僕らが今使っている時間は、五千年前の誰かが決めたものだった
夜中にふと、時計を見て変な気持ちになった話
ある夜のことでした。 仕事から帰ってきて、ベッドに倒れ込んで、なんとなく天井を見上げていたときです。 枕元の時計が午後十一時二十七分を指していました。
そのとき、急に変な感覚が襲ってきたんです。 「なんで一時間って六十分なんだろう」と。
普段は考えもしないことじゃないですか。 小学校に入る前から当たり前のように使っていて、疑う余地もなかった単位です。 でも冷静に考えたら、十進法でできている世界の中で、時間だけなぜか六十という中途半端な数字で区切られている。 これ、よく考えたら相当おかしいんです。
気になり始めると、もう眠れません。 スマホを手に取って調べ始めた僕は、そこでシュメール文明という言葉に出会いました。 今日はそんな、深夜に時計を眺めて変な気持ちになった会社員が、シュメール文明について勝手に考察した独り言を書いていこうと思います。
先に断っておきますが、僕は歴史学者ではありません。 夜中にテンションがおかしくなった人間の、ただの散文だと思ってお付き合いください。
五千年前の人たちに、生活を支配されているという事実
シュメール人というのは、今から約五千年以上前、今のイラクのあたりに住んでいた人たちです。 彼らが使っていたのが六十進法という数え方で、一時間が六十分、一分が六十秒、円が三百六十度という、僕らが今も普通に使っている単位は、実はそこに由来しているそうなんです。
ここで僕は「え、ちょっと待って」と思いました。
つまり、僕が明日の朝七時に起きるために目覚ましをセットするとき。 昼休みが一時間しかないことに絶望するとき。 定時の六時を待ちわびて壁の時計を見つめているとき。 そのすべての時間の数え方が、五千年前に誰かが決めたルールに従って動いている、ということになります。
これ、冷静に考えると相当すごい話じゃないですか。
五千年ですよ。 僕の会社なんて創業七十年でもう老舗扱いされているのに、シュメール人の決めたルールは今も現役で、しかも全世界で使われている。 どんな大企業のブランドよりも、どんな憲法よりも、はるかに強力な「続いているもの」です。
僕はこの事実に気づいたとき、なんだか自分の一日というものが、急に他人の手のひらの上にあるような感覚になりました。 僕が必死で残業している一時間も、上司に怒られている三十秒も、全部、顔も知らない五千年前の誰かの設計図の上で起きている出来事なんだな、と。
ちょっと不思議な気分になりませんか。
なぜ十進法じゃなくて六十進法だったのか、という謎
ここで当然気になるのは、「なんで六十なんだよ」という疑問です。 人間の指は十本あるんだから、十進法の方が自然じゃないですか。 現に数学の勉強では十進法を使ってきたし、お金の計算でも十進法です。
でも、六十という数字は、約数がめちゃくちゃ多いそうなんです。 一、二、三、四、五、六、十、十二、十五、二十、三十、六十。 こんなに多くの数字で割り切れるから、分数計算がとても楽になる。 言われてみれば確かに、三分の一時間が二十分、四分の一時間が十五分と、綺麗に割り切れる。
これを読んだとき、僕は内心ちょっと悔しくなりました。 だって、僕は学生時代に分数の計算で散々苦しんだ人間です。 三分の一と四分の一を足すとか、あの世界観で僕の青春の一部は間違いなく削られました。 あのとき、もし最初から六十進法で教えてくれていたら、僕の数学の成績はもうちょっとマシだったんじゃないかと、今さらながら思ったわけです。
五千年前の人間が、すでにそのことに気づいていた。 小学生の僕が涙目で宿題をやっていた頃よりも、はるかに賢かった人たちが、はるか昔にいた。 この事実を知ったとき、僕は「古代人を舐めていたな」とちょっと反省しました。
僕らはつい、「昔の人は遅れていた」と思いがちです。 でも実際には、僕らの方が昔の人の遺産で生きているだけで、頭の良さとか物事の本質を見抜く力に関しては、五千年前の人たちの方が上だったかもしれないんです。
粘土に刻まれた文字を、絶壁にぶら下がって写した男の話
シュメール人の話でもう一つ衝撃だったのが、楔形文字の解読エピソードです。
