空気を読むことと空気に読まれることは違う~承認欲求の非対称性と、現代の孤独について~

空気を読むことと空気に読まれることは違う 生き方・考え方

「自分が何をしたいのか」、急に分からなくなった夜がある。

正確には、選択肢はいくつかあった。でも、その中のどれが「自分の意志」で、どれが「そうした方がいい気がしているだけ」なのか、区別できなくなっていた。

転職しようか悩んでいた時期のことだ。

いろんな人の話を聞いた。記事も読んだ。「今すぐ動くべき」と言う人もいれば、「もう少し様子を見た方がいい」と言う人もいた。

最終的に僕が考えていたのは、どちらが正しいかじゃなくて「どちらを選んだら、周囲からどう思われるか」だった気がする。

それに気づいたとき、少し気持ち悪くなった。

自分の選択を、他人の目線でシミュレートしていた。

「自分が何をしたいのか」が分からなくなる構造

子どもの頃は、「何になりたいか」という問いに割と迷わず答えられた気がする。

でも大人になるにつれて、「何になりたいか」より「何になるべきか」という問いの方が先に来るようになった。

べき、という言葉は、外側から来る。

周囲の期待、社会の文脈、同世代との比較。そういうものが積み重なると、「自分がどうしたいか」という問いが、「どうするのが正解か」という問いに置き換えられていく。

これは意識的に起きるわけじゃない。いつの間にか、判断の基準が「自分の内側」から「外側の反応」にシフトしている。

転職の話で言えば、「この仕事が好きか、続けたいか」を自分に問うより先に、「転職したことを言ったとき、周りはどう反応するか」を考えていた。

これはたぶん、現代的な判断の仕方だと思う。正解のない世界で育ってきた僕たちは、北極星のような「絶対的な目標」を持たずに生きることに慣れた。そして代わりに、周囲の動向に敏感なレーダーを発達させてきた。

レーダーは便利だ。空気を読める。場の雰囲気を感じ取れる。他人が何を求めているかを察せる。

でもそのレーダーを頼りにしすぎると、「自分が何を求めているか」が分からなくなっていく。

他人のレーダーを回し続けることの疲れ

社会的な場にいるとき、無意識に相手の反応を観察していることがある。

言葉を選ぶ。表情を読む。空気の温度を感じ取る。これは良いことだと思っていたし、ある程度はそうだと今でも思っている。

でもある時期から、「疲れている」という感覚が増えた。

一緒にいる相手に何か言うたびに、相手の反応が気になる。反応が薄いと「何か悪いことを言ったかな」と思う。笑ってくれると「よかった」と安心する。

相手と話しているのに、会話の内容より相手の感情を追いかけている。

これは丁寧さや気遣いとは少し違う。「相手がどう思うか」を先に確認してから自分の言葉を選んでいる、という状態だ。

自分の言いたいことより、相手が聞きたいことを言おうとしている。

一対一ならまだいいが、これがグループになると、複数人のレーダーを同時に回転させることになる。消耗するのは当然だと思う。

そして一人になったとき、また別のレーダーが動き始める。SNSを開いて、誰かの投稿に反応する。自分の投稿に「いいね」がついているか確認する。

一人でいるのに、他人の反応を追いかけ続けている。

これはなんだろう、と思う。孤独を感じているのか、孤独を感じないようにしているのか。その区別も曖昧になっている気がして、それがまた少し怖い。

もう少し具体的に言うと、こういうことがある。

何かを選ぶとき、「自分がどうしたいか」を考える前に、「これを選んだとき、周りにどう見えるか」を先にシミュレートしていることがある。

食事の場所を選ぶような些細なことなら気にならない。でも仕事のこと、お金のこと、人との関係のこと——重要な選択ほど、このシミュレートが先に動いている気がする。

これを自覚するのが難しいのは、「相手を気遣って選ぶ」という体裁をとっているからだ。

相手のことを考えているのか、相手の目線を借りて自分の選択を正当化しているのか。その区別は、案外難しい。

一人でいる力が落ちていると感じること

ある週末、予定が何もない日が続いたことがあった。

最初の1日は、「やっと休める」と思った。

2日目になると、なんとなくSNSを開く頻度が上がった。

3日目には、特に用もないのに誰かに連絡したくなっていた。

別に寂しいわけじゃない。でも、「何もしていない自分」がどこかざわざわする感じがあった。

この「ざわざわ」は何なのか、しばらく考えていた。

たぶん、一人でいることへの耐性が落ちていると思う。

昔は、一人で本を読んだり、ぼーっと考え事をしたりする時間が好きだった。それが最近、「何もしていない時間」を持つことが難しくなっている気がする。

何かをしていないと落ち着かない。誰かと繋がっていないと不安になる。

これはスマートフォンの影響もあるだろうし、そういう時代の空気でもあると思う。でも根っこには、「一人でいることの意味が見つけにくくなっている」という変化があるんじゃないかと感じている。

