才能があっても報われない夜の話をしようと思う。
ある夜、数年前に自分が経験したことをぼんやり思い出していた。
仕事で担当していたプロジェクトが、突然なくなった日のことだ。
理由は説明されたけど、どれもしっくりこなかった。正確には「説明として成立している」だけで、なぜ自分がその場所に立たされているのかは、最後まで分からなかった。
あのとき僕がやったのは、自分の中に原因を探すことだった。
自分のどこが悪かったか。何をもっとうまくやれたか。どこで判断を間違えたか。
そうやって全部自分に引き寄せていった。
今振り返ると、そこに自分の非はほぼなかったと思う。でも当時は、「理由が分からない」という状態に耐えられなかった。理由があれば、次は変えられる気がするから。
理由が分からない方が、ずっと怖い。
「なぜ」が分からないことへの耐性のなさ
僕が気になっているのは、「理由のない不運」に人間がどれだけ弱いかということだ。
頑張ったのに結果が出なかった。誠実に関わったのに、気がついたら孤立していた。体に気をつけていたのに、体が壊れた。
そういう「なぜ?」が答えを持たないまま降ってくる経験は、誰にでもあると思う。
でも人はそれを、そのまま「理由のない出来事」として受け取れないことが多い。
なぜか、どこかに原因を作りたがる。
自分のせいにするか、誰かのせいにするか、社会のせいにするか。理由があれば「物語」になる。物語になれば、消化できる。
物語のない出来事は、消化できないから怖い。
だから人は、理由がなくても「理由っぽいもの」を作り出す。
特に真面目な人ほど、その矛先が自分に向かいやすい。「自分がもっとうまくやっていれば」「自分の何かが足りなかった」という方向に。
これは一見、自己成長の姿勢に見える。でも実態は、世の中で起きる理不尽を全部自分が引き受けている状態だ。
あのプロジェクトのことで言えば、関係者の話を後から少しずつ聞いていくと、外部要因の方が圧倒的に大きかった。自分がどう動こうが、あの結末には変わらなかっただろうという確信が、じわじわと形成されていった。
でも当時は「自分のせいだ」という解釈の方が、楽だった。
これが怖いと思う。苦しいはずなのに、「自分のせい」の方が楽に感じる場面がある。それは、理由があることの方が、理由がないことより精神的に安定するからなんだと思う。
自己責任という呪縛
「自分のせいだ」と思う方が、不思議と落ち着くことがある。
理由が分かれば、次は変えられる気がするから。自分が原因なら、自分が変われば解決するはずだから。
でも、これが行き過ぎるとかなり歪んでくる。
病気になったり、良くない環境に生まれついたり、いじめられたりしたとき、それを「自分の弱さのせい」「自分のメンタルが足りなかった」という話に変換することは、自己責任論のいちばん残酷な形だと思う。
それでも当時の僕はやっていた。
担当業務がなくなったとき、一番最初に頭に浮かんだのは「自分がもっとうまくやっていれば」だった。それは今思うと、「理由のない出来事」に耐えるための、一種の防衛反応だったのかもしれない。
防衛反応としての「自己責任」。
それ自体は人間として自然な動きなのかもしれない。問題は、その反応が「正しい現実認識」として固定化されてしまうことだ。
ある時点を過ぎると、「あれは自分の責任だった」という解釈が記憶に刻まれて、疑われなくなる。そしてその記憶が、次の失敗のときにも「また自分が悪かったんだ」という反応を速く、強く引き起こす。
これを繰り返していくと、外的な要因がどれほど大きくても、反射的に「自分のせい」に向かうようになる。
人間って、「なぜか分からない不幸」には意外と弱い生き物なのかもしれない。そしてその弱さへの対処が、長期的には自分を消耗させる方向に働くことがある。
「自分」は他者との関係の中にある
もう一つ、別の場面で考えたことがある。
引っ越してきて最初の数ヶ月のことだ。
一人暮らしで、会社と部屋の往復だけで、誰とも話さない日が続いた。
別に何か辛いことがあったわけじゃない。仕事は普通に回っていたし、体調も悪くなかった。
