幻想を追い続けることの怖さと尊さについて

幻想を抱く力の怖さ 生き方・考え方

手の届かないものを、それでも追い続ける話をしようと思う。

ある夜、SNSで昔の知り合いのアカウントを見ていた。

豪華な家具、洗練されたインテリア、笑顔の写真。「いいね」の数が多い投稿が並んでいた。

「うまくいってるんだな」と思って、スクロールする手を止めた。

でも次の瞬間、なんとなく違和感を感じた。

その投稿のどこかに、「これで満たされている」という体温が感じられなかった。どこか、「こう見られたい」という意図の方が先に立っているような気がした。

気のせいかもしれない。でも、その違和感がしばらく頭に残った。

僕たちは一体何を見せ合って、何を見ているのだろう。

華やかさの裏にあるもの

豊かそうに見える人が、必ずしも豊かじゃないことがある。

これは意地悪な話をしたいわけじゃない。それよりも、自分自身の話として考えたとき、僕にも同じことが起きていたからだ。

仕事がうまくいっていた時期、会う人ごとに「すごいですね」と言われる機会があった。それなりの評価を受けて、自分でも「うまくいっている」と思っていた。

でも一人で部屋に戻ると、なんか違うという感覚があった。

満たされている感じがしなかった。むしろ、その「すごいですね」という言葉を集めることに、知らないうちに必死になっていた気がする。

誰かに認められるために動いている。誰かに見せるために生きている。そういう状態に、気づかないうちに入り込んでいた。

これは現代特有の病気だと思っていたけど、たぶん違う。昔からずっと人間にある何かだと思う。

自分を飾り立てることで、内側の空白を埋めようとする衝動。それは時代や場所を問わず、人間の中に宿っている。

問題は、それが悪いことかどうかじゃない。そうやって空白を埋めようとしても、埋まらないのに気づかずにいることだ。

外側が豪華になっても、内側の空洞はそのままの人を、僕は何人か知っている。すごく優秀で、端から見たら羨ましい生活をしているのに、なんとなく「焦っている」ように見える人。

あるいは、楽しそうなのに、その楽しさが「楽しいふりをすることで何かを忘れようとしている」ように見える人。

あの違和感が何なのかをずっと考えていた。

最近少しだけ分かった気がするのは、「外の世界への見せ方」と「内側の感覚」の乖離が大きくなりすぎると、人はある種の空洞を抱えたまま走り続けることになる、ということだ。

「あれさえ手に入れば」という幻想

ある時期、僕には「これを達成したら、ちゃんと生きていける気がする」という目標があった。

具体的に何かはうまく説明できないのだけど、その目標を達成したらある種の不安が消えるという確信があった。

頑張った。それなりに近づいた。でも達成したとき、予想していたような変化は起きなかった。

「解放感」より「次は何を?」という感覚の方が先に来た。

あのとき初めて気づいた。「あれさえ手に入れば」という感覚は、それが手に入っても消えない。

次の「あれ」が現れるだけだ。

人間には、目標に向かうこと自体が心地よいという性質があると思う。到達した瞬間より、到達しようとしている最中の方が、生きている感じがする。

だから「手に入ったらすべてが解決する」という信念は、たぶん最初から幻想だ。手に入れることが目的じゃなく、追いかけることが目的になっているから。

これは否定的に言いたいんじゃない。夢や目標を持って動けることは、それ自体には意味がある。でも、「それを手に入れれば完成する」という感覚には、慎重に向き合う必要があると思っている。

ましてやその「あれ」が、物質的な成功だったとき、さらにやっかいなことが起きる気がしている。

お金を稼ぎたい、地位を手に入れたい、という動機が悪いとは思わない。でも、それを手に入れることで「自分のアイデンティティが完成する」と感じているとしたら、手に入れた後に大きな虚しさがやってくる可能性がある。

