「この世界に神は関係ない」という考え方が、妙に頭に残っている
神が世界を作ったかどうかなんてことを、ちゃんと考えたのはいつぶりだろう。
ある夜、何気なくネットをぼんやり眺めていたら、こんな問いに出くわしたんですよね。
「もし神様がこの世界を作ったなら、なぜこれほど理不尽なことが起きるのか」
戦争も、大災害も、犯罪も。全部が神の意図だとしたら、神ってずいぶん残酷じゃないかというやつです。ありきたりな疑問ですけど、ちゃんと向き合ったことはなかったかもしれない。
で、そこから「じゃあ神が作ったんじゃないとしたら?」という発想に行き着いたんですよね。これが意外と面白くて、しばらく考えていました。今回はその話を書きます。
都市伝説とか考察とか、そういうカテゴリーの話として読んでください。「これが真実だ」という話じゃないです。でも「こういう見方をすると、何かが変わる気がする」という話ではあります。
この宇宙は「僕らのエゴが映し出した映像」かもしれないという話
冒頭から飛ばしますが、こういう考え方があります。
この世界は神が作ったのではなく、僕たち人間の深層心理が投影したホログラムのようなものだ、という視点です。
映画館のスクリーンをイメージしてください。スクリーンに映っている映像は、フィルムの内容が投映されたものですよね。ではこの「現実」というスクリーンに映し出されているものは、一体どんなフィルムから来ているのか。
その答えが、人類全体の深層心理にある「罪悪感」と「恐怖」だというんです。
具体的に言うと、こんなイメージです。僕たちの心の奥底には、「何か大切なものから離れてしまった」という感覚が刻まれている。それが罪悪感や恐怖という形で無意識の奥に沈んでいて、その感情がフィルムとしてこの現実を作り出している、という考え方です。
正直に言うと、最初はかなり「それってどういうこと?」という感じでした。「世界はあなたの投影です」という言葉はよく聞きますが、その「投影の正体が罪悪感とエゴだった」というところが、なんか引っかかったんですよね。
よく聞く「引き寄せ」系の話とは少し違う。もっとシンドい話をしている気がした。
プラトンが洞窟で見ていたのと、僕らは何が違うのか
哲学の授業で習ったことがある人もいると思いますが、「洞窟の比喩」という話があります。
洞窟の中で鎖につながれた人たちが、壁に映った影しか見たことがない。外の世界の「本物」を知らない。ある日一人が逃げて外に出ると、本物の木や動物、光の世界を目撃する。洞窟に戻って「みんなが見ているのは影だよ」と伝えても、誰にも信じてもらえない。それどころか命を脅かされる、という話です。
この話を思い出したとき、さっきの「世界は投影だ」という考え方と重なったんですよね。
影しか見られない洞窟の奴隷が、影の並び替えをいくらしても「本物の世界」には近づけない。でも僕らって、まさにそれをやっている気がする。お金を増やせばいい、環境を変えればいい、もっと良い仕事に就けばいい、と「影」のレベルで必死に動いてる。でも何かが変わっても、なんとなくどこかが満たされない感覚は消えない。
僕にも、そういう経験がある気がします。手に入れたかったものが手に入っても、すぐにまた「次」が欲しくなる感覚。あれって何なんだろうと思っていたんですよね。
肉体と「時間感覚」が、そもそもトリックだった可能性
さらに踏み込んだ話があって、これが個人的にはかなり引っかかりました。
「肉体や時間の概念そのものが、エゴが作ったトリックかもしれない」という話です。
もし僕らが本来いたとされる「源の場所」があるとすれば、そこには死も時間も存在しない。全てが満たされた、永遠の今だけがある場所。
そこから「自分たちだけの世界を作ろう」と離れるには、「死ぬ存在」になって「時間の中で悩む感覚」を持てばいい。そうすれば自然と「源とは違う世界」を作れる。
……という論理です。
確かに、と思いません?
