死ぬまでに何かを残せるだろうかと考えた話~「名を残したい」という欲は、恥ずかしいのか~

「名を刻みたいという欲は恥か」 生き方・考え方

死ぬまでに、何かを残せるだろうか。

こういうことを考え始めたのは、30代が近づいてきた頃だと思う。

20代の前半は、「今をどう生きるか」で精一杯だった。仕事を覚えて、生活を整えて、人間関係を作っていく。それだけで手いっぱいで、「残す」なんてことを考える余裕もなかった。

でもある時期から、「これって何のためにやっているんだろう」という問いが浮かぶようになった。

別に哲学的な問いを持ちたくて始めたわけじゃない。ただ、日々の仕事をこなしながら、「このまま続けていって、自分は何かを残せるのか」という感覚がじわじわと出てきた。

答えはまだない。でもこの問いは、一度持ったら案外手放せないものだと分かってきた。

「名を残したい」という欲は、恥ずかしいのか

少し正直に書く。

僕には「何か記憶に残るものを作りたい」という気持ちがある。

誰かの記憶に残る仕事をしたい。後から読み返したくなるものを書きたい。「あのとき助かった」と思ってもらえる何かを作りたい。

この気持ちを誰かに話すと、「承認欲求が強いんだね」とか「そういう動機で仕事するとズレるよ」とか言われることがある。

確かにそういう側面もあると思う。でも同時に、この気持ちを「恥ずべきもの」として封じ込めることも違う気がしている。

「名誉欲は捨てなさい」「自分のためじゃなく相手のために」という言葉は、聞こえはいい。でも本心を正直に言うと、「自分が何かを残したい」という欲を完全に消した状態で動く人間が、本当に長く続けられるのか、疑問がある。

純粋な利他心だけで動ける人が世の中にいるのは分かる。でも多くの人は、「誰かの役に立ちたい」と「自分のためにもなってほしい」が混ざり合いながら動いている気がする。

その混ざり合いを「不純だ」と裁くより、「何かを残したいという欲が、自分をどう動かしているのか」を見た方が正直だと思う。

欲を消すより、欲の向き先を見る方が、ずっと誠実な態度だと僕は感じている。

もう少し掘り下げると、こういうことだ。

「名を残したい」という欲には、二つの方向がある。

一つは「自分が褒められたい、評価されたい」という欲。もう一つは「自分がこの世界に存在した証を、何らかの形で置いていきたい」という欲。

この二つは似ているようで、だいぶ違う気がしている。

前者は、「自分を見てほしい」という欲だ。これが強すぎると、「見てもらえるかどうか」が行動の基準になってしまい、誰も見ていない場所では手が抜けたり、評価されないと続かなくなったりする。

後者は、「この世界に何かを与えたい」という欲に近い。自分が消えた後も、自分が関わった何かが残っていてほしい、という感覚だ。

この区別は、頭で整理するより、実際の行動の中で見えてくることが多い。誰かが見ているときだけ頑張れるなら前者が強い。誰も見ていない場所でも続けられるなら、後者が動力になっているのかもしれない。

僕はどちらかというと、両方が混ざっている。誰かに読まれると嬉しいし、評価されるとモチベーションが上がる。でもそれだけじゃなく、「誰かの役に立つかもしれない」という感覚で動いている部分もある。