アイデンティティは、外側のものが埋めてくれるものじゃないからだ。少なくとも、そうじゃないことの方が多い気がしている。

よく「お金があれば解決する」と言うけど、解決するのは「お金がないことで起きていた問題」だけだ。お金があってもなくならない問題は、たくさんある。

そして、そのことに気づかずお金を追い続けた人が、手に入れた後に「こんなはずじゃなかった」となる場面を、身近でも何度か見てきた気がする。

解決したかったのは、実はお金の問題じゃなかった。でも、「お金があれば全部解決する」という信念を持っていたから、気づくのが遅れた。

幻想の中の「あの人」

人間関係でも、同じことが起きる。

昔、ある人のことをずっと考え続けた時期があった。その人そのものというより、「自分の中で作り上げたその人」を追いかけていた気がする、今思うと。

頻繁に会っていた時期の記憶だけが残っていて、時間が経つにつれてその記憶が美化されていく。美化された記憶の中の相手は、もはや実在の人物じゃなく、自分が作り上げた像になっていく。

そして実際に再会したとき、「あれ?」となる。

悪い意味じゃなく、ただ、「あの人」と「記憶の中の人」が違う、という感覚。当たり前のことだけど、それが意外とショックだった。

人は時間とともに変わる。でも離れている間、記憶の中の人は変わらない。だから再会したとき、長く離れていた分だけ、記憶と現実のギャップが大きくなっている。

このとき気づいたのは、長い空白の後で誰かを強く求める感情は、相手への感情というより、相手を使って自分の中の何かを埋めようとしているだけかもしれない、ということだ。

それはある意味、相手を見ていない。自分が見たい像を相手に投影しているだけだ。

でも、このことを誰かに話すと「それって冷たい見方じゃない?」と言われることがある。愛情は純粋なものだ、という感覚を壊すような話に聞こえるらしい。

でも僕は、これは愛情を否定しているんじゃないと思っている。

「幻想を持って誰かを好きになること」と「その人の現実を見ていくこと」は、別の話だ。幻想から始まっても、それが時間をかけて現実の相手への関心に変わっていくことがある。