僕らって毎日「自分はいつか死ぬ」という感覚を持ちながら生きていますよね。過去を引きずり、未来を不安がる。それがデフォルト状態になっている。「死を忘れて今この瞬間に完全に満足している」という状態は、ほとんどない。
これがエゴによる仕掛けだとしたら? 死の恐怖も、未来への不安も、全部「源から離れる」ために設計されたシステムだとしたら?
どこまで本当かは分かりません。でも「なんかやたらと人間は不安になりやすい生き物だな」とは確かに思う。それが偶然じゃない可能性を想像すると、ちょっと面白いんですよね。
「なぜ生まれてきたのか」への、一つの答え
じゃあなぜ生まれてきたのか、という話の核心に入ります。
この世界観での答えは、「源に帰るため」です。
神様の元から離れてしまった恐怖と罪悪感を癒して、もう一度「本来の自分」を思い出すためにここにいる。それがこの世界に生まれてきた理由だ、という考え方です。
「神の元に帰る」というと宗教的に聞こえますが、もう少し噛み砕くと「エゴに支配されたままの自分から、もう少し自由になる」という話に近いと思っています。
怒りや罪悪感、他人への批判、過去への後悔。そういうものにどっぷり浸かった状態が「エゴ全開」の状態で、それを少しずつ手放していくプロセスこそが「帰る旅」だということです。
これを「死んだら天国に帰れる」という意味ではなく、「生きている間に意識を変える」という意味として解釈しているのが、個人的には面白いと思った部分でした。
「許す」という行為が、思ったより重い話だった
この考え方の中で繰り返し出てくるのが、「許す」という行為です。
最初はよくある自己啓発の話かなと思ったんですよね。「人を許しましょう」的な。でも掘り下げると、少し違う論理でした。
「この世界はエゴが作り出したホログラムだとしたら、目の前で起きていることも、そのホログラムの一部に過ぎない。だとすれば、許すことは実はそんなに難しくない」という理屈なんです。
本物の映画のスクリーンに向かって怒ったって仕方ないですよね。スクリーンに傷をつけても映像は変わらない。変えるにはフィルムを変えるしかない。
怒りや批判でフィルムを汚し続けるより、許すことでフィルムを少しずつ書き換えていく。それが現実の変化に繋がるということなんですよね。
もちろんこれが頭でわかっていても、実際は難しいです。むかついた人間を「これはホログラムだから許そう」なんて思えない。それは正直に認めます。でも「むかつく感情を抱えている自分」を一段外側から観察できるようになると、少し違う気がする。
あ、今エゴが騒いでいるな、という感覚で自分を見るというか。それだけでも、何かが少し変わる気がした経験は、実際にあります。
「内なるナビゲーション」という話が、案外しっくりきた
この考え方の中で、もう一つ面白かったのが「内なる教師」という概念です。
カーナビをイメージしてください。目的地を入力しておくと、道を間違えても怒らずに「では次の交差点を右折してください」と淡々と再計算してくれる。
それと同じように、僕らにも正しい方向へ導く何かがあって、心が静かになったときにその声が届く、という話です。
ただし、エゴが騒いでいるときはその声が聞こえない。他人をずっと批判していたり、過去の後悔に引っ張られていたりすると、ノイズで掻き消される。
これって、瞑想や内省の話と同じ構造ですよね。ざわついた状態では聞こえないものが、静かになると聞こえてくる。
僕は瞑想が得意ではないんですが、ふとした瞬間に「あ、やっぱりこっちじゃない気がする」という感覚が降りてくることがある。それがこの「ナビの声」なのかどうか分からないけれど、似ているものかもしれないとは思っています。
「世界は自分のエゴが映している」という感覚で、何かが変わるか
長く書いてきましたが、最終的に僕がこの考え方から何を受け取ったかを書きます。
「世界は完璧な神が作ったものではなく、僕らのエゴが映し出しているものかもしれない」という視点を持つと、ひとつのことが変わる気がします。
世界を変えようとするより、自分の見方を変える方が先だ、という感覚が腑に落ちるんです。
