嫉妬したことがある。
それを認めるのに、少し時間がかかった。
同期が先に昇進したとき、最初に浮かんだのは「おめでとう」じゃなかった。「なぜあいつが」という感情だった。
その感情をすぐに押し込もうとした。嫉妬するなんて器が小さい、相手の努力を認めなさいと、自分に言い聞かせた。
でも、押し込もうとすればするほど、その感情はしぶとく残った。
しばらく経ってから、「この嫉妬は何を言っているのか」と向き合ってみた。
そこで気づいたのは、嫉妬には「自分もそうなりたかった」という気持ちが含まれているということだ。
「あいつが羨ましい」の裏には、「自分がそれを欲しがっていた」という事実がある。
嫉妬は恥ずかしい感情として扱われるけど、それは同時に「自分が何を求めているか」を教えてくれる感情でもあると思った。
嫉妬が教えてくれること
嫉妬しない人はいないと思う。
「あの人はいいな」「なぜ自分じゃないんだろう」という感情は、程度の差はあっても誰でも持っている。
でも、嫉妬という感情への対処の仕方は人によって全然違う。
一つ目は、押し込めるパターン。「嫉妬するのは器が小さい」「相手のことをちゃんと認めなければ」と自分を戒めて、感情をなかったことにする。
二つ目は、外に向けるパターン。相手の欠点を探したり、「あいつの成功には裏がある」と理由をつけたり、相手を下げることで自分のバランスを保つ。
三つ目は、自分への問いに変えるパターン。「自分はなぜこれを羨ましいと思うのか」を考えて、自分が求めているものを見つける手がかりにする。
三つ目が一番難しいし、一番時間がかかる。でも、嫉妬を自分への問いに変えると、「自分が本当に何をしたいのか」が少し見えてくることがある。
あのとき同期に嫉妬したのは、「自分も早く認められたかった」という気持ちがあったからだ。
それに気づいてから、「認められるために何をするか」より「自分が何をしたいか」という問いの方が先だと思えるようになった。
嫉妬は、自分が気づいていなかった自分の欲求を教えてくれる、変な形の地図みたいなものかもしれない。
ただ、これをやるには一段階の作業が要る。嫉妬しているという事実を、まず認めること。
これが思いのほか難しい。嫉妬は「恥ずかしい感情」として内面化されていることが多いから、認めたくない。
でも認めないまま押し込めると、嫉妬はより根強くなる気がしている。
認めることで、「この感情は何を言おうとしているのか」という問いに移れる。
嫉妬を認めることは、自分の弱さを認めることじゃない。自分が何かを求めているということを正直に見ることだと、今は思っている。
「小さくあれ」という圧力について
社会の中で生きていると、「自立ちすぎるな」「謙虚でいろ」「出る杭は打たれる」という圧力を感じることがある。
実際それで助かることもある。調和を保つための謙虚さは、集団の中で必要な場面がある。
でも、この「小さくあれ」という圧力が、自分の欲求や才能を抑え込む方向に働くとき、おかしなことが起きる気がしている。
自分の強みを言えなくなる。「こういうことをやりたい」と言えなくなる。「これは得意だ」と言うと嫌われると思って、わざと弱い部分だけを見せるようになる。
これが長く続くと、本当に自分の強みが分からなくなってくる。
謙虚に振る舞い続けていると、謙虚さが本物なのか演技なのかが分からなくなってくる。
僕にも、「これが自分の強みだ」と言えなかった時期がある。言うと自慢に見えるんじゃないかと思っていたし、周りとのバランスを崩したくなかった。
でも振り返ると、それは「小さくあることで安全を確保していた」状態だったと思う。
目立つことで叩かれるリスクを避けるために、自分の輪郭を意図的に曖昧にしていた。
それは安全かもしれないけど、その分だけ「自分が何者か」が見えにくくなっていった。
一方で、「小さくあれ」という圧力に乗らないことは、それはそれで怖い。
「出る杭は打たれる」という言葉が示すように、目立つと批判を受けるリスクがある。「あいつは調子に乗っている」と見られるリスクがある。
だから多くの人は、何かを感じても言わず、自分の輪郭を曖昧なままにして、集団の中に溶け込もうとする。
これは合理的な戦略だ。でもその戦略を長く続けると、自分の輪郭を描くことが苦手になっていく。「自分はどういう人間か」という問いへの答えが、どんどん薄くなる。
誰かを下げることで、自分を保つ罠
少し言いにくいことを書く。
誰かのことを、心の中で「でも、あいつには○○がある」と思うことがある。
うまくいっている人を見て、「あの人の成功には幸運があった」「実はそれほど実力じゃない」という理由を見つけて、相手を下げることで自分を保とうとする動きだ。
これは自分では気づきにくい。なぜなら、表面的には「冷静な分析をしている」ように見えるからだ。
でも実際には、「相手を下げることで、自分との差が小さいように感じたい」という動機が混ざっていることがある。
この動きの何が問題かというと、相手が下がっても、自分は上がらない、ということだ。