孤独が怖いのじゃなくて、孤独に耐える理由が分からない、という感覚に近い。

昔は「みんな一人でそれぞれ何かに向かっている」という共通認識があったから、一人でいることが苦にならなかった。でも今は「どこに向かうか」が人それぞれすぎて、一人でいることを肯定する文脈が薄くなっている気がする。

ここに少し問題があると思っている。

一人でいることへの耐性が弱くなると、「常に誰かと繋がっていないと不安」という状態になりやすい。そしてその不安を埋めるために、深い繋がりよりも浅い繋がりをたくさん求めるようになる。

浅い繋がりが悪いわけじゃない。でも、「孤独を感じないために繋がる」という動機だけで動き続けると、繋がっているのに孤独という状態が生まれやすい。

一人でいることに慣れていないと、誰かといても「この人は本当に自分のことを理解しているのか」という不安が消えない。その不安を、次の誰かとの繋がりで埋めようとして、また同じ繰り返しになる。

一人でいられる力は、誰かと深く繋がるための土台でもあると思っている。

認められたい人は多いのに、認める人が少ない

少し違う話をする。

職場で、誰かに「ありがとう、助かりました」と言われたとき、妙にほっとすることがある。

これは承認欲求だと思う。認められたい、という気持ち。

別に悪いことじゃないと思う。でもこの欲求には、構造的な問題がある気がしていて、それが面白いと思っている。

認められたい人は、たぶんそれなりにいる。

でも、誰かを認める行動を積極的にできる人は、それほど多くない気がする。

自分でも心当たりがある。誰かに感謝したいと思っていても、なんとなく照れくさくて言えなかったり。誰かの仕事をちゃんと評価したいと思っていても、「褒めすぎると媚びてると思われるかも」と思って控えたり。

みんなが「認められたい」と思いながら、誰も「認める」側に回れていない状態。

これは寂しい構造だと思う。

承認を求めている人は大量にいるのに、承認を与えてくれる人がほとんどいない。だから、わずかな承認のシグナルに対して過剰に反応してしまう。

SNSの「いいね」がなぜあれほど気になるのかは、この構造で説明できる気がしている。一言「いいね」と言われるだけで、「ここにいていいんだ」という感覚になる。

でも逆に、それがなかったとき、「やっぱり自分はいらないのか」という方向に動いてしまう。

本来、自分の存在価値は「いいね」の数で変わるものじゃないはずだ。でも、他人の反応がないと自分の座標が定まらない状態だと、その信念を保つのが難しくなる。

そしてこれは、SNSの話だけじゃない。

職場でも、家族の中でも、友人関係でも、同じ構造がある。

認められたいという気持ちを持っている人同士が、お互いに認め合えずにいる。それぞれが「認められる側」になろうとしていて、「認める側」に回ろうとしていない。

この非対称性が続くと、関係全体が「互いの承認を求めながらすれ違い続ける場」になっていく。

いちばんシンプルな解決策は、「自分が先に認める側に回ること」だと思う。でもそれが難しいのは、「自分が先に与えると損をする気がする」という感覚があるからだ。

この感覚は、承認を「有限のリソース」として扱っているところから来ている気がする。でも実際には、誰かを認めることで自分の承認が減るわけじゃない。むしろ、誰かを認めることで関係が温まり、自分も認められやすくなる場合の方が多い。

頭では分かっていても、感情的には難しい。それは分かる。でも、一歩先に認める側に動く勇気は、持ちたいと思っている。

誰の影響を受けて、今ここにいるのか

自分の価値観や考え方が、どこから来ているのかを考えることがある。

親に言われたこと。学校で刷り込まれたこと。友人から受けた影響。読んだ本、見た映像、触れてきたコンテンツ。

それらが積み重なって「今の自分」があるわけだけど、どれが「本当に自分のもの」でどれが「外から入ってきたもの」なのかは、意外と区別できない。

もしかしたら、「本当に自分のもの」なんて最初からなくて、全部が外から入ってきたものの組み合わせかもしれない。

でも、少し違うと思っている。

外から入ってきたものを、自分の中で咀嚼して、自分の言葉で語り直したとき、それはある程度「自分のもの」になっている気がするから。

反対に、外から入ってきたものをそのまま、咀嚼せずに使い続けているとき、それは「借り物の価値観」のままだ。

親が「こうすべきだ」と言ったことを、なぜそうすべきなのかを考えずに実行している。メディアが「これがいい」と言ったものを、自分が本当にいいと思うのかを確かめずに選んでいる。

