「現実って誰が作ってるんだ」問題。
ある夜のこと。会社からの帰り道に、なぜかこんな問いが頭に浮かんだんですよね。
「今、僕がこうして歩いているこの現実って、いったい誰が作ってるんだろう」
別に何かあったわけじゃないです。仕事もまあまあ、飯もちゃんと食えてる。特別な不幸も特別な幸運もない、普通の夜。なのに急にそういうことを考えてしまう。急にどうしたって話ですよね。
でもその夜から、量子力学というものを調べ始めたんです。正確には「量子もつれ」という現象から入りました。最初は「量子って言葉かっこいいな」くらいの動機でしたけど、調べれば調べるほど、これって普通に生きていると絶対に出会わない「現実の別の見方」だと思えてきた。
今回はそこから考えたことを書いてみます。科学の話というより、「これって自分の生き方とどう関係してくるんだろう」という個人的な考察です。答えは出ません。でも気になって仕方がなかったんですよね。
量子もつれという、意味わからん現象について
まず量子もつれとは何か、という話から始めます。
簡単に言うと、「離れた2つの粒子が、瞬時に影響し合う」という現象です。
たとえば電子という粒子を2つ用意して、ペアにした状態で引き離す。東京とロンドンくらい離してもいい。そのうち片方の性質を測定した瞬間、もう片方の性質もその瞬間に確定する。距離は関係ない。時間差もない。
普通の感覚で言えば、これはありえないんですよね。情報が伝わるには時間がかかる。光の速度すら超えられないというのが物理の常識のはずで、当のアインシュタインもこれを「不気味な遠隔作用」と呼んで最後まで納得しなかったらしい。
でも実際に実験すると、そうなってしまう。繰り返し。何度やっても。2022年にノーベル物理学賞を受賞した研究でも、まさにこの現象の「実在性」が証明されたことが話題になりました。
僕がここで止まったのは、「じゃあなぜ瞬時に伝わるのか」という問いに対する、ある考え方でした。
2つの粒子は「離れているように見えるだけで、本来は同じものとつながっている」のかもしれない、という解釈です。
つまり、距離という概念そのものが、僕たちが感じているほど絶対的じゃない可能性がある。「場」という概念で考えると、全ての粒子はひとつの巨大なフィールドの中の波紋のようなもので、離れているように見えてもその根底では繋がっている。そういう見方があるんですよね。
これが正しいかどうか、僕には判断できません。でも「えっそれって、もしかして……」という感覚がずっと続いてしまった。
現実は、観測されるまで確定していない
量子力学の話で必ず出てくるのが、「観察者効果」という概念です。
極小の粒子の世界では、観測する前には粒子は「確率的にしか存在していない」んですよね。観測した瞬間に初めて、位置や性質が確定する。見ていないときは、複数の可能性がぼやっと重なった状態でふわふわしている。見た瞬間にスパッと決まる。
これを「波と粒の二重性」と言います。見ていないときは波。見たとたんに粒。
「君は、君が見上げているときだけ月が存在していると本当に信じるのか?」というアインシュタインの言葉があるらしいんですが、量子力学の理論はまさにそれを問うてくるんですよね。もちろん月みたいなマクロなものには直接当てはまらないんですが、根本にある粒子レベルの話として言えば、観測なしには確定しないというのが現代物理の立場です。
ここで僕が考えたのは、「じゃあ、観測しているのって誰なんだろう」ということでした。
物理的に言えば、光が物体に当たって反射し、目の網膜に届いて電気信号になり、脳が映像として処理している。音も匂いも触覚も、全部同じメカニズムで「脳の中で作られた世界」なんですよね。
だとすると、「現実がそこにある」という感覚は、脳という観測装置が作り出したものである可能性が高い。
これは別に怖い話じゃないと思っていて、むしろ「現実って思ったより流動的なんだな」という気持ちになった。カチコチに固定されてると思っていたものが、実は意外と揺らいでいる。そういう感覚です。
「キャラクターとプレイヤー」という考え方が、妙に腑に落ちた話
量子力学からもう少しスペキュレイティブな方向に踏み込んだ話をします。ここからは「もしかしたら」の話として聞いてほしいんですけど、妙に腑に落ちたんですよね。