相手の評価を下げる思考に時間とエネルギーを使っても、自分の実力が上がるわけじゃない。むしろ、「他者を下げることで自分を保つ」という思考のパターンが強化される。
そのパターンが強くなると、誰かがうまくいくたびに、それを無効化するための理由を探す習慣ができてしまう。
それはたぶん、とても疲れる生き方だと思う。
誰かがうまくいったとき、「なぜあいつが」と思うエネルギーを「自分はどうするか」に向け直すことが、長い目で見ると全然違う場所に連れて行ってくれる気がしている。
これは簡単に言えても、実際にやるのはかなり難しい。
「あいつが羨ましい」という感情が先に来るのは自然だ。それを止めることはできない。
問題は、その後でどちらに動くかだ。
相手の評価を下げる方向に動くか、自分が前に進む方向に動くか。
前者は即効性がある。相手を下げる理由を見つけると、短期的に感情が落ち着く。でも長期的には何も変わらない。
後者は時間がかかる。すぐに感情は落ち着かない。でも長期的に見ると、少しずつ自分が動いている。
どちらに動くかを、嫉妬を感じるたびに意識できるかどうか。それが、嫉妬を有害なものではなく有用なものにできるかどうかの分かれ目な気がしている。
「みんなが良いと言うもの」が、自分にとっても良いとは限らない
世の中には「これが正解」「こう生きるのが良い」という暗黙の基準がある。
仕事では安定した大企業。生活ではきちんとした生活習慣。人間関係では和を大切に。人生では「普通の幸せ」を目指す。
これらは別に間違っていない。多くの人にとってそれは本当に良いことだと思う。
でも、「みんなが良いと言うもの」と「自分にとって良いもの」が一致しているとは限らない。
問題は、この二つが違うとき、「自分にとって良いもの」を選ぶことに、ものすごく勇気が要ることだ。
「みんなが良いと言うもの」からはずれることは、批判を受けるリスクがある。「なんでそんなことするの」と言われるリスクがある。
そのリスクを避けるために、「みんなが良いと言うもの」に合わせ続けると、「自分にとって何が良いのか」という感覚が薄くなっていく。
この感覚が薄くなると、何かを選ぶたびに「これは正しい選択か」という問いが先に来て、「これは自分が望む選択か」という問いが後回しになる。
「正しい」と「自分が望む」がずっと一致していれば問題ない。でもこの二つはしばしばズレる。
そのズレを認識して、どちらを優先するかを選べるかどうかが、結構大事なことだと思っている。
具体的な場面で言うと、こういうことがある。
仕事で「これが業界の常識」と言われることに、どこか違和感を感じるとき。
その違和感を無視して「みんながそう言うからそうなんだろう」と従うか、「この違和感は何を言っているのか」を少し考えてみるか。
違和感が常に正しいわけじゃない。経験が足りないから感じている違和感かもしれないし、単に慣れていないだけかもしれない。
でも、違和感を「自分が間違っているサイン」として自動的に処理していると、「なぜそう感じるのか」を考えるクセがつかない。
「みんなが良いと言うもの」と「自分が良いと感じるもの」の両方を確認して、ズレがある場合にどちらを優先するかを選ぶ。
この習慣を持てるかどうかが、自分の価値基準を持てるかどうかに繋がる気がしている。
自分で価値基準を作ることの難しさ
「自分の価値基準を持て」と言うのは簡単だ。でも実際にやろうとすると、これが難しい。
「自分の価値基準」と言いながら、実は親に刷り込まれた価値基準だったり、学校で学んだ価値基準だったり、SNSで見てきた価値基準だったりする。
本当に自分で考えた価値基準と、外から入ってきた価値基準を区別するのは、案外難しい。
でも少し手がかりになるのは、「この基準に沿ったとき、自分はどう感じるか」という問いだと思っている。
「こうしなければならない」という感覚で動いているとき、それは外からの基準を内面化していることが多い。「こうしたい」という感覚で動いているとき、それは自分の中から来ていることが多い。
この区別は、いつも明確じゃない。「こうしたい」と思っていても、それが本当に自分の欲求なのか、外からの期待を内面化したものなのかが曖昧なことがある。
それでも、「今自分は何を感じているのか」を丁寧に問い続けることで、少しずつ自分の基準に近づいていける気がしている。
自分の価値基準を作ることは、一度やって終わりじゃない。生きながら、動きながら、ずっと更新し続けるものだと思う。
20代の頃に持っていた価値基準と、30代になって持つ価値基準は、同じじゃない方が自然だ。経験が増えて、知らなかったことを知って、考え方が変わる。
問題は、「古い価値基準」に気づかないまま使い続けることだ。
昔は「とにかく認められること」が大事だと思っていた。でも今は、「誰に認められるか」の方が大事だと感じている。この変化は、意識的に問い直したというより、ある出来事をきっかけに気づいた、という感じだった。
こういう変化が積み重なって、少しずつ「自分の価値基準」の輪郭が描かれていく。
