「仕方がない」が本当に仕方がないか疑う~慣れることの怖さ、気づかなくなる前に~

慣れることの怖さ 生き方・考え方

気づいたら、何年も文句を言い続けていた。

職場のある慣習についてだ。

詳しくは書けないけど、誰もが内心「おかしい」と思っているのに、誰も口に出さない。たまに飲み会で愚痴として出てきても、「まあ、うちはそういう会社だから」という言葉で片づけられる。

僕も同じことをしていた。何年も。

ある日ふと、「自分はこれに何年文句を言っているんだろう」と思った。

変えようとしたのか、と自分に問うと、答えに詰まった。

文句は言っていた。でも、変えようとはしていなかった。正確には、「変えようとするほどのことではない」と判断して、従い続けていた。

これはなぜなのか、しばらく考えていた。

慣れることの、静かな恐ろしさ

おかしいと思ったことが、いつの間にか「普通」になっていく。

これは会社の話だけじゃない。日常のあらゆる場面で起きることだと思う。

最初に引っ越したときのこと。部屋の壁が薄くて、隣の音がよく聞こえた。最初の数日は気になって眠れなかった。でも2週間も経つと、音がしても起きないようになった。1ヶ月後には、音がしていることすら気にならなくなっていた。

これ自体は、適応として自然な反応だと思う。人間がいちいち全てのことに反応し続けていたら、消耗する。慣れることは、生きるための機能だ。

でも、慣れることが怖いのは、「慣れてはいけないものにも慣れてしまう」ことだ。

薄い壁の音に慣れるのと、不当な扱いに慣れるのは、脳の処理としては似たような動きをする。どちらも「繰り返されるうちに違和感が薄れ、やがて当たり前として受け入れられる」。

問題は、当たり前として受け入れた後、「これはおかしいのかもしれない」という発想自体が消えていくことだ。

変えようとする前に、「そもそもこれは変えるべきものかどうか」を考えなくなっていく。

毒に少しずつ慣れていくようなものだと思う。急に大量の毒を飲めば誰でも気づく。でも微量を繰り返していると、気づかないまま毒が体に馴染んでいく。

慣れの恐ろしさは、「耐えられる」ことじゃなくて、「耐えていることに気づかなくなる」ことだ。

ある後輩が、入社して2年目のときに「この職場、なんかおかしくないですか?」と言ってきたことがある。

僕はそのとき、「そういうもんだよ」と言った。

でも後から考えると、彼の言っていることは正しかった。おかしかった。ただ、僕がそれに慣れすぎて、感覚が麻痺していた。

新しく入ってきた人の違和感は、慣れた側には見えなくなっているものを指し示していることがある。その視点を「慣れれば平気になるよ」という言葉で潰してしまっていたかもしれない、と後から思った。

「仕方がない」という言葉の射程

「仕方がない」という言葉がある。

これは便利な言葉だ。本当に仕方がないことはある。自分にはコントロールできない天災や、不可避の状況変化。そういうものに「仕方がない」と言えることは、精神的な健康のために必要だと思う。

