居心地の良い場所を、手放したことがある。
居心地が良かったから、手放すのは難しかった。
当時担当していたチームを離れることになったとき、「なんで今のタイミングで」という気持ちがあった。チームの雰囲気が良くなってきた時期で、自分がいなくなることで何かが変わってしまう気がした。
でも結局、手放した。
手放した後、しばらくは後ろを振り返っていた。「今頃あのチームはどうなっているだろう」と思いながら、新しい場所でもどこか半分は前の場所にいる感覚があった。
それが落ち着いてきたのは、半年くらい経った頃だった。
あのとき手放したことは正しかったのか、今でも分からない。でも、手放したことで「次の場所」に完全に入れた、というのは確かだ。
手放さなければ、来られなかった場所がある。
「手放せない」のは、愛着なのか恐怖なのか
何かを手放せないとき、その理由はいくつかある。
本当にそれが好きで、なくしたくない。その愛着は正直で、大事にしていいと思う。
でもそれとは別に、「手放した後に何が来るか分からない」という怖さで手放せないことがある。
この二つは、感覚として似ているから区別が難しい。
仕事でも、関係でも、習慣でも、「これがなくなったら自分はどうなるのか」という不安が、手放せない理由になっていることが多い。
その不安は嘘じゃない。手放すことで何かが変わるのは本当だし、変化が怖いのも自然だ。
でも、愛着と怖さを同じように「手放せない理由」として扱っていると、自分がどちらに引っ張られているのかが分からなくなる。
あるとき気づいたのは、「手放した後のことを具体的に想像できていない」とき、怖さが強い、ということだ。
手放した先に何があるかを、曖昧にしか描けていないから怖い。具体的に「手放した後、こういう形になるだろう」と描けるとき、不安は残っても少し動きやすくなる。
愛着と怖さを区別すること。それが、手放すかどうかを考えるときの最初の問いだと思っている。
もう一つ、手放せない理由として気になっていることがある。
「まだ可能性がある」という感覚だ。
何かを手放すとき、「もしこれを続けていたらうまくいったかもしれない」という可能性を、手放すことになる。手放した瞬間に、その可能性は消える。
これが怖い。可能性がある限り、どこかで「続ければ良かった」という選択肢が残るから。でも手放すと、それが完全に閉じる。
手放すことは、一つの可能性の終わりを受け入れることでもある。
その受け入れが難しいのは、「もしかしたら」という感覚を人間は手放しにくいからだと思う。
でも考えてみると、何かを手放さない限り、次のものを受け取ることもできない。手が塞がっているから、新しいものを掴めない。
「可能性が残っている状態」を保ち続けることと、「次に進む」ことは、両立しにくい。そのどちらを選ぶかは、正直タイミングによるし、正解もない。でも、「手放せない理由が怖さなのか、本当の愛着なのか、まだ続けたい意志なのか」を少しでも整理してから判断する方がいい気がしている。
「過ぎていくもの」を惜しむ感覚について
季節が変わるとき、なんとなく惜しい気持ちになる。
春が終わる頃、夏が終わる頃。「もう少し続いてほしかった」という感覚がある。
これは「執着している」というより、「ちゃんと感じ取れている」という感覚に近い気がしている。
過ぎていくものを「惜しい」と思えるのは、その時間を意識して生きていた証拠だと思う。逆に、過ぎていくものに何も感じないときは、その時間をほとんど気づかずに通り過ぎていたということかもしれない。
日常はどんどん流れていく。昨日のことは今日には遠くなっていて、先週のことは今週には朧げになっている。それは止められない。
でも、「惜しい」と思う瞬間だけは、その感覚がある瞬間を少し引き止めてくれる気がする。
ある友人が遠くに引っ越したとき、見送りながら「もう会えなくなるかもしれない」と思った。その感覚は寂しかったけど、同時に「こんなに惜しいと思えるくらい、この関係は大事だったんだ」という確認でもあった。
過ぎていくものを惜しむこと。それはただの未練じゃなくて、今まで積み上げたものへの敬意に近いのかもしれない。
ただ、惜しむことと、止めようとすることは違う。
惜しみながら、それでも手放す。その両方が、できるようになると少し楽になる気がしている。
これはかなり難しいことだと思う。
「惜しむ」と「手放す」は、感情の方向性が逆に見えるから。惜しんでいるのに手放すのは、矛盾しているように感じる。
でも実際には、惜しむことと手放すことは同時にできる。というか、ちゃんと惜しんだからこそ、手放せることがある。
中途半端に惜しんでいる状態が一番難しい。「本当は惜しくない気がするけど、惜しいふりをしている」か、「惜しいんだけど認めたくなくて、手放すことを急いでいる」か。どちらも、惜しむことと手放すことが噛み合っていない状態だ。