楔形文字というのは、シュメール人が発明した世界最古の文字で、粘土板に葦の先を押し付けて書いていたそうなんです。 最初は会計記録のために作られたという話を読んで、ここでも僕は親近感を覚えました。
「お前らも結局、最初は数字合わせのためだったんかい」と。
僕は会社で毎月、経費精算のためにエクセルと格闘しています。 人類の文字は、五千年前も今も、最終的には金の計算のために発明されていたということになります。 ロマンのある話じゃないけれど、なんだか妙に人間臭い。 文字の起源は詩でも祈りでもなく、「羊が何頭、麦が何袋」という地味な記録だった、という事実に、僕は少し救われたような気分になりました。
で、この楔形文字を解読した話がまたすごいんです。 十九世紀のイギリスの軍人、ヘンリー・ローリンソンという人が、ペルシャの断崖絶壁に刻まれた碑文を写し取るために、命綱一本でぶら下がって、五十メートルの岩壁で文字を書き写したというんです。
五十メートルですよ。 僕は会社のビルの八階から下を見下ろすだけで、軽く脚がすくみます。 それを命綱一本で、しかも昔の人ですから技術的にもぞわっとする装備で、延々と文字を書き写していた。 この人、何を原動力にこの作業をやっていたんだろうと、本気で考え込みました。
給料だけでは説明がつかない。 名誉のためだけでもない。 たぶん、「知りたい」という気持ちが、命の危険を上回った人だったんだと思います。
僕は自分の生活を振り返って、ちょっと恥ずかしくなりました。 知りたい気持ちが命を上回ることなんて、多分、僕の人生には一度もなかった。 ラーメンを食べたい気持ちが眠気を上回ることは、まあ、あるにはありますが。 それくらいの熱量で生きている僕と、絶壁にぶら下がって文字を写した人と、同じ「人間」という言葉で括られていいのか、ちょっと悩んでしまうレベルです。
五千年前の料理本があるって、どういうことなの
調べていると、さらに変な情報に当たりました。 世界最古のレシピ本がシュメールの時代からあるそうなんです。 紀元前千七百年頃の粘土板に、二十五種類の料理の作り方が記録されていた、と。
これを読んだとき、僕は思わず吹き出しました。 だって、想像してください。 紀元前千七百年の料理人が、粘土板に向かって「今日は新作のビールスープのレシピを残しておこう」とか考えている絵面を。
やっていることが完全に、現代のインフルエンサーと同じです。
しかも、粘土板に書くって、相当な手間じゃないですか。 スマホで写真を撮って「#今日のランチ」で済ませる僕らとは、ものが違います。 粘土をこねて、乾かす前に文字を刻んで、焼いて保存する。 この一連の作業を経てまで、料理のレシピを残したかった人がいる。
ここで僕は、ちょっと真面目なことを考えました。 人間が「残したい」と思うものって、時代が変わっても本質的には同じなのかもしれない、と。 誰かと分かち合いたい食事の作り方、愛する人の名前、その日の出来事。 記録の手段が粘土板からスマホに変わっただけで、中身はあまり変わっていない気がするんです。
僕らがSNSに投稿している何気ない日常の写真も、五千年後に掘り起こされたら、もしかしたら誰かが真剣な顔で解読するのかもしれません。 「紀元後二千年頃、人類は食事の写真を強迫的に共有していた形跡がある」と論文に書かれる日が来るかもしれない。 そう思うと、今日の昼に撮ったラーメンの写真も、ちょっと歴史的意義を帯びてくる気がしてきます。 しないか。
ギルガメシュ叙事詩を知ったときの、鳥肌が立つ感覚
シュメールの話で、僕が最も心を掴まれたのがギルガメシュ叙事詩の存在です。
これは世界最古の文学作品と言われていて、紀元前二千百年頃に成立したとされる物語だそうなんです。 内容は、ウルクという都市の王様ギルガメシュが、親友エンキドゥを失ったことをきっかけに、死の恐怖と向き合いながら「永遠の命」を探す旅に出る、という話。
ここで僕は画面を見つめたまま固まりました。
五千年前の人が書いた物語のテーマが、親友の死、永遠の命への渇望、人間が死ぬことを受け入れる過程って。 これ、今の僕らが悩んでいることと、一ミリも変わっていないじゃないですか。