でも、「仕方がない」の射程は、気づかないうちに広がっていく。

最初は「この状況では仕方がない」だったものが、いつの間にか「そういうものだから仕方がない」になり、最終的には「そういうものだ」という前提に変わる。

疑うという動作自体がなくなる。

「これ、本当に仕方がないのか?」と問い直したとき、実はそうでもなかった、ということが自分の経験でもいくつかあった。

転職することで解決したこと。頼む相手を変えたら解決したこと。一言言っただけで解決したこと。

長い間「仕方がない」と思って抱えていたものが、視点を変えたり、一歩動いたりするだけで変わる場合がある。

全部が変わるわけじゃない。本当に仕方がないこともある。でも、「仕方がない」という判断が、実は「考えることをやめた結果」であることも、けっこう多い気がしている。

一つ、個人的に気になっていることがある。

ある状況が「当然のこと」として長く続くと、その状況に疑問を持つこと自体が、なんとなく「変なこと」として扱われるようになる気がしている。

「なんでそんなことを気にするの?」「みんなそうやってるじゃん」という空気が生まれて、疑問を持つこと自体にコストがかかるようになる。

そういう空気の中で「仕方がない」と言うのは、判断というより、同調の一種かもしれない。

自分が本当に仕方がないと思っているのか、周りがそう言うから仕方がないと思い込んでいるのか。この区別は、意外と難しい。

文句を言いながら支え続けること

冒頭の話に戻る。

職場の慣習に何年も文句を言いながら、何も変えなかった。

これを客観的に見ると、「文句を言いながらその仕組みを支え続けていた」ということになる。

従い続けることは、消極的な賛成だ。口では批判していても、行動として従っている限り、その仕組みを維持することに加担している。

これは厳しい話に聞こえるかもしれない。でも、そこに気づいたとき、なんとなく腑に落ちた感覚があった。

おかしいと思っていた。でも変えようとしなかった。つまり、自分はその「おかしさ」を自分の意思で選び続けていた。

もちろん、変えられない構造はある。一個人が巨大な組織の慣習を一朝一夕で変えることはできない。

でも、「変えられない」と「変えようとしない」は違う。

そして、「従わない」という選択は、戦うことや壊すことと同じじゃない。

ただ、従うことへの合意を撤回すること。それだけで、少し景色が変わる気がした。

燃え上がっている炎を消したいなら、水をかける必要はない。薪を投げ入れるのをやめればいい。燃やすものがなくなれば、炎は自然に小さくなる。

大袈裟な話に聞こえるかもしれないけど、これが日常のスケールで言えば、「その仕組みに自分のエネルギーや同意を与え続けない」という話になる気がしている。

これは「戦わなくていい」という話でもある。

おかしいと思うものに対して、常に戦い続けることが正しい、という前提が僕たちの中にある気がする。黙って従うのが弱さで、戦うことが強さだ、という感覚。

でも、戦うにはコストがかかる。体力も、時間も、精神的なエネルギーも消耗する。そのコストを払い続けられるとは限らない。

「与えることをやめる」という選択は、そのどちらでもない第三の道だ。戦わず、従わず、ただ自分の同意を撤回する。

それは意外と、大きな変化を生む場合がある。

娯楽が時間を埋めるとき、何が起きているか

別の話をする。

一日の終わり、帰宅して動画を見て、SNSをスクロールして、気づいたら2時間経っている。そういう夜が続く時期があった。

悪いことをしているわけじゃない。疲れているから休んでいる。それは正当なことだ。

でも、そういう夜が続いた後、何か大事なことを考えなくなっているという感覚があった。

仕事のこと、将来のこと、自分が本当はどうしたいのか。そういうことを考えるべきタイミングで、代わりに動画を見ていた。

考えることを、娯楽で先送りにしていた。

これは意図的にやっていたわけじゃない。ただ、疲れた状態で何かを考えるのはしんどくて、代わりに何も考えなくて済む刺激を選んでいた。

その結果、「自分は今どうしたいのか」という問いへの答えが、どんどん曖昧になっていった。

考えることをしばらくサボっていると、自分の輪郭がぼやけてくる感覚がある。何が好きで、何が嫌いで、何に向かっていきたいのか。それが分からなくなっていく。

娯楽が悪いと言いたいのではない。休息は必要だ。でも、「疲れた状態で娯楽を摂り続ける」という習慣が長く続くと、考えることへの体力が落ちていく気がしている。

そして考えることへの体力が落ちると、「仕方がない」が増えていく。判断のコストが高くなって、考えなくて済む方向に流れるようになるから。

一つ気になることがある。疲れている状態で娯楽を摂ると、即座に気分は上向きになる。ドーパミンが出る。それは短期的には「回復」のように感じる。

でも、長期的に見ると、思考力を使わない娯楽ばかり続けていると、思考力そのものが錆びていく気がする。

筋肉と同じで、使わないと落ちていく。

そして思考力が落ちると、「どうせ考えても仕方がない」という感覚が強くなる。慣れと娯楽と無気力が、ゆっくりと連鎖していく。

ヒエラルキーの中間にいる人の話

仕事をしていると、ある種の人物に会うことがある。

上からの命令を下に伝える立場の人だ。

本人も「理不尽だな」と思っているのに、それを下に伝えなければいけない。時には、自分が決めたかのように振る舞いながら。

こういう立場の人が、上にも下にも挟まれて消耗しているのを何度か見てきた。

上からは忠実さを求められる。下からは人間扱いされることを求められる。その両方に応えようとすると、どこかで歪みが出る。

結局この立場の人は、上の意向を通すための道具として機能しながら、下からの不満を一手に引き受けることになる。

おいしいポジションのように見えて、実態は「上から怖さ、下から恨み」という二重の苦しみを抱えている、という場合がある。

そしてその人は、自分の言葉で動いているのか、誰かの意向を代わりに実行しているのかが、だんだん区別できなくなっていく。

それが長く続くと、「自分の意見」と「組織の意向」の境目が曖昧になる。自分の考えとして語っているつもりが、実は誰かの意図を内面化しているだけ、という状態になっていく。

これが怖いと思う。

外から見ると「権力を持っている側」に見えても、内実は「権力のために自分を差し出している」状態かもしれない。

そのトレードオフをきちんと計算して、それでも選んでいるなら、それは一つの選択だ。でも、計算もせず、気づかないままその構造の中に組み込まれているとしたら、それは「自分で選んだ」と言えるのか、疑問が残る。