ちゃんと惜しんで、ちゃんと送り出す。そういう別れ方ができたとき、意外とすっきりする感覚がある。
感情を中途半端に処理するより、向き合って完了させる方が、次に進みやすい。
栄えたものが消えていくことへの、不思議な安堵
かつて栄えたものが、今は何も残っていない場所に行ったことがある。
出張先の地方都市の、かつて商店街だった通りだ。シャッターが閉まった店が並んでいた。でも、その空間の輪郭には、かつての賑わいの痕跡が残っていた。
寂しかった。でも、それと同時に、奇妙な安堵感もあった。
どんな栄えも、永遠じゃない。どんな繁盛も、いつかは終わる。どんな建物も、いつかは朽ちる。
これは暗いことのように聞こえるかもしれない。でも、その事実を受け取ったとき、逆に「今を焦る必要はないのかもしれない」という感覚があった。
今うまくいっていないことも、今苦しいことも、いつかは変わる。今の状態が永遠に続くわけじゃない。
そして今うまくいっていることも、今楽しいことも、形を変えながら過ぎていく。
どちらの方向にも、「今だけじゃない」という事実がある。
その事実は、うまくいっていないときには「いつか変わる」という支えになって、うまくいっているときには「今を大事に」という提示になる。
栄えたものが消えていくのを見るとき、僕は「もったいない」より先に「これが自然なことなんだ」と感じることが増えた。
そしてそれは、今の自分がいつか変わることへの、準備でもある気がしている。
別れを、ちゃんと経験することについて
友人が遠くに引っ越す、チームメンバーが会社を辞める、馴染みの店が閉店する。
こういう「別れ」に、どう向き合うかは人によってかなり違う。
淡々と処理してしまう人がいる。「また会えばいい」「次の機会がある」と、別れをあまり大きく扱わずに前に進む。
逆に、いつまでも引きずってしまう人がいる。別れた後も、「あの人は今どうしているか」「あの場所はどうなったか」を考え続ける。
どちらが正しいかは分からない。でも、別れをちゃんと経験すること自体には、何か大事な意味がある気がしている。
「別れが寂しい」と感じることは、その関係や場所が本物だったという証拠だ。
寂しくないなら、それほどの関係じゃなかったということかもしれない。あるいは、寂しさを感じないように自分で防いでいるかもしれない。
寂しさを感じることを、積極的にやる必要はない。でも、感じようとしている寂しさを無理に消そうとするのも、もったいない気がしている。
別れをちゃんと経験した後の方が、次に出会ったものを大事にできる気がしている。
惜しんで、送り出して、また新しいものと出会う。この繰り返しが、旅をしていることの中身なのかもしれない。
自然は変わらないのに、人間はどんどん変わっていく
同じ場所に何年かぶりに行くと、そこが変わっていることに驚く。
でも逆に、山や川や空は、変わっていない。
人間の作ったものは変わり続けるのに、自然はそのままにある。この非対称が、面白いと思う。
人間は何かを残そうとする。建物を建て、作品を作り、記録を残す。それは前の記事で書いたことに繋がるけど、でも結局それらは全部変化していく。
一方で、岩や空や川は、何百年も前と大して変わらない姿でそこにある。
このことを考えると、「何かを残すこと」と「残るもの」の間に、ずれがあるような気がしてくる。
人間が残そうとしたものより、残ろうとしていないものの方が、長く残ることがある。
強く握りしめているものより、自然に置いてきたものの方が、残り続けることがある。
これはパラドックスのように聞こえるかもしれないけど、感覚としてはなんとなく分かる。
力んで作られたものより、力が抜けた状態で作られたものの方が、伝わることがある。必死さが滲んでいるものより、余裕がある方が、受け取りやすいことがある。
自然にあるものの持つ力は、もしかしたらそのあたりにあるのかもしれない、と最近思っている。
重さを経た後の、軽やかさについて
若い頃、力んでいたと思う。
何かを作るとき、何かを伝えるとき、「ちゃんと伝えなければ」「うまくやらなければ」という力みがあった。
その力みは悪いものじゃない。真剣に向き合っているということだ。でも、力みすぎると、かえって伝わらなくなる気がした。
重すぎる言葉は、受け取る方が疲れる。頑張りすぎた感じのある作業は、どこかぎこちない。
ある種の「軽さ」は、手を抜いた結果じゃなくて、十分やった後に力が抜けた結果だと思う。
音楽でも、スポーツでも、身体が動きを覚えた後に「考えなくても動ける」状態になることがある。その状態は、初心者がやっているより自然に見える。
でも、その自然さに辿り着くためには、最初に大量の「不自然な練習」が必要だった。
重さを十分経験しないと、本当の軽さには辿り着けない気がしている。