僕は勝手に、古代人というのは「今日の食事と明日の天気」くらいのことしか考えていないシンプルな生き物なんじゃないか、と思い込んでいました。 でも、全然違う。 五千年前にすでに、友の死を抱えきれずに旅に出る王様の物語を必要としていた人たちがいた。 しかも、その物語を、わざわざ粘土板に刻んで何世代にもわたって読み継いできた。
これが意味するのは、人間の悩みの形は、五千年経っても本質的に変わらないということだと思います。 技術は進んだ。 制度も変わった。 でも、人が死を恐れる気持ちも、親しい誰かを失ったときの痛みも、それを言葉にしたくなる衝動も、五千年前とまったく同じものを僕らは抱えている。
進歩しているようで、実は何も進歩していないのかもしれない
ここまで書いてきて、僕の中でだんだんと奇妙な感覚が膨らんできました。
僕らはよく「人類は進歩している」と言います。 科学は進み、医療は発達し、寿命は延び、生活は便利になった。 これは事実でしょう。
でも、「人間そのもの」は進歩しているんだろうか、とふと考えてしまったんです。
五千年前の王様は親友の死に泣き崩れました。 今の僕らも同じように泣きます。 五千年前の料理人はレシピを誰かに伝えたくて粘土板に刻みました。 今の僕らはSNSに写真を上げます。 五千年前の天文学者は星を見て時間を数えました。 今の僕らはその数え方をそのまま使っています。
道具は変わった。 でも、人間のやっていることも、感じていることも、ほとんど変わっていない気がするんです。
これは「だから人類はダメだ」という話ではありません。 むしろ、変わらなかったから、ここまで続いてきたんだと思うんです。 もし人間が百年ごとに本質的に別の生き物に変わっていたら、ギルガメシュの物語を読んで「分かる」と感じることもできなかったはずです。
僕らが古代の物語に共感できるということ自体が、人間という生き物の不思議な連続性の証明になっている気がしました。
ウルのスタンダードという、古代の「漫画の見開き」みたいなもの
シュメールについて読んでいて、もう一つ忘れられないのがウルのスタンダードという発掘物の話です。
これは紀元前二千六百年頃の木箱のようなもので、両面にモザイクの絵が施されているらしいんです。 片面には戦争の場面、もう片面には平和な宴の場面。 一つの箱の表と裏で、戦争と平和という対になるテーマを描いている。
この話を読んだとき、僕は真っ先に漫画の見開きページを思い浮かべました。 表紙をめくると派手な戦闘シーン、ページをめくると打ち上げの場面。 やっていることが完全に現代の漫画家と同じなんです。
しかも、このウルのスタンダードに描かれた戦争の場面には、兵士たちが盾を並べて密集陣形を組んでいる様子が描かれているそうで。 これ、いわゆるファランクスと呼ばれる戦術で、本来は古代ギリシャの発明とされていたんですが、シュメール人はその千年前にはすでに同じ戦術を使っていた可能性が高いということになっているらしいんです。
千年早かった。 この一言に、僕はなんとなく凹みました。
なぜかと言うと、僕は会社で「新しいアイデアを出したと思ったら、実は他部署が三年前にすでにやっていた」みたいな経験を何度もしているからです。 そのたびに「世の中には先を行っている人がいるな」と落ち込むんですが、千年単位で先を行かれていたら、もう落ち込む気力すら湧きません。 歴史を知るとは、自分のオリジナリティが幻想であることに気づく作業でもあるんだな、と静かに思いました。
ただ同時に、ちょっとだけ救われた気持ちにもなったんです。 だって、「今の僕らが思いつくことは、五千年前の誰かも思いついていた」ということは、逆に言えば、僕らは五千年前の人たちとそれほど違わない頭で世界を見ているということでもあります。 孤独な発想だと思っていたものが、時代を超えた合唱の一部だったと分かる。 それはそれで、悪くない感覚なんじゃないかと思います。
数式の粘土板と、夜中に泣きながらドリルをやっていた僕の話
シュメールの数学についても、少しだけ書かせてください。