この混在を認めた上で、「どちらの欲の割合を増やしたいか」を考えることが、今の自分には必要だと思っている。

「残す」にも、いくつかの層がある

「何かを残したい」と言っても、残せるものはいくつかある。

一番分かりやすいのはお金だ。財産を残す、社会に寄付する、誰かの教育に使ってもらう。お金を動かすことで、何かを残せる。

でも大きなお金を作るには、それなりの才能と運が必要で、誰にでもできることじゃない。

次に、仕事や作品がある。長く残るものを作ること、後から見ても価値があるものを残すこと。物を作る人、書く人、組織を作る人。そういう仕事は、確かに残る。

でも仕事や作品を残すにも、やはり一定の才能や環境が要る。

では、お金も作れない、大きな仕事もできない、才能にも恵まれていない人は、何も残せないのか。

そうじゃないと思う。

残せるものの中で、たぶん一番地味で、でも一番確実なのが「考えたこと、感じたこと」だ。

誰かに話した一言。書いた文章。伝えた感情。それが誰かの中に残って、その人を動かして、またその先に伝わっていく。

お金や事業より規模は小さいかもしれない。でも「考えや感情を伝える」ことは、才能の有無に関係なく、誰にでも開かれている。

これを言い換えると、「誰もが何かを残せる可能性がある」ということになる。

才能がないから何も残せない、環境に恵まれていないから意味がない、という諦め方は、「残すもの」をお金や仕事や作品にしか見ていないときに起きる気がする。

でも、誰かに「あの人はこういう人だった」と語り継がれることも、残すことの一つだ。

名前が残らなくても、その人の生き方が誰かに影響を与えて、その影響が次の誰かに渡っていくことも、残すことの一つだ。

そういう視点で見ると、「何も残せない人間」はそれほど多くない気がしてくる。

むしろ問題は、「自分は何も残せない」と思い込んで、残そうとすることをやめてしまうことだ。

諦めた時点で、可能性も消える。でも諦めずに「今の自分に何ができるか」を考え続けていると、思いがけない場所で何かが繋がることがある。

「うまい文章」より「本当のことを書いた文章」

文章を書くことに対して、ずっと苦手意識があった。

文法が正しいか。構成が整っているか。読みやすいか。そういうことばかり気にして、肝心の「何を言いたいか」がぼやけることが多かった。

でも最近、少し考えが変わってきた。

人が何かを書いたとき、それを読んだ人が「分かる」と感じる瞬間は、文章の巧拙よりも「これは本当のことだ」という感覚に近い気がしている。

うまく整った文章より、少し拙くても「書いた人が本当にそう感じた」という体温がある文章の方が、残りやすいかもしれない。

以前、ネットでたまたま読んだ誰かのブログに、ひどく心を動かされたことがある。文章は決してきれいじゃなかった。でも、「この人はこのことを本当に感じていた」という確信があった。

それから何年も経った今でも、そのブログのことを時々思い出す。

その人の名前も覚えていないし、もうその記事があるかも分からない。でも、書いた人の「感情」は、確かに僕の中に残っている。

名前が残らなくても、感情は残る。

この事実は、何かを残したいと思っているが、大きな才能があるわけじゃない僕にとって、かなり重要なことだと思っている。

逆に言うと、どれだけ優れた技術を持っていても、「本当のことを書いていない」文章は残らないかもしれない。

技術と誠実さは、どちらかがあれば良いわけじゃない。でも、どちらかが欠けているとしたら、技術が欠けている方がまだ取り返しがきく。誠実さが欠けていると、読み手には伝わる。

「この人は本当のことを書いていない」という感覚は、言語化しにくいけど、読んでいると分かることが多い。

きれいに整っているのに、なんとなく響かない文章がある。逆に、荒削りなのに、何か引っかかるものがある文章がある。

その違いは、「書いた人がそれを本当に感じていたかどうか」に関係していると思っている。

だから、「うまく書けない」という理由で書くことをやめるより、「うまくなくても、本当のことを書く」方が、何かを残せる可能性があると思っている。

文章に限らず、話すことでも、行動することでも、この原則は同じだと思う。

何度か立ち直った経験がある

少し個人的な話をする。

仕事で手がけていたことが、外部の理由で突然なくなったことがある。

半年以上かけて準備してきたことが、自分の責任ではない事情で消えた。

そのとき正直、かなり落ち込んだ。努力が報われなかった、という感覚もあった。でも、それより強かったのは「この経験は無駄になるのか」という感覚だった。

半年間の試行錯誤、失敗して学んだこと、手探りで得た感覚。それは確かに蓄積されていた。でも成果物がなくなると、その蓄積も一緒に消えた気がした。

しばらく経ってから、また別の形で似たことを始めた。

始めてみると、あの半年が全部生きている感覚があった。以前の失敗から学んだことが、次に活きていた。

成果物は消えたけど、経験は消えなかった。

あのとき「経験は残る」という感覚を持てたことが、今の自分の中でかなり大事な土台になっている気がしている。

これは「失敗しても大丈夫」という話とは少し違う。失敗は痛いし、ダメージは残る。

でも、「成果物が消えても、経験は消えない」という感覚を一度持てると、その後の動き方が少し変わる。

何かに挑戦するとき、「もし失敗したら全部無駄になる」という怖さが薄まる。代わりに「失敗しても、経験として残る」という前提で動ける。

この前提があると、リスクを取りやすくなる。結果が保証されない挑戦に、踏み出しやすくなる。

もちろん、失敗をすすめているわけじゃない。でも、「失敗=全損」という感覚が強すぎると、動けなくなっていく。特に、年齢を重ねるにつれてその感覚が強まる気がしている。