それは完成することがないものだと思う。でも、描こうとし続けることが、「外から提供された価値基準の中で生きること」との違いになる。
群れずにいることの、難しさと価値
一人でいることが心地よい人間と、そうじゃない人間がいる。
僕はどちらかというと一人の時間が必要な方で、それを長い間「社交性が低い」という欠点だと思っていた。
でも最近、一人でいる時間が「自分を保つための時間」だということを、もう少し認めてもいいのかもしれないと思っている。
誰かといる時間が長くなると、気づかないうちに「相手に合わせた自分」になっていくことがある。
相手が面白いと言うものを面白いと思い、相手が嫌いなものを嫌いだと思い始める。これは共感の一種でもあるけど、続きすぎると「自分はどう思っていたのか」が分からなくなる。
一人の時間は、その「相手に合わせた自分」をリセットする時間だと思う。
群れることへの圧力は、日常のいたるところにある。「なんでいつも一人なの」「もっと人と関わりなよ」という声が外から来ることもあるし、「孤立しているのかもしれない」という不安が内から来ることもある。
でも、群れることが目的になると、群れの中で自分を失っていく。
一人でいる時間を意識的に持つことは、群れを拒絶することじゃなくて、「誰かといるときも、自分でいられる」ための準備だと思っている。
これは前の記事で書いた「一人でいる力が落ちている」という話とも繋がる。孤独への耐性が低いことと、群れの中で自分を失うことは、表裏一体だと思う。
一人でいることが怖いと、誰かといるときに「この関係を維持しなければ」という意識が強くなる。そうなると、相手が求めているものに合わせすぎて、自分の感覚がどこかに行ってしまう。
逆に一人でいることに慣れていると、誰かといる時間に「この人といることが楽しい」という感覚がより鮮明になる。
一人でいることが目的じゃない。でも、一人でいられることが、誰かといる質を高めてくれる。
このパラドックスは、意外と日常で感じることがある。
「苦しいこと」の解釈を変えると、何かが変わる
苦しい経験をしたとき、その経験をどう解釈するかで、その後の動き方がかなり変わる。
「なぜ自分だけこんな目に」という方向に解釈すると、被害者の立場に固定されやすい。その立場から見えることは、自分がどれだけ不当に扱われたか、ということになる。
「この経験から何が学べるか」という方向に解釈すると、同じ経験でも意味が変わってくる。それは強がりじゃなくて、「この苦しさをどう使うか」を考える姿勢だ。
どちらの解釈が正しいかじゃない。でも、どちらの解釈でいるかで、その後の自分の動き方が変わる。
被害者の立場に固定されると、変わるべきは「外側」になる。でも「この経験から何が学べるか」という立場に立つと、変わるのは「自分の解釈と行動」になる。
外側が変わるのを待つより、自分の解釈を変える方が、はるかに速い。
もちろん、外側が変わるべき場面はある。不当な扱いを受けたなら、それを訴えることも大事だ。
でも、「外側が変わらない限り自分は動けない」という状態は、自分の主導権を外側に渡してしまっていることでもある。
苦しいことを、どう解釈するか。それは選べることだと、今は思っている。
成長することを、選ぶかどうか
最終的に、「小さいままでいるか、成長しようとするか」は自分で選ぶことだと思っている。
小さいままでいることにはメリットがある。目立たない。批判されにくい。期待されない分、失敗したときのダメージが少ない。
成長しようとすることには、リスクがある。失敗する可能性がある。今いる場所から外れる必要がある。孤独になる場面がある。
どちらが正しいかは分からない。状況や時期によって違う。
でも、「成長を選ぼうとしているのに、なぜか動けない」という状態が続くとき、その理由は大抵「失敗のリスク」より「今いる場所を離れることへの怖さ」だと思う。
成長するということは、今の自分を超えることだから、今の自分にとっては脅威でもある。
その怖さと折り合いをつけながら、それでも動く。それが、成長を選ぶということなのかもしれない。
僕はまだその途中にいる。嫉妬から目を背けずに向き合うことも、「小さくあれ」という圧力に従わないことも、自分で価値基準を考え続けることも、全部まだ練習中だ。
でも、「練習中であること」を認めながら続けることが、今の自分にできることだと思っている。
一つだけ、今の自分に言えることがある。
嫉妬という感情を、「恥ずかしいもの」として押し込めるより、「何かを教えてくれているもの」として受け取るようにした方が、少し生きやすくなった気がしている。
誰かを羨ましいと思う感情は、同時に「自分もそうなりたい」という欲求の存在を示している。
その欲求を、相手を下げることで慰めるのか、自分が動く理由にするのか。
それだけで、だいぶ違う場所に向かえると思っている。



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