彼らは当時すでに、ピタゴラスの定理を満たす数の組み合わせを粘土板に記録していたそうです。 ピタゴラスが生まれる千年以上前の話ですよ。 ピタゴラスさん、申し訳ないけれど、あなたは発見者じゃなくて、再発見者だったのかもしれません。
この話を読んだとき、僕は小学校の高学年の頃の自分を思い出しました。 算数のドリルがどうしても理解できなくて、夜遅くまで母親に怒られながら泣きそうな顔で解いていた時期がありました。 あのとき、僕は本気で「数学は頭のいい人が後から発明した嫌がらせ」だと思っていました。
でも、違ったんです。 数学は、生活のために生まれていた。 土地を正しく区分するため、税金を公平に集めるため、建物を崩れないように建てるため。 そういう、地に足のついた理由で、必要に迫られて生まれた道具だったんです。
そう考えると、あのとき僕が泣きながら解いていた問題も、別に誰かの嫌がらせじゃなくて、五千年前の誰かが生活のために編み出した知恵の、遠いこだまだったことになります。 この気づきが、子供の頃の自分に届けばよかったのに、と思いました。 「お前がやってる計算は、古代の人間が畑を分けるために本気で考えた方法の子孫だぞ」と言えば、少しはやる気が出たかもしれない。 出ないか。
五千年前の人たちも、きっと夜中に眠れなかった
調べれば調べるほど、シュメールの人たちが、現代の僕らとほぼ同じ悩みを抱えていたことが見えてきます。
税金の計算に追われ、在庫を管理するために文字を発明し、戦争で悩み、平和を祝い、友人の死に打ちのめされ、永遠の命を欲しがり、料理のレシピを誰かに伝えたがり、星を眺めて時間を数えた。
これ、全部、今の僕らがやっていることです。
違うのは、彼らが粘土板を使い、僕らがスマホを使っていることくらいで、中身の部分は驚くほど一致している。
僕はこの事実を噛み締めながら、ふと想像してみました。 五千年前のシュメールの、ある一人の会計係のことを。 夜、仕事を終えて、今日の家畜の数と麦の在庫を粘土板にまとめ終えて、やっと家に帰ろうとしている彼のことを。 帰り道、満月を見上げながら「はあ、明日も数字の整理か」とため息をつく彼のことを。
その彼の姿が、自分の姿とほとんど重なる気がして、僕は変な気持ちになりました。 時代も場所も服装も違うのに、心の形だけはそっくりなのかもしれない。 そういう仲間が五千年前にいた、という事実だけで、今夜の僕は少し救われています。
時計の針が、少しだけ違って見えるようになった
いろいろ書いてきましたが、結局のところ、僕はシュメール文明について何一つ本当のところは分かっていません。 彼らがどんな声で笑っていたのか、どんな匂いのする食事をしていたのか、夜に何を考えていたのか、全部「分からないまま」です。
でも、調べる前と後では、確実に一つだけ変わったことがあります。 時計の針が、少しだけ違って見えるようになったことです。
一時間が六十分であることは、もう当たり前じゃなくなりました。 誰かがそう決めて、誰かがそれを引き継いで、たくさんの人の手を経て、今、僕の枕元の時計に針が刻まれている。 そう思うと、過ぎていく時間そのものが、ちょっとだけ愛おしくなるんです。
明日の朝、また目覚ましに叩き起こされて、満員電車に揺られて、会社で怒られて、定時を待ちわびる一日が始まると思います。 でも、その一日を構成している「分」や「秒」は、五千年前の誰かが数えた星の動きから生まれた単位なんだと思うと、なんとなく、同じ一日でも違って感じられる気がしています。
人間の悩みは五千年変わらない。 時間の数え方も五千年変わらない。 だったら、僕が今日抱えているちょっとしたモヤモヤも、たぶん五千年前の誰かも抱えていたし、五千年後の誰かもまた抱えるんでしょう。
そう思うと、ちょっとだけ呼吸が楽になります。 自分一人で抱えているんじゃない、という感覚。 時代という縦の線で、僕は一人じゃないんだという感覚。
結論なんて出ていません。 ただ、今夜は久しぶりに、少しだけ穏やかな気持ちで眠れそうな気がしています。
分からないまま、今夜も僕は、五千年前に時間を数えた誰かのことを考えています。



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