僕らが普段生きているのは、縦・横・高さの3次元に時間を加えた4次元の世界だとされています。で、もしそれを超えた「もっと上の次元」があるとしたら、という考え方がある。
たとえばゲームを想像してみてください。画面の中のキャラクターは、ゲームの世界の中では一生懸命生きてます。でもコントローラーを握っているプレイヤーは、画面の外にいる。キャラクターにはプレイヤーの存在は見えない。
もし僕たちが「4次元世界を生きるキャラクター」で、どこかにそれを操作しているか、あるいは深く関与している「上位の自分」みたいなものがいるとしたら……という考え方が、量子力学やスピリチュアルや哲学のいろんな方向から出てくるんですよね。
正直に言うと、最初はこの手の話って苦手でした。「宇宙から来た使命」とか「魂の目的」みたいな言葉を聞くと、どうにも距離を置きたくなってしまう。
でも、「キャラクターとプレイヤー」という比喩は、意外と使えると思ったんですよ。
たとえば仕事でちょっとしんどいことがあったとき。「キャラクターの僕」は普通に消耗します。でも「プレイヤーとしての視点」から見れば、これはイベントなのかもしれない。経験値を積んでいる場面なのかもしれない。
「ポテトチップスを食べながらコントローラー握ってる自分が、どこかにいる」と思うだけで、なぜか少し気持ちが楽になる瞬間があったんですよね。僕だけかもしれないけど。
これが「正しいかどうか」は分からないです。でも「使えるかどうか」で言えば、使える場面がある。そう思っています。
無意識の「ルールブック」を、少しだけ疑ってみた
量子もつれの話から派生して、こういうことも考えました。
観測が現実を作るとすれば、「どういう目で世界を見るか」が現実の形を決めることになる。
そしてその「見方」は、知らないうちに刷り込まれたものかもしれない。
子どもの頃から「こういうものだ」と教わってきたこと。親や学校や社会から受け取った価値観。そういうものが、無意識の「ルールブック」として自分の中にある。
たとえば「頑張らなければ認められない」とか「自分には無理だ」とか。証拠があって信じているわけじゃなくて、気づかないうちにそれが前提になっている。
これって、量子的に言えば「観測者の設定がずっと更新されていない」状態に近い気がするんですよね。そのルールブックのまま世界を見ている限り、見えるものも変わらない。
僕自身、「失敗するかもしれないからやらない」という選択を、何度かしてきました。そのとき「無理だ」という判断は、本当に現実を見てそう決めたのか。それとも昔誰かに言われたことや、なんとなく積み上がってきた思い込みから来ているのか。
そこを少し丁寧に見てみると、案外「根拠ないな」って感じることがある。それだけでも、ちょっとだけ動きやすくなる瞬間があった。別に大発見でも覚醒でもなくて、「あ、思い込んでただけかも」っていうその程度の話ですけどね。
「全ては場である」という感覚について、もう少し
量子力学で出てくる「場」という概念も、調べていくうちにじわじわと引っかかってきました。
物質は「粒子が集まってできている」というイメージを多くの人は持っていると思いますが、最先端の物理では「粒子こそが場の振る舞いの一形態に過ぎない」という考え方があるんですよね。場が先にあって、そこに波が立ったものが粒子として現れる。波が引けば消える。
真空と呼ばれる何もない空間にも、実はエネルギーが満ちていて、そこには無限の可能性が潜んでいるというイメージです。
これを聞いたとき、昔から人類がさまざまな言葉で呼んできたものと似ているなと思ったんですよね。宗教や哲学でいろんな名前がついている「根源的な何か」。名前は文化によって違うけれど、「目に見える世界を超えた領域に何かがある」という直感は、どこの文化でも出てくる。
それが量子力学という全く別の入口から「場」という形で出てきたとき、人類が何千年もかけて感じ続けてきた何かが、別のアングルから照らされた気がした。
もちろんイコールじゃないし、証明もされていない。でも「違う言語で同じものを指そうとしているのかもしれない」という感覚は、なんか好きなんですよね。単純に面白いと思う。ただそれだけなんですけど。
瞑想って結局なんなんだ、という話