問題は、幻想のまま止まり続けることだ。

上の空で笑っている人たち

昔、知人に誘われてある集まりに行ったことがある。

その場にいた人たちは、みんな華やかで、よく笑い、よく喋っていた。表面上は楽しそうだった。

でも帰りの電車で、なんとなく疲れた。自分が疲れたのか、あの場の空気が疲れさせたのか、最初は分からなかった。

しばらく考えて、気づいた。あの場では誰も、本当のことを話していなかった。

それ自体は普通のことだ。社交の場でいきなり本音を話す必要はない。でも、あの場のある種の「明るさ」は、現実を見ないための明るさだった気がする。

豊かそうで、成功していて、楽しそう。でも、それを演じることで、別の何かを忘れようとしている。

そういう空気が、疲れの原因だったのかもしれない。

僕はそれが怖いと思う。表面的な明るさで内側の何かを覆い続けること。それがずっと続くと、覆っていたことすら忘れていく気がするから。

あの場にいた人たちが悪いわけじゃない。人間誰しも、社交の場で「楽しい自分」を演じる側面はある。

でも、「演じている自分」と「本当の自分」の区別が曖昧になっていくとき、何か大事なものが失われていく気がしている。

その感覚を言葉にするのは難しいんだけど、「自分の輪郭がぼやけていく」という感じに近い。

届かない光を、それでも追い続けること

「あれさえ手に入れば」という幻想の話に戻る。

それは幻想かもしれない。でも、その幻想を持って動くことが、人間には必要なのかもしれない。

完全に現実的になったら、前に進む力が弱くなる気がする。

夢は手に入らないかもしれない。追いかけているものは遠ざかり続けるかもしれない。それでも、「もう少しで届く」という感覚が、人を動かし続ける。

届かないから追い続ける。追い続けることで、何かが生まれる。

それがずっと人間のやってきたことなのかもしれない。

ただ、追い続けながら、「自分は何を本当に求めているのか」という問いを手放さない方がいいとも思う。

目の前に光があるとき、その光が何なのかを問わないまま走り続けると、ある日気づいたとき、求めていたものと全然違うものを追いかけていた、ということになりかねない。

僕自身、「これを手に入れたかった」と思っていたものが、実際には「これを手に入れた自分として誰かに認められたかっただけ」だったことに気づいたことがある。

目的が「物」じゃなく「承認」にすり替わっていた。

それに気づいたのが達成した後だったから、虚しさの正体が分かるまでしばらくかかった。

過去に引き戻されながら、前に進む

一度手放したものを取り戻そうとする気持ちは、よく分かる。

あのときああしていれば、という後悔は、普通の人間なら誰でも持っているものだと思う。

でも「あのときに戻りたい」という気持ちと「今ここから動く」という気持ちは、両立しにくい。

過去に意識が向いている間は、今この場所から始めることができない。

僕も長い間、過去のある時点に引っかかっていた時期があった。あのとき違う選択をしていれば、という思いが頭から離れなかった。

でも、ある時点から、「あの時点に戻ることより、今からの方がずっと長い」という感覚に変わった。

正確にはいつそう変わったのかは分からない。気づいたらそうなっていた、という感じだ。

過去を否定したわけじゃない。ただ、過去を「戻れる可能性のある場所」として見るのをやめた、という感じかもしれない。

後悔は残っている。あのときああしていれば、という思いが完全に消えたわけじゃない。でも、その後悔を「まだ取り返せる可能性」として持ち続けるのではなく、「自分の一部」として携えながら前に進む感覚に変わった。

荷物を下ろしたわけじゃなく、荷物の持ち方が変わった、という感じだ。

前に進もうとするとき、流れに逆らう小舟のように、絶えず後ろに引き戻される。

これは止められないことだと思う。過去の記憶は残るし、後悔も残る。完全に手放せるほど、人間はそう簡単にできていない。

でも、引き戻されながらも前に向かっていく、という姿勢自体には、何か尊いものがある気がしている。

諦めない、という意味じゃない。それよりも、引き戻されることを認めながら、それでも自分のいる「今」から動く、という感覚に近い。

幻想を持つことと、幻想に飲み込まれること

手に入らないものを追い続けるのは、怖いことだ。

届かない光を目指して走り続けて、最後に何も残らなかったとしたら?

でも、届かないからこそ走り続けられる部分もある。手に入ったら終わってしまうものもある。

幻想を持つことと、幻想に飲み込まれることは、似ているようで違う。

持ちながら疑える人と、持ったまま疑えなくなる人の差は、そこにあるのかもしれない。

どちらが正しいかは分からない。でも少なくとも、「これは幻想かもしれない」という感覚を持ち続けることは、走りながらでも手放さずにいたい。

幻想に飲み込まれないために、幻想を疑い続けること。

それがどれだけ難しいことかは分かっているけど、それでも、そこから外れたくないとは思っている。

SNSを眺めるあの夜に感じた違和感も、結局そこに繋がっていた気がする。

見えている豊かさが、本当の豊かさとは限らない。追いかけている光が、本当に自分が求めているものとは限らない。

それでも人間は光を追い続ける。

それを「愚かだ」とは言いたくない。ただ、光の正体を問い続けながら走りたい、とは思っている。

届かない光を追いながら、「自分は本当に何を求めているのか」という問いを手放さない。

自分を飾ることと、自分を偽ることの境界線を、なるべくクリアにしておく。

幻想を持ちながらも、幻想が幻想であることを忘れない。

これが全部できているかというと、全然自信はない。いつの間にか光の正体を問わなくなっている瞬間はあるし、見せたい自分と本当の自分の区別が曖昧になることもある。

でも少なくとも、「自分は今、何を追いかけているのか」という問いを、ときどき立ち止まって自分に向けることはしていたい。

それだけで、少し変わる気がしている。

光を追い続けながら、追い続けている自分を見失わないこと。それが今の僕にできる、唯一の誠実さかもしれない。

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