軽やかに見える人は、軽くやっているわけじゃない。重さを経験した後で、手放してきた人なのかもしれない。
この感覚は、失敗した経験のある仕事に向き合うときに特に感じる。
一度大きな失敗をした後で同じような場面に向かうとき、「前も同じところでつまずいた」という記憶がある。その記憶は重いけど、同時に「どこが危ないか知っている」という余裕にもなる。
失敗する前の状態には戻れないけど、失敗した後の状態の方が、動き方が変わっている。
「何も傷ついていない状態の軽さ」と、「傷ついて、それを経た後の軽さ」は、見た目は似ていても中身が全然違う気がしている。
前者は軽さを保つことに気を遣っているかもしれない。後者は、傷ついても大丈夫だということを知っているから、力みが少ない。
経験の重さが、そのまま軽やかさの土台になっていく。そういうことが、時間をかけると起きてくる気がしている。
だから、「今が重い」と感じているときも、それがそのまま軽さへの道になっているのかもしれない、と思えるようになってきた。
重いまま軽さを目指そうとしても意味がない。重さを通り抜けた先に、軽さがある。
焦らなくていい。重さはいつか軽くなる。それは諦めじゃなく、経験の自然な変化だと思っている。
「旅している」という感覚で生きること
生活していると、「ここにずっといる」という感覚が自然に生まれる。
住んでいる部屋、通い続けている職場、繰り返している日常。それが「定住」の感覚を作る。
定住の感覚は安心を与えてくれる。根を張れる。計画を立てやすい。
でも、定住の感覚が強すぎると、変化が怖くなる。今の状態を守ることに力が向かいすぎる。手放すことへの抵抗が強くなる。
最近、「今いる場所は、旅の途中で立ち寄っている場所だ」という感覚を、意識的に持つようにしている。
定住じゃなく、旅の途中。この場所に長くいるかもしれないけど、ずっとここにいるわけじゃない。今ここにいながら、次の場所に向かう途中でもある。
この感覚は、少し自分を軽くしてくれる気がする。
「ここを守らなければ」という力みが、少し緩む。「ここから離れることになっても、それも旅の一部だ」という気持ちになれる。
日常は続いているように見えるけど、実は毎日少しずつ変わっている。昨日の自分と今日の自分は、完全には同じじゃない。
それを「不安定」と取るか「旅をしている」と取るかで、日常の感じ方がかなり変わってくる。
定住しているようで、旅をしている。
これが今のところ、僕にとっていちばんしっくりくる生き方の感覚だ。
少し具体的に言うと、こういうことだ。
今住んでいる街を「終の住み処」として考えるのと、「今は旅の中でしばらく留まっている場所」として考えるのでは、街との関わり方が変わる。
前者だと、この街に根を張ることが目的になりやすい。後者だと、今ここにある良さを、ちゃんと味わっておこうという気持ちになる。
どちらが正しいとは思わない。でも、「旅の途中」という感覚の方が、今いる場所を新鮮に見られる気がしている。
慣れ親しんで当たり前になったものを、「旅先のもの」として見ると、急に「これはいいな」と感じることがある。
毎朝通っている道の景色。気に入っている喫茶店の空気。近所のスーパーの雰囲気。ずっといると気づかなくなるけど、「旅の途中」という目で見ると、その良さが蘇る。
当たり前を当たり前にしない。それが、旅という視点の持つ力かもしれない。
手放す練習を、少しずつ
手放すことは、一度でうまくできるものじゃない。
何かを手放すとき、毎回それなりに痛い。慣れ親しんだものを手放す痛みは、慣れないまま毎回やってくる。
でも、練習はできると思っている。
小さなことから手放してみること。「あってもなくてもいいもの」を、手放す練習をすること。
物理的なものでも、習慣でも、考え方でも。「もう必要ないかもしれない」と思いながら持ち続けているものを、少しずつ整理していく。
それは「捨てる」ことじゃなくて、「次の場所に向かうために、荷物を見直す」ことに近い。
旅をするなら、荷物は軽い方がいい。全部持っていこうとすると、動けなくなる。
今の自分に本当に必要なものと、惰性で持ち続けているものを、時々区別してみること。
それが、軽やかに生きることへの、地道な準備なのかもしれない。
過ぎていくものは、惜しみながら送り出す。今あるものは、大事に使い尽くす。そして、次に向かうときは、できるだけ軽い荷物で出発する。
それだけでいいのかもしれない、と最近思っている。
手放すことも、過ぎていくものを惜しむことも、重さを引き受けることも、全部が「旅をしている」ということの一部だ。
旅に荷物は要る。でも全部持っていくことはできない。何を持ち、何を置いていくかを、その都度選んでいく。
それが生き方なのかもしれないと、最近少し思っている。
答えはない。でも問い続けながら動いていれば、それが旅になる。



コメント