量子力学の話を追いかけていると、必ず「瞑想」という言葉が出てきます。
不思議だなと思って。なぜ物理の話が瞑想に着地するのか。
でも考えてみると、なんとなく分かる気がするんですよね。
「観測が現実を作る」とするなら、観測者である自分の意識の状態が大事になってくる。焦っているとき、不安なとき、そういう状態で世界を見ると、当然その色眼鏡がかかる。
瞑想っていうのは、その「見ている自分」を少し落ち着かせる作業なんじゃないかと思っています。リラックスしていて、しかも集中している状態。ゾーンとかフローと呼ばれるような状態。
そこだと、いつもと違うものが見えることがある気がする。僕はそんなに上手く瞑想できないんですが、ちゃんと呼吸に意識を向けた後は、頭の中の雑音が少し静まって、「あ、そういえばこれが本当にやりたかったことだな」という感覚が出てくることがある。
大げさに言えば、自分の「ルールブック」を一時停止して、素の状態で自分に聞いてみる感覚。
これが量子的に何かとつながっているのかどうか、正直わからないです。でも「なんか効果がある気がする」という体験は確かにあって、その体験を「気分の問題だ」と片付けるより、「脳波レベルで何かが変わってるのかもしれない」と考える方が、なんとなく面白いなと思っています。
瞑想が苦手なら、海や山に行くだけでも似たような感覚になれると思う。あの「静かな集中」みたいな状態は、たぶん似たメカニズムで起きているんじゃないかと。
「世界は確率的だ」という感覚を持って生きることについて
長々と書いてきましたが、最終的に僕が量子もつれの話から受け取ったのは、こういうことでした。
「現実はカチコチに固定されていない」
量子の世界では、観測されるまでは何も確定していない。全ては確率として、可能性として揺らいでいる。物質さえも、場のエネルギーが一瞬形を取ったものに過ぎないかもしれない。
これが日常にどう影響するかというと、「今の自分の見ている世界が全てじゃないかもしれない」という感覚に繋がる気がするんですよね。
今の状況が苦しいとき、「これが現実だから変えられない」と思ってしまうことってあると思う。でも量子的な見方をするなら、現実はそんなに絶対的じゃない。観測の仕方が変われば、見えてくるものが変わる可能性がある。
ただ、これを「だから思い込めば叶う」という方向に持っていくのは、僕はちょっと違う気がしていて。そういう単純な話じゃないとも思っている。「叶う叶わない」より、「世界の見方が柔らかくなる」という方が近い感覚です。
量子の話を知ったからといって、明日から人生が変わるわけじゃない。月曜の朝に「なんでこんな会社員やってんだろう」と思う瞬間は普通にあるし、量子力学を知ったところで眠気は消えない。
でも、「現実は硬くない」という感覚を持っておくだけで、選択肢が少しだけ広がる気がする。
今の自分の「ルールブック」は、誰かに書かれたものかもしれない。それをちょっとだけ疑ってみる。それだけで、何かが動き始めることがある。
量子もつれが教えてくれたのは、遠く離れたものが瞬時に繋がるという不思議な事実でした。
そして僕は、今の自分と「なりたかった自分」も、もう少し繋がれるんじゃないかと思っています。たぶん、ですけどね。
量子力学の概念をこうして言葉にしながら、改めて気づくことがあります。
僕らはどうしても「答えが欲しい」生き物なんですよね。これが正解、これが真実。そういうものを掴めれば安心できる。でも量子の世界は、そういう「確定した答え」を根本から疑ってくる。
観測するまで確定しない。全ては確率の重なり。
それって、生き方についても似ていると思うんですよね。「これが僕の人生の正解だ」と確定させようとするほど、かえって窮屈になっていく気がする。もう少し「まだ確定していない」という状態を許容する方が、実は生きやすいのかもしれない。
量子もつれという現象が面白いのは、離れていても繋がっているという点です。答えが出ない問いを抱えながら生きていても、同じように考えている誰かと、どこかで繋がっているのかもしれない。そう思うと、夜中にこんなことを考えている自分も、少しだけ悪くないなと思えるんですよね。



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