ただ、なんとなく自分がぼんやりしてくる感じがした。
「今日の自分」を誰かに語れないと、今日あったことが夢みたいに感じる。
スマホを開いてSNSを眺めても、誰かの「今日あったこと」は流れてくるのに、自分が発信する言葉はない。それでも画面を眺め続けるのは、「誰かと繋がっている感覚」を擬似的に保ちたいからなのかもしれない。
このとき初めて、「自分」という存在が他者との関係の中にあることを、感覚として理解した気がした。
誰かが話しかけてくれるとき、「自分はここにいる」と感じる。誰かが笑ってくれるとき、「自分の言葉は届いた」と感じる。誰かが「分かる」と言ってくれるとき、「自分の感覚は正しかった」と感じる。
逆にそれが一切ない状態が続くと、自分が本当に存在しているのかどうかが分からなくなってくる。
これは大げさに聞こえるかもしれない。でも感覚として、本当にそうだった。
「自分」というのは、自分の内側だけで完結しているものじゃないのかもしれない。他者に認識されることで、初めて輪郭が描ける。そういうものなんじゃないかと思っている。
孤独の問題は「一人でいること」じゃない
孤独について、よく誤解されていると思うことがある。
一人でいることと、孤独は別だ。
人混みの中にいても孤独なことがあるし、一人で部屋にいても孤独じゃないことがある。
あの頃の僕の孤独は、「誰も自分のことを認識していない状態」に近かった。存在が薄れていく感じ、と言えばいいのか。
面白いのは、そういう状態のときほど「傷つくことへの防衛」が強くなっていくことだ。
誰かと繋がりたい。でも傷つきたくない。だからSNSで誰かの話を眺めるだけで、自分からは何も発信しない。
関わりを避けながら、孤独を深めている。かなり矛盾した状態だ。
でも当時の自分はその矛盾に気づいていなかった。傷つくことへの防衛が、そのまま孤独を強化していた。
この構図は、「プライドが高くて孤独な人」のパターンによく当てはまる気がする。本当は人と繋がりたい。でも傷つくことが怖くて、関わりを避ける。避けるから誰にも理解されない。理解されないから孤独が深まる。孤独が深まるから、さらに防衛が強くなる。
ループだ。
このループから抜け出すには、傷つく可能性を受け入れながら一歩出ていくしかないんだろうけど、それが一番難しい。
あの頃の自分に今から何か言えるとしたら、「傷つくことを怖がりすぎるな」と言いたい。でも同時に、怖がること自体は間違っていない、とも言いたい。
傷つくことへの恐怖は、過去に傷ついた経験から来ている。それは弱さじゃなくて、正直な反応だ。問題は恐怖を否定することじゃなくて、恐怖を持ったまま一歩出られるかどうかだと思う。
それと、孤独なときほど「自分は誰にも理解されない」という確信が強くなっていく。でもそれは、孤独が長く続いた結果の認知の歪みであることが多い。自分に体温があることを誰かに確認してもらえていないだけで、誰も理解しないわけじゃない。
これは今でもたまに思い出すことがある。孤独が長くなると、世界の解像度が下がっていく感じ。「誰も分かってくれない」という確信は、証拠じゃなくて状態かもしれない。
「広く認められること」と「深く分かってもらうこと」
少し話が変わる。
仕事でそこそこうまくいった時期があった。評価が上がって、名前が知られて、「認められた」感覚があった。
でも振り返ると、そのときより前後の、もっとピンポイントな場面の方が「生きていてよかった」と感じていた気がする。
何かに悩んでいたとき、一人の先輩が「それ、分かるわ」と言ってくれた瞬間のこと。会議でうまく言えなかった自分の意図を、後から「あのとき言いたかったのってこういうこと?」と確認してくれた同僚のこと。
規模じゃなくて、深さの話だ。
フォロワーが増えることより、1人に本当に届いた方が、なんか生きてる感がある。
これは感情論で言っているわけじゃない。
人間の承認欲求って、根っこのところは「広く知られたい」じゃなくて「誰かに本当に理解されたい」という欲求なのかもしれない。