そういう状態は、他人の価値観の上に乗っかって生きていることになる。

これがいいとか悪いとかじゃなくて、「自分はどのくらい、他人の価値観を借りて生きているのか」を時々確認する習慣は、持った方がいいと思っている。

面白いと思ったのは、この「誰に影響を受けているか」という問いは、大人になるほど複雑になっていくことだ。

子どもの頃は、親と学校が主な影響源だった。でも大人になると、職場、友人、SNS、メディアなど、影響源がどんどん増える。

それ自体は豊かなことだと思う。でも影響源が増えるほど、「この考え方はどこから来たのか」を追いかけるのが難しくなる。

ふと気づいたら「自分の考え」と思っていたことが、どこかで聞いた誰かの意見をそのまま持ち続けているだけだった、ということがある。

その意見が正しいか間違いかじゃなくて、「自分はその意見を本当に自分で考えたのか」という問いを持つことが、大事な気がしている。

感受性が高いことと、傷つきやすいことは違う

他人の感情や反応に敏感な人は、しんどい思いをしやすい。

誰かの表情の変化が気になる。場の空気のちょっとした乱れを察知する。言葉の裏側にある感情を読み取ろうとする。

これは能力だと思う。人との関係を丁寧に扱える力だ。

でもこの能力は、使い方によってはかなり消耗する。

相手の感情に引きずられすぎると、自分の感情が分からなくなる。相手が怒っていると自分も萎縮する。相手が悲しんでいると自分も暗くなる。相手のテンションに合わせ続けて、会話が終わったとき、自分が何を感じていたのか思い出せない。

これはたぶん、「感受性が高い」ことと「感情の境界線が薄い」ことが混ざっている状態だ。

感受性が高いのは、相手の状態を細やかに感じ取れること。でも感情の境界線が薄いのは、感じ取ったものを「相手のもの」として扱えずに「自分のもの」として抱え込んでしまうこと。

この区別ができると、少し楽になる。

相手がどんな状態にあるかを察することはできても、それに引きずられる必要はない。相手の感情を受け取りながら、自分の感情は自分で保つ。

それが「感受性を持ちながら自分を守る」ということで、感受性を鈍らせることとは全然違う。

空気を読むことと、空気に読まれることは違う

空気を読む、という言葉は日本語で一般的に肯定的なニュアンスを持つ。

でも「空気を読む」と「空気に読まれる」は、方向性が逆だと思っている。

空気を読む、は能動的だ。自分が周囲の状況を把握して、それを踏まえた上で自分の言動を選ぶ。

空気に読まれる、は受動的だ。周囲の状況を読み取ったとき、自動的にその空気に合わせた言動が出てくる。

後者の状態が続くと、自分の言動が「自分の意思」じゃなくて「場の空気の産物」になっていく。

あの場でこう言ったのは、本当にそう思っていたからじゃなくて、あの場の空気がそれを求めていたから。という経験が積み重なると、「自分の本音はどこにあるのか」が分からなくなる。

空気を読めることは、コミュニケーションを滑らかにする能力だ。でも空気に読まれてばかりいると、自分の輪郭が曖昧になっていく。

あえて空気を読まない場面を作ること。「この場の期待とは違うけど、自分はこう思う」と言ってみること。

それは場を壊すことじゃなくて、自分の輪郭を確認することだと思っている。

自分のことを、どれだけ知っているか

結局のところ、他人の目線で生きることが続くとき、その根本には「自分のことが分かっていない」という問題があるのかもしれない。

自分が何を好きで、何が嫌いで、どういう状況でエネルギーが増えて、どういう状況で消耗するのか。何が怖くて、何に傷つきやすくて、どういうときに本音が出るのか。

こういうことを、言葉にできるかどうか。

自分のことを分かっていないと、判断の基準が外側に頼りがちになる。自分の基準がないから、誰かの基準を借りてくる。

自分のことを分かっていれば、「これは自分に合う」「これは合わない」という判断が、少し早くなる。外側の意見を参考にしながらも、最終的に「自分はどうしたいか」に戻ってこられる。

これは難しいことだと思う。自分のことを深く知るには、自分と向き合う時間が必要で、それはしばしば不快な作業でもある。

都合の悪い自分の部分と向き合ったり、「自分はこうだと思っていた」という像を崩したりしながら、少しずつ自分の輪郭を描いていく。

僕はまだその途中にいる。

「これは本当に自分の意志か、それとも外からの期待か」という問いを、選択のたびに立てられているかというと、全然そんなことはない。

でも少なくとも、「自分が何をしたいのか分からなくなった」と気づいたとき、その問いに戻ってくることはできる。

それで十分な気がしている、今のところは。

他人の反応に合わせて生きること自体は、悪いことじゃない。他者への感受性は、人間が豊かな社会を作ってきた力でもある。

でも「他者の目線で生きること」と「自分を見失うこと」は、違う。

他者を感じながら、自分の輪郭を保つこと。他人のレーダーを回しながら、自分の羅針盤も持っていること。

どちらか一方じゃなく、両方を持てるかどうか。それがたぶん、今の時代の一番難しい問いのひとつだと思っている。

答えはまだない。でも問い続けることはできる。

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