家族に尽くすほど虚しくなるのは、愛情の順番が逆だったからかもしれない
ある夜、ふと気づいたことがあります。
僕は家族のために色々やっているはずなのに、なぜかずっと虚しい。
実家に帰れば親の愚痴を何時間も聞き、頼まれごとがあれば休日を潰して対応し、「ありがとう」の一言もなく「次はこれもお願い」と言われる。それでも「家族だから」と自分に言い聞かせて動き続ける。
でも、夜、一人で布団に入った時に胸に残るのは、達成感でも充実感でもなく、まるで燃えかすみたいな灰色の疲労感だけでした。
「僕の人生って、誰のためにあるんだろう」
その問いが浮かんだ瞬間、ちょっとゾッとしたんです。家族のために生きることが正しいと信じてきたのに、その結果がこの虚しさだとしたら、僕は何かを根本的に間違えていたんじゃないか、と。
底の抜けた桶に水を注ぎ続けていた
振り返ってみると、僕がやっていたことは「底の抜けた桶に水を注ぎ続ける」ようなものだった気がします。
最初は少しの水で喜んでもらえた。「ありがとう」と言ってもらえた。その言葉が嬉しくて、もっともっと水を注いだ。自分の時間を削って、自分のやりたいことを後回しにして、とにかく相手のために動いた。
でも、いつの間にか「ありがとう」は消えました。
桶に水が入っているのが当たり前になり、少しでも水が減ると不満な顔をされる。「もっと早くやってくれない?」と催促される。僕が注いだ水への感謝なんて、とっくに蒸発していました。
それでも僕は注ぎ続けた。なぜか。
正直に言うと、やめるのが怖かったからです。
水を注ぐのをやめたら、この関係が壊れるんじゃないか。「冷たい人間」だと思われるんじゃないか。自分に価値がないと突きつけられるんじゃないか。
その恐怖が、僕を桶の前に縛りつけていました。
でも、ふと自分を見たんです。鏡に映った自分の顔は、疲れ切っていた。目の下にはクマがあり、口角は下がり、かつてあったはずの「何かを楽しむ力」みたいなものが、すっかり干からびていた。
あれ、僕の水、もう残ってないぞ、と。
自分の中の水が枯れかけているのに、他人の桶に水を注ぎ続けている。これはもう献身じゃない。ただの自滅です。
「尽くす」は愛じゃなかった
ここで僕がぶつかったのは、けっこうキツい事実でした。
僕がやっていた「尽くす」という行為は、本当の意味での愛じゃなかったかもしれないということです。
最初は受け入れがたかった。だって、家族のために自分を犠牲にすることは、美しいことだと思っていたから。道徳の教科書にもそう書いてある。自己犠牲こそが愛の証だ、と。
でも、よく考えてみると、僕が家族に尽くしていた動機の中には、純粋な愛情以外のものも混じっていたんです。
「認められたい」「必要とされたい」「感謝されたい」
これ、愛じゃなくて取引ですよね。僕は無意識のうちに、自分の時間やエネルギーを「通貨」にして、家族からの承認や感謝を「購入」しようとしていた。
そして、期待した「対価」が返ってこないと、腹が立つ。「こんなにやってあげたのに」という恩着せがましい気持ちが湧いてくる。
この「やってあげたのに」が出てきた時点で、それは愛じゃなくて貸し付けです。相手を借金漬けにして、恩という鎖で縛りつけようとしている。
……書いていて自分でもキツいですが、正直な気持ちです。
相手の翼を切っていたかもしれない
もう一つ、気づいたことがあります。
僕が家族に尽くしすぎることで、相手の「自分でやる力」を奪っていた可能性があるということです。
たとえば、親が「これやって」と言うたびに僕が全部やっていたら、親は自分でやる必要がなくなる。困ったら息子が何とかしてくれると思えば、自分で解決策を考えなくなる。
これって、鳥のヒナに例えると分かりやすいかもしれません。
ヒナが巣立つためには、親鳥が巣から押し出す必要があるそうです。ヒナは落ちそうになりながら、必死に翼を動かして、初めて飛べるようになる。
でもそこで親鳥が「危ない!」と抱え上げてしまったら、ヒナは永遠に飛べない。翼を使う機会を、愛情という名のハサミで切り取ってしまうことになる。