でも社会の文脈だと「広く知られること=成功」として扱われがちだから、そっちを求めて走り続けて、本来欲しかったものとは別のものに向かっていくことがある。
僕も長い間、それをやっていたと思う。
評価されたい、認められたい、という気持ちの正体が「誰か一人に本当に分かってほしい」だったのに、それを「もっと多くの人に認められること」で解決しようとしていた。
規模を上げても、満たされないのは当然だった。求めているものが違うから。
これに気づいたのが遅れた分だけ、すれ違いが生まれていたのかもしれない。
「なぜ」が分からないまま生きることについて
あのプロジェクトがなくなった件は、結局「なぜ」のはっきりした答えが出ないまま、時間が経って記憶の中に収まっていった。
理由を探し続けるのを、ある時点でやめた。
正確に言うと、「理由が出てこない」ということへの不快感が、ある日から急に薄れた。なんでそうなったのかは自分でも分からない。ただ気がついたら、「まあ分からないものは分からないな」という感じで、その記憶を扱えるようになっていた。
やめたというより、「理由がない場合もある」ということをそのまま受け取ることができるようになった、という感じに近い。
努力と結果がきれいに比例しないことは、現実には普通にある。才能があることと、それが評価されることは別の話だ。誠実でいることと、報われることも別の話だ。
それを全部「自分の努力が足りなかった」「自分の伝え方が悪かった」という話に変換していくと、どこかで歪みが出る。
かといって「全部社会が悪い」という方向に振り切れるかというと、それはそれで何か違う気がする。
どちらでもなく、「分からない部分がある」という不完全な状態のまま、それでも動き続けることしかできないんじゃないかというのが、今のところの僕の感覚だ。
「分からないまま生きていく」というのは、諦めとは違うと思っている。原因が分からなくても、どう動くかは選べる。全部自分のせいにしなくても、次の一歩は踏み出せる。そこだけは、自分で持っていていいものだと思う。
答えじゃなくて、姿勢の話かもしれない。そしてこの姿勢を保ち続けること自体が、「分からない」に耐える唯一の方法なのかもしれないと、最近は感じている。
完成されていない自分を、それでも見せること
もう一つだけ、書いておきたいことがある。
最近、このブログを書き続ける中で気づいたことがある。
「うまく書けてる感じ」と「本当のことを書けてる感じ」は、明確に違う。
どこかで「上手く見せたい」という意識が出てきたとき、文章が固くなる。きれいに整いすぎて、体温がなくなる。あとで読み返すと「なんか嘘っぽい」ってなる。
たぶん僕にはプライドがある。「こう見られたい」という像があって、そこからはみ出ることが怖い。
だから文章の中でも、自分の弱さや不完全さを入れることをためらう。傷つくことへの防衛と、根っこは同じだ。
でも実際に何かが人に刺さるとき、完成された部分よりも「完成されていない部分」が刺さっていることが多い気がしている。
「この人はこれを本当に感じているんだ」という体温みたいなものが、伝わるかどうかの話だと思う。
うまく書けているかどうかより、本当のことが書けているかどうか。
そっちを選ぶことが、今の僕にできることだ。
それに、もし誰かが僕の文章の「完成されていない部分」を読んで「分かる」と思ってくれたとしたら、それはたぶん僕が求めていた「一人に本当に届く」に近い体験だ。
規模じゃなくて、深さ。広さじゃなくて、体温。
こんなことを考えているとき、結局自分が書き続けている理由はそこにあるのかもしれないと思う。うまくなりたいとか、認められたいというより、「誰かに届いた」という感覚が欲しいのだと思う。
臆病な自尊心を抱えたまま、不完全なまま、それでも何かを書き続けることが、今の僕にできることだと思っている。
そして願わくば、この文章も、誰かたった一人に届いていればいいと思っている。



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