若い頃は「失敗しても取り戻せる」という感覚があった。でも30代に近づくと、「もうそんな時間はない」という焦りが生まれやすい。

それでも、「経験は積み重なる」という事実は変わらない。

どんな失敗も、ある意味では自分の中に残る。それを「何も残らなかった」と見るか、「残り方が違っただけ」と見るかは、自分の解釈次第だ。

失敗したあとに立ち直ること自体が、何かを残す

歴史上の偉人たちが残したものの中で、僕が一番心を動かされるのは「大きな業績」よりも「失敗から立ち直った話」だったりする。

そのこと自体について、少し考えたことがある。

なぜ「失敗からの立ち直り」の話が、業績そのものより心に残るのか。

たぶんそれは、「自分にも起きうること」だからだと思う。

大きな業績を残した人の話は「すごい」と思う。でも、「自分もできるかもしれない」とはなかなか思えない。才能や環境が違いすぎる。

でも「大失敗して、それでも立ち直った話」は、もっと近くに感じる。

あんなに落ち込んだのに、また立ち上がったのか。その精神はどこから来たのか。自分も同じような状況になったとき、どう動けるのか。

そういうことを考えながら、その人の「立ち直った経緯」を何度も読み返したりする。

なにかを残すとき、「成果」より「その人がどう生きたか」の方が長く残ることがある。

何十冊もの本を書いた人より、一つの大失敗から立ち直って最後まで前向きだった人の方が、後の世代に影響を与え続ける、ということが珍しくない気がしている。

誰かの「生き方」に励まされた経験

業績じゃなくて、生き方に励まされた、という経験が僕にはいくつかある。

仕事で行き詰まっていた時期に、職場で一人の先輩のことをよく観察していた。

その人は、特別に仕事ができるわけじゃなかった。成果を出していたけど、「この人でなければ」というほどの突出した能力はなかった。

でも、何かが積み重なると、その人に相談したくなった。

後から考えると、その理由が分かった気がする。

その人は、厳しい状況に置かれたとき、不満を外に向けなかった。愚痴がゼロじゃなかったかもしれないけど、少なくとも仕事の場では、「どうすれば前に進めるか」を考えていた。

うまくいかないときも、腐らなかった。

それを見続けていたことが、自分の中に積み重なっていた。「あの人はああいうときこうしていた」という記憶が、自分が同じような状況に置かれたとき、動き方の参考になった。

その人が残したのは業績じゃなくて、「ああいう状況でああいう動き方をした人がいる」という記憶だった。

それは確実に自分の中に残っている。そしてたぶん、僕だけじゃなく、その人の周りにいた複数の人の中に、同じように残っている。

これが「生き方を残す」ということなのかもしれない、と思う。

「勝ち目のない状況」でどう動くかが、一番伝わる

人の生き方の中で、一番心を動かされるのはどういう場面か、と考えると、たぶん「勝ち目のない状況でどう動いたか」だと思う。

有利な立場で立派なことをしても、それほど心には刺さらない。

でも、不利な状況で、誰も見ていない場所で、報われる見込みがほとんどない中で、それでも誠実に動いた人の話は、なぜか残る。

歴史の中にも、身近な場所にも、そういう人はいる。

有名じゃなくても、大きな業績がなくても、「あの人の生き方はすごかった」と思われる人がいる。何十年も経ってから、「あの人はそういう人だった」と誰かに語り継がれる人がいる。

その人が残したのは業績じゃなくて、生き方だ。

これは少し怖いことでもある。生き方を残すということは、「誰も見ていないところでどう動いているか」まで含むから。

見られているときだけ誠実に動いても、伝わらない。見られていないときも、ちゃんとやっているかどうかが、積み重なって「その人の生き方」になる。

僕はそれができているかというと、全然自信がない。見られていないときに手を抜いてしまうことも、誰かが気づかないと思って誤魔化してしまうことも、ある。

でもその自覚があることは、まあまあ大事なことだと思っている。

少し視点を変えると、「見られていないところで誠実に動ける人」というのは、何かをガマンしているのとは違う気がしている。

ガマンはずっと続かない。でも「そうしたい」から動いている人は、疲れ方が違う。

自分が誠実に動けているときと、そうでないときの違いを振り返ると、「やらされている感」があるかどうかが大きいと思う。

誰かに言われたからやっている、評価されるためにやっている、そういう状態では、見られていない場所で手を抜くのは自然な反応だ。

逆に「自分がそうしたいから」動いている状態は、見られていなくても続けやすい。

だから「誰も見ていない場所でも誠実に動く」ためには、まず「自分がそうしたいか」という問いを先に持っておくことが必要で、それがないとガマンになっていくのかもしれない。

今の自分にできることから考える

大きなお金を残せるかどうか分からない。大きな仕事ができるかどうかも分からない。書いたものが後まで残るかどうかも分からない。

でも「今、自分の本当に感じていることを書くこと」「失敗してもまた立ち上がること」「誰も見ていないところでも誠実に動こうとすること」は、今日から選べる。

後者の二つは、特別な才能も、特別な環境も必要としない。

これが誰かに届くかどうか、後世に何かを残せるかどうかは、分からない。でも、「残せるかどうか」を考えて動くより、「今この瞬間に誠実でいられるか」を考えて動く方が、長い目で見ると何かに繋がる気がしている。

死ぬときに何を残せたかは、死ぬまで分からない。

でも、「何かを残したい」という欲を持ち続けること自体が、動き続ける理由になると思っている。

名を残せるかどうかより、「残そうとして動いた時間」が積み重なること。そっちの方が、今の自分には大事な気がしている。

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