僕がやっていたのは、まさにこれだったんじゃないかと思うんです。
家族が困難にぶつかるたびに先回りして障害を取り除き、転びそうになったら転ぶ前に支えてしまう。一見すると優しい行為に見えるけど、その結果として相手は「自分の力で立ち上がる」という経験を積めなくなる。
相手の可能性を信じていないから、手を出してしまう。「この人は自分でできる」と信じていたら、見守ることができるはず。
手を離すことは、見捨てることじゃない。相手の力を信じるということなんだ、と。
頭では理解できても、実際にやるのは本当に怖いですけどね。
でも、一つだけ思ったことがあります。もし相手が挑戦に失敗して、傷ついて帰ってきたなら、その時は黙って迎えればいい。温かいご飯でも作って、「お疲れさん」と言えばいい。口出しはしない。「だから言ったのに」なんて絶対に言わない。
相手がまた立ち上がる気力が戻るまで、静かに待つ。そして「君ならできる」と信じ続ける。
それが、僕にできる本当の「支え方」なのかもしれないと、最近は思っています。先回りして障害を取り除くことじゃなくて、相手が自分で障害を乗り越えられると信じること。言葉にすると簡単ですが、これが一番難しい。
自分の畑が荒れ放題だった
ここまで考えてきて、一番ドキッとしたのは、「なぜ僕はそこまで家族に尽くそうとするのか」という問いでした。
表向きは「愛情」「責任感」「家族だから」。
でも、正直に心の奥を覗いてみたら、もう一つの理由が見えてきたんです。
家族の問題に没頭していれば、自分自身の問題から逃げられる。
親の心配をしている間は、自分の将来の不安と向き合わなくて済む。家族のために走り回っている間は、「本当は何がしたいんだろう」という問いを先送りにできる。「家族のためだから仕方がない」という大義名分があれば、自分の人生を自分で切り拓くという一番怖い作業から堂々と逃げていられる。
これに気づいた時、かなりショックでした。
僕は他人の畑ばかり一生懸命耕していた。水をやり、草を抜き、日当たりまで気にして世話をしていた。でもその間、自分の畑はカチカチに乾いて、雑草が生え放題になっていた。
枯れた畑から、豊かな実りは生まれない。
自分が干からびているのに、他人に潤いを与えることなんてできない。順番が逆だったんです。
「やってあげたのに」の正体
家族に尽くすことで生まれる虚しさの原因について、もう一つ気づいたことがあります。
それは、見返りを求める心の存在です。
僕は自分のことを「見返りなんて求めていない」と思っていました。家族のためだから、無償でやっている。そう信じていた。
でも、相手から感謝の言葉がなかった時にイラッとする自分がいる。「こんなにやったのに」と心の中で恨みがましく思う自分がいる。
これ、完全に見返りを期待していますよね。
無意識のうちに、自分の時間やエネルギーを「投資」して、感謝や承認という「リターン」を期待していた。そしてリターンがなかった時に、まるで詐欺に遭ったかのように怒りが湧く。
冷静に考えると、これはかなり厄介な構造です。
愛情のふりをした取引。献身のふりをした貸し付け。相手は頼んでもいないのに勝手にサービスされて、知らないうちに「恩」という借金を背負わされている。そりゃ息苦しくなりますよね。
じゃあ、本当の意味で「見返りを求めない」ってどういうことなんだろう。
たぶん、「やったことを忘れる」ということなんだと思います。右手でしたことを左手に知らせないくらいに、さらっと。相手が感謝しようがしなかろうが、自分の中の満足で完結する。
正直、まだ全然できていません。「やってあげたのに」は、何十年もかけて僕の中に根を張った雑草みたいなもので、引っこ抜いても引っこ抜いても生えてくる。
でも、「あ、また生えてきたな」と気づけるようになっただけでも、以前よりはマシかなと思っています。気づいたら、一つずつ抜いていくしかない。地道な作業ですけどね。
まず自分の水を満たす
