気ない場面に「何か」を感じる瞬間

電車の窓から夕焼けを見ていたとき、突然「きれい」と思った。

当たり前といえば当たり前の場面だ。でも、スマホを見ていた手が止まって、しばらく窓の外を眺めた。

その後、何があったわけでもない。でも、その少しの時間が、その日の疲れを少し和らげた気がした。

こういう経験が、たまにある。

特別なことが起きたわけじゃない。でも、日常の何でもない瞬間に、何か言葉にしにくいものを感じる。

コーヒーの温度。雨の音。ふと嗅いだ匂い。

言語化しようとすると消えてしまうような感覚だけど、確かに「何かある」という気持ちになる瞬間。

最近これを、意識的に拾うようにしている。

スマホを置いて、窓の外を見てみる。移動中に周りの音を少し聞いてみる。食事の味を、少し意識してみる。

特別なことをしているわけじゃない。でも、こういう小さな場面に「何か」を感じられる頻度が増えると、日常の密度が少し変わる気がしている。

これは感受性の話でもあるけど、それより「注意の向け先」の話だと思っている。

スマホやタスクに注意を向け続けていると、日常の細部が見えなくなる。でも少し向け先を変えると、ずっとそこにあったものが見えてくる。

そして面白いのは、こういう小さな「何か」に触れた瞬間の方が、ずっと記憶に残りやすいということだ。

何かの達成や、大きな出来事は、時間が経つと記憶の中での輪郭が薄れることが多い。でも、ふとした瞬間に感じた「何か」は、数年後でも妙に鮮明に残っていたりする。

あの夕焼けを見た電車の中のことは、まだ覚えている。

なぜ記憶に残るのかは分からない。でも、「ちゃんと感じた瞬間」というのが、脳や心に何かを刻むのかもしれない。

ただ通り過ぎるのではなく、少し止まって感じる。その差は小さいけど、積み重なると大きい気がしている。

分からないまま置いておくこと

何かを分からないままにしておくことが、苦手な人がいる。

「なぜそうなのか」「この先どうなるのか」「これは何を意味するのか」を、すぐに答えを出して解決しようとする。

それ自体は問題解決能力として大事だと思う。でも、答えが出せないものまで無理に解決しようとすると、おかしなことが起きる。

答えが出せないから、「とりあえず答え」を当てはめる。本当は分からないのに、「これはこういうことだ」と断定して、その断定した解釈で動き始める。

これは、先ほど書いた「白黒つける」ことと繋がっている。

分からないままにしておくことへの不安が強いから、無理に分類して安心しようとする。

でも「分からない」ということを、「まだ答えが出ていない状態」として保持しておくことは、実は大事な能力だと思う。

答えを急がずに、じっくり感じ続けること。情報を集め続けること。そうしているうちに、ある瞬間に「ああ、そういうことか」と感じる瞬間が来ることがある。

この「ああ」という瞬間は、頑張って答えを出そうとしているときより、少し力が抜けているときに来ることが多い気がしている。

分からないものを分からないまま抱えながら、それでも日常を続けること。

それはある種の、知的な忍耐力かもしれない。

これは「判断を保留する」という消極的な態度とは少し違う。

「分からない」という状態を、ただ宙ぶらりんに放置しておくのではなく、「まだ分かっていないが、感じ続けている」という積極的な状態だと思っている。

観察を続けながら、情報を集め続けながら、でも結論を急がない。

この態度は、ある問題に向き合うときだけじゃなく、人間関係にも使えると思っている。

誰かのことを「この人はこういう人だ」と早々に決めてしまうのではなく、「まだ分かっていない」という状態を保ちながら関わり続けると、相手の見えていなかった面が見えてくることがある。

分からないまま、感じ続けること。これが今の僕にとって、割と大事な姿勢だと思っている。

「頑張る」という言葉への、少しの違和感

「頑張れ」という言葉をかけられると、少し複雑な気持ちになることがある。

もちろん悪意はない。励まそうとしてくれているのは分かる。

でも「頑張れ」という言葉の中には、「今は頑張っていないから、もっと頑張れ」という前提が含まれているように感じることがある。

あるいは「頑張り続ければ報われる」という約束が含まれているように聞こえることがある。

どちらも、必ずしも正しくない。

すでに頑張っている人に「頑張れ」と言うのは、追い打ちになることがある。そして頑張れば報われるとは限らないことも、経験上分かっている。

「頑張る」という言葉自体が、「力を入れて意識的に努力する」というニュアンスを持っている。

でもここまで書いてきたように、力を入れすぎることが、うまくいかない原因になることもある。

「頑張る」より「続ける」の方が、長期的には大事な気がしている。

猛烈に頑張る時期があってもいい。でも、それよりも「力を抜きながら続けられるペース」を見つけることの方が、10年単位で見たときに積み上がるものが多い気がしている。

「頑張れ」と言われたとき、「はい、頑張ります」と答えながら、心の中では「でも力を抜く方法も考えよう」と思っている。

日常を、少し丁寧に扱うこと

最後に、最近気をつけていることを書く。

何かをするとき、「効率的にこなす」という視点だけじゃなく、「これを少し丁寧にやってみたらどうなるか」という視点を持つようにしている。

食事を急いで食べるのではなく、少し味を感じながら食べてみる。メールを送る前に、もう一度読み返してみる。人と話すとき、答えを急がずに相手の言葉をもう少し聞いてみる。

特別なことじゃない。でも、これをやっていると、同じ時間の中に含まれているものが変わってくる気がする。

効率化すれば同じことをより短時間でできる。でも、その「短縮した時間」に何を詰め込んでも、また効率化しようとする。結果として、常に何かをこなし続けている状態になる。

丁寧にやることは、効率と逆方向に動いているように見えて、実は「その時間から取り出せるものの量」を増やしているかもしれない。

短く薄くたくさん経験するより、少し時間をかけて深く経験する方が、後に残るものが多いことがある。

これも、力を抜くことに繋がっているのかもしれない。こなすことへの焦りを少し手放して、今やっていることに少し向き合う。

簡単に言えるけど、実際は難しい。でも、「今日は少し丁寧にやってみよう」という日を意識的に作ることが、自分の中で最近増えてきた。

「丁寧にやる」とは、時間をかけることじゃなくて、「今やっていることに少し向いている」状態だと思う。

5分の作業を20分かけてやることじゃなく、5分の作業をやっている5分間に集中していること。

この区別は、体感としてかなり違う。

「ながら」でこなしている時間と、少しだけ向き合っている時間では、同じ時間でも中身が全然違う。

一日を振り返ったとき、「あの時間はちゃんとそこにいた」と感じられる場面がいくつあるか。

その数が、日常の豊かさに関係している気がしている。

白黒つけなくていいこと、力を抜いていいこと、不完全でもいいこと、分からないまま置いておくこと。

これらは全部、「ちゃんとやらなければ」という焦りを少し緩めることに繋がっている。

その焦りを緩めると、見えてくるものがある。感じられるものがある。

それが今のところ、日常を少し違う質にしてくれる、一番シンプルな方法だと思っている。

どちらかに決めなくていいこと、力んで答えを出さなくていいこと、不完全なまま動き続けること。

これを少しずつ実践できると、毎日が変わる。大きく変わるわけじゃないけど、何か違う感触がある。

そういう、言葉にしにくいけど確かにある「何か」を、少しずつ拾い続けていきたいと思っている。

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