対等であるということ

上下関係のある人間関係と、対等な人間関係では、関わり方がまるで違う。

上下関係の中では、どこかで「気に入られなければ」という意識が働く。言葉を選ぶ。空気を読む。本当に思っていることより、相手が聞きたそうなことを言う。

これが仕事の文脈であれば、ある程度は必要なことかもしれない。でも、それが人間関係の基本パターンになっていくと、「自分が何を本当に思っているのか」が分からなくなっていく。

対等な関係というのは、必ずしも「同じ能力、同じ立場」ではないと思う。得意不得意があっても、立場が違っても、「互いを対等な存在として扱うこと」はできる。

対等に扱われているとき、人は本当のことを言いやすい。変なことを言っても笑われて終わる、という安心感がある。

でも上下関係の中にいると、「本当のこと」より「正解」を探す方向に動きやすい。

そのどちらの関係を中心に人生を組み立てるか、というのは、けっこう大事な選択だと思っている。

上下関係の中で認められることを追い求めているうちに、対等に話せる相手がどんどん少なくなっていった、という話を聞くことがある。

そういう状態は、傍から見るより、当人の方がずっと孤独なんじゃないかと思う。

対等な関係は、努力しないと維持できない。

上下関係は、何もしなくても自然に形成される。権力の差や年齢差や経験差があれば、自動的に上下ができる。でも対等な関係は、意識的に作ろうとしないと生まれにくい。

だから「対等に話せる相手が少ない」という状況は、特別な悪意がなくても起きやすい。

忙しいと、対等な関係を作る時間がなくなる。上下関係だけが積み重なっていく。そして気づいたとき、「本音で話せる人」がどこにもいない、という状態になっている。

これはたぶん、現代の孤独のひとつの形だと思う。人には囲まれているのに、対等に話せる人がいない、という孤独。

支えることをやめるという選択肢

何かがおかしいと思ったとき、選択肢はいくつかある。

戦う、逃げる、改善を訴える。

でも、もう一つある。

「ただ、支えることをやめる」という選択肢だ。

これは受動的に見えて、実は能動的な選択だと思う。

何かに反対するとき、僕たちはすぐ「戦わなければ」と思いがちだ。でも、戦うことには体力が要る。うまくいくとは限らない。

一方で、「与えることをやめる」という選択は、戦わなくていい。

自分のエネルギー、時間、関心、同意。それを、おかしいと思っているものに注ぎ続けないこと。それだけで、何かが少し変わる。

大きな構造は簡単には変わらない。でも、自分が何に時間とエネルギーを使うかは、少しずつ選べる。

冒頭の職場の話で言えば、僕は最終的にその慣習に何かを変えることはできなかった。でも、「それに文句を言いながら従い続ける」という状態を変えることはできた。

従い続けるか、変えようとするか、出ていくか。どれを選ぶかは、状況によって違う。でも、選んでいることへの自覚を持つかどうかは、ずっと自分に委ねられている気がしている。

自分が「なんとなく従っているもの」を棚卸しする

自由というと、なんか大きな話に聞こえる。

でも日常のスケールで考えると、「自由かどうか」というより「どれだけ自分の意思で選んでいるか」という問いに近い気がしている。

慣れによって、疑うことをやめていないか。

「仕方がない」が、本当に仕方がないのか、それとも考えることを止めた結果なのか。

自分が何かを支え続けているとき、それは意識的な選択の結果なのか、それとも習慣として続けているだけなのか。

こういうことを時々問い直すこと。それが、小さいけど大事な話だと思っている。

大きな権力を倒す話じゃない。革命の話でもない。

ただ、自分が「なんとなく従っていること」の中に、本当は従わなくていいものが混じっていないか、ときどき立ち止まって見てみること。

そういう習慣を持てるかどうかが、意外と大きな違いを生む気がしている。

定期的に、「自分が今している選択のうち、本当に選んでいるものと、慣れや惰性でやっているものはどれか」を棚卸しすることを、最近意識的にやっている。

全部が「意識的な選択」である必要はないし、それは無理だと思う。でも、大事な部分については、「なんとなくそうしている」じゃなくて「これはこういう理由でそうしている」と言えた方がいい気がしている。

僕自身は、まだそれがうまくできているとは思っていない。

慣れてしまって気づかなくなっていることは、まだたくさんある。「仕方がない」で片づけているものの中に、本当は仕方がなくないものが混じっているかもしれない。

でも少なくとも、「なんとなく従っている」状態を時々疑う習慣は、持ち続けていたいと思っている。

習慣は変えにくい。でも、「この習慣は本当に自分が選んでいるのか」という問いを持つこと自体は、いつでもできる。

問うことは、変えることと同じじゃない。問うても答えが出ないこともある。問った結果、「やっぱりこれは仕方がない」と判断することもある。

でも、問わないままでいることと、問った上で判断することは、全然違う気がしている。

自分の選択を、自分の選択として意識できること。それが今のところの僕の、自由に対する答えだ。

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