じゃあどうすればいいのか。
僕がたどり着いた答えは、シンプルだけど実行するのが難しいものでした。
まず、自分を満たす。
これ、言葉にすると簡単だし、自己啓発っぽく聞こえるかもしれないけど、僕にとってはものすごく抵抗がありました。だって、自分のことを優先するのは「わがまま」だと思い込んでいたから。
でも、試しに小さなことから始めてみたんです。
家族のために使っていた休日の時間のうち、ほんの1時間だけを自分のために使う。昔好きだった本を読む。散歩に行く。ただコーヒーを飲みながらぼーっとする。
最初は罪悪感がすごかったです。こんなことしている場合じゃないんじゃないか、と。
でも、1時間の「自分の時間」を持った後の自分は、明らかに前より余裕がありました。イライラが減った。家族に対して穏やかに接することができた。
当たり前ですよね。カラカラに乾いた状態で人に優しくするのは無理がある。自分の中に水があるから、人にも分けられる。
飛行機の安全説明で「まず自分の酸素マスクをつけてから、お子様のマスクをつけてください」と言いますよね。あれと同じことだと思うんです。自分が倒れたら、誰も助けられない。
境界線は冷たさじゃなかった
もう一つ、僕が練習しているのが「境界線を引く」ということです。
家族の問題と、自分の問題を分ける。相手の人生の責任は相手にあり、僕の人生の責任は僕にある。
これも最初は「冷たい」と感じました。家族の悩みを自分のことのように感じるのが愛情だと思っていたから。
でも、相手の荷物まで全部背負ったら、二人揃って倒れるだけです。
庭に例えると、隣の家の庭と自分の庭の間には、垣根が必要なんだと思います。垣根があるからこそ、お互いの庭を尊重できる。垣根を越えて勝手に相手の庭を耕すのは、親切じゃなくて侵入です。
もちろん、相手が「助けてほしい」と言ってきた時には、垣根の扉を開けて力を貸せばいい。でも、頼まれてもいないのに勝手に相手の庭に入り込んで「ここの草、抜いた方がいいよ」と口出しするのは、やめようと思いました。
実際にこれをやり始めたら、最初は家族から「冷たくなった」と言われました。
正直、キツかったです。でも、しばらくすると、不思議なことが起きました。家族が、少しずつ自分で動くようになったんです。今まで僕に丸投げしていたことを、自分でやるようになった。
たぶん、僕が手を出さなくなったから、自分でやるしかなくなったんでしょうね。そして実際にやってみたら、意外とできた。その「自分でできた」という経験が、少しずつ相手の自信になっていったように見えました。
まだ全然うまくできていない
ここまで書いておいて正直に言うと、僕はまだこの「順番を変える」ことに四苦八苦しています。
気がつくと、また家族の問題を自分の問題にしてしまう。頼まれてもいないのに先回りして手を出してしまう。そして「やってあげたのに」と心の中で恩着せがましく思ってしまう。
長年の癖というのは、そう簡単には抜けないものです。
でも、少なくとも「あ、また底の抜けた桶に水を注いでるな」と気づけるようになっただけ、前よりはマシだと思っています。
完璧にできる日が来るのかは、正直わかりません。
でも、一つだけ確信していることがあります。自分が干からびた状態で誰かを潤すことはできない。まず自分の水を満たすことは、わがままじゃなくて、むしろ必要なことなんだ、と。
家族のために自分を犠牲にすることが愛の証だと、ずっと信じてきました。
でも、本当の愛って、自分が満たされた状態で、その溢れた分を分けることなのかもしれません。
枯れた井戸からは、誰も水を汲めないですから。
……まあ、こんな偉そうなことを書いておきながら、来週の休日もたぶん実家に呼び出されるんですけどね。でも今度は、少なくとも1時間は自分の時間を確保してから行こうと思います。小さな一歩ですが、僕にとっては大きな一歩です。



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