外側の世界をいくら並び替えても、フィルムが変わらなければスクリーンは変わらない。社会を批判しても、他人を変えようとしても、根本のフィルムが同じままなら同じ景色が続く。
これは諦めろという話じゃなくて、「どこに力を入れるか」の問題だと思っています。
僕はこの世界観が「正しい」かどうか、分からないです。神がいるかどうかも、エゴが世界を作っているかどうかも、証明する手段を持っていない。
でも「許す練習」とか「自分のエゴに気づく練習」とか、そういう小さい行動は、世界観が正しかろうと間違っていようと、たぶん悪くない。むかつく気持ちを少し手放せたとき、たいてい気持ちが楽になる。それだけは体験として確かです。
宇宙の起源がどこにあるかは分からないけど、自分の機嫌くらいは、少しずつ自分でコントロールできるようになっていきたい。まあ、そのくらいのことは思っています。
そもそも「神が世界を作った」という前提を疑ったことがあるか
ここで少し立ち止まって考えてみたいのですが、僕らって「神が世界を作った」という話を疑うことなく、かといって信じることもなく、ただなんとなく保留にして生きていることが多い気がします。
宗教の話が出てくると距離を置きたくなるし、スピリチュアルな話になると「ちょっとどうかな」と思ってしまう。そのくせ「じゃあ宇宙はどこから来たの」と聞かれると、ちゃんとした答えも持っていない。
そういう宙ぶらりんの状態で、でも生きていける。それが現代の普通の感覚だと思います。僕も同じです。
でもたまに「もし何か答えがあったとして、それを知ったとき、自分は何か変わるんだろうか」と考える。
今回の「世界はエゴの投影だ」という考え方は、そういう問いへの一つの回答として、なんか整合性があるんですよね。戦争も病気も犯罪も、全部「神が意図したものじゃない」と考えると、むしろ辻褄が合う部分がある。
宗教的な「神は試練を与えている」という説明より、「もともと僕らが作り出してしまったものだ」という説明の方が、个人的には腑に落ちる感覚がありました。いい悪いではなくて、そういう感覚として。
「許せない」が続く理由が、少し分かった気がした
もう一つだけ書き留めておきたいことがあります。
この世界観で言うと、「他人を許せない」という感情には構造的な理由がある、という話でした。
エゴが強いほど、他人の行動が気になる。批判したくなる。攻撃したくなる。それはエゴが「自分が正しい、あいつが間違っている」という対立構造の中でしか生きられないからだということです。
誰かを批判することで、自分の正しさを確認している。そういう構造がある気がする、というのは、正直なところ身に覚えがある。
SNSで誰かの発言にイライラしてしまうとき。「これはなんかおかしいだろう」と思って、でも言っても仕方ないのに頭の中でもんもんしているとき。あれって結構エネルギーを使っているんですよね。そしてそれが自分の何かを変えるかというと、特に何も変わらない。
「他人を変えようとするより、自分の心を整える方が建設的だ」というのは、言われてみれば当たり前なんですが、改めてこの文脈で言われると刺さるものがありました。
これは感情を我慢したり、怒りを押し込んだりする話じゃないと思っています。そうじゃなくて、「スクリーンに向かって怒っても仕方ない」という感覚を少し持っておく、ということです。映像に手を伸ばしても、何も掴めないように。
たぶん僕はこれからもむかつくことは何度でも経験するし、許せないと思う瞬間もある。でもそのたびに「あ、今フィルムを汚してるな」という感覚で一歩引いてみることはできるかもしれない。それだけでも、少し違う気がしています。
それとこの考え方の中に「あなたが変わると、その背後にいる多くの人々に影響が及ぶ」という話もあって、これがバタフライエフェクト的な感じで、意外と現実感がある。自分の機嫌が周りの空気を変える体験は誰でもあると思うし、それが連鎖していく感覚も悪くない。宇宙規模の話は信じられなくても、そこだけは「あり得る」と思える。



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