「全部どうでもいい」と思えた夜から、僕の人生は少しだけ軽くなった
ある夜、布団の中でスマホを眺めていたら、急に胸がぎゅっとなった。
別に何か大きなことがあったわけじゃない。上司に少しだけ嫌味を言われた。友達のSNSにキラキラした旅行写真が流れてきた。来月のカード請求がちょっと怖い。それだけのことだ。
それだけのことなのに、なぜか息が浅くなって、天井を見つめたまま動けなくなった。
……こういう夜、ありませんか。
大きな不幸があるわけでもない。でも、漠然とした不安みたいなものが胸の底にずっと溜まっていて、夜になるとそれがじわっと浮き上がってくる。「このままでいいのかな」とか「自分の人生ってなんだろう」とか、答えの出ない問いが頭の中をぐるぐる回る。
僕はその夜、ふと思ったんです。
**「あれ、僕はいったい何にこんなに必死になっているんだろう」**って。
取り越し苦労という名の趣味
振り返ってみると、僕の人生はずっと「取り越し苦労」でできていた気がします。
明日のプレゼンで失敗したらどうしよう。あの人に嫌われたらどうしよう。将来お金がなくなったらどうしよう。40代50代になっても何者にもなれなかったらどうしよう。
もはや趣味と言ってもいいレベルで、まだ起きていないことを想像しては勝手に落ち込むという作業を、毎日欠かさずやっていました。
しかも厄介なことに、この「取り越し苦労タイム」は決まって夜にやってくる。昼間は仕事や雑事でごまかせるのに、布団に入った瞬間、脳みそが急にフル回転しはじめる。お前さっきまで会議中に居眠りしかけてたやろ、と自分にツッコミたくなります。
で、ある時ふと気づいたんですよね。
僕が「どうしよう」と悩んでいたことの大半は、実際には起きなかった。
上司に怒られるかもと思っていた案件は普通に通った。嫌われたと思っていた人は、次の日ケロッとした顔で話しかけてきた。将来のお金の不安に関しては、そもそも3年前にも同じことを心配していたけど、なんだかんだ今も生きている。
つまり僕は、存在しない敵と毎晩シャドーボクシングをしていたわけです。しかも一度も勝ったことがない。だって相手がいないんだから。
他人の目という幻覚
取り越し苦労と同じくらい僕の人生を重くしていたのが、「他人の目」でした。
会議で発言するとき、「変なこと言ってないかな」と気になる。SNSに何か投稿するとき、「痛いと思われないかな」と怖くなる。服を選ぶとき、「ダサいと思われないかな」と迷う。
もう全部、「思われないかな」のオンパレードです。
でもある日、ちょっとした実験をしてみたんです。
1週間前に自分が着ていた服を思い出せるか。
……思い出せない。自分の服すら覚えていないのに、他人が僕の服なんか見ているわけがない。
次に、1週間前に同僚が会議で何を言ったか思い出そうとした。
……全く思い出せない。
そこでようやく実感したんですよね。みんな、自分のことで精一杯なんだって。
他人が僕のことをどう思っているか気にして夜も眠れないとか言っている間、その「他人」は今夜の晩ごはんのメニューのことしか考えていない。たぶん今頃「カレーにしようかな、でも昨日もカレーだったしな」とか悩んでいる。僕の服装のことなんて、脳のメモリの0.001%も使っていない。
これに気づいた時、なんだか笑えてきました。
僕は幻覚と戦っていたんだ、と。他人の頭の中に勝手に「僕を見ている監視カメラ」を設置して、自分で自分を監視していたんです。完全にホラー映画の主人公の発想です。
「正しさ」という名の凶器
もう一つ、僕を長い間苦しめていたのが「正しさ」への執着でした。
こう言うと大げさに聞こえるかもしれないけど、日常レベルの話です。
電車でマナーの悪い人を見るとイライラする。仕事で段取りの悪い人がいると「なんでちゃんとやらないの」と思う。ニュースを見れば政治家にムカつく。
「自分は正しい、あいつは間違っている」
この感覚、気持ちいいんですよね。正義の側に立っている感覚というのは、ある種の快感がある。
でも、ある時気づいたんです。僕が一番イライラしている時間って、「正しいことを考えている時間」だって。
正しさで武装している時、僕の眉間にはものすごいシワが寄っている。肩はガチガチに固まっていて、呼吸は浅くなっている。つまり、正義を振りかざしている僕自身が、一番しんどそうな顔をしている。
冷静に考えたら、電車のマナー違反に怒ったところで相手は何も変わらない。テレビに向かって文句を言っても政治は1ミリも動かない。僕の血圧が上がるだけです。
これって、自分で自分を殴っているようなものじゃないか、と思いました。
「正しさ」は時に人を守る盾になるけど、それを振り回しすぎると、いつの間にか自分自身を切りつける刃物に変わってしまう。そのことに気づいた時、ちょっとだけ肩の力が抜けた気がしました。
「どうでもいい」は投げやりじゃなかった
で、ここからが本題なんですが。
僕がこういう「取り越し苦労」「他人の目」「正しさへの執着」に気づいて、少しずつ楽になっていった過程で、一つのキーワードにたどり着いたんです。
それが、**「どうでもいい」**という言葉でした。
最初は抵抗がありました。「どうでもいい」って、なんか投げやりな感じがするじゃないですか。やる気のない人が言いそうだし、なんなら中学生の反抗期みたいだし。
でも、実際に使ってみたら、ちょっと違ったんです。
たとえば、仕事でミスをした時。以前の僕なら、帰りの電車の中でずっと反省し、家に帰ってからも「あの時ああすれば」と悶々とし、布団の中で3時間くらいは自分を責めていました。
でもある日、試しに「まあ、どうでもいいか」と口に出してみた。
すると不思議なことに、そのミスへの執着がふっと軽くなったんです。ミスはミスとして反省すべきところは反省する。でも、そこに感情の油をドバドバ注いで大炎上させる必要はなかった。
「どうでもいい」は、問題を無視することじゃなかった。問題と感情を分けることだったんです。
問題は淡々と対処すればいい。でも、心までその問題の中にどっぷり浸かる必要はない。
この区別ができるようになってから、日常がだいぶ変わりました。
寝る前のゴミ出し
これは僕が最近やっている習慣なんですが、寝る前に「心のゴミ出し」をしています。
やり方はシンプルで、布団に入ったら、その日にあった嫌なことを一つずつ思い出して、「どうでもいい」と言って手放す。それだけです。
今日、会議で的外れなこと言っちゃったな。……まあ、どうでもいい。死にはしない。
帰り道、コンビニで店員さんにお釣りを落とされた。……どうでもいい。100円だし。
後輩に送ったメール、ちょっと冷たい文面だったかも。……これは明日フォローすればいい。はい、どうでもいい。
こうやって一つずつ手放していくと、心が少しずつ軽くなっていくのを感じるんです。
逆に、これをやらないで寝ると、悩みを抱えたまま眠ることになる。それってたぶん、ゴミ袋を枕にして寝ているようなもので、翌朝の目覚めが最悪になります。実際、僕は以前それをやっていて、朝起きた瞬間から「あー、今日も仕事か……」と暗い気持ちでスタートする日が多かった。
寝る前に心を空っぽにする。明日のことは、明日起きた新しい自分が何とかしてくれる。
そう思えるようになっただけで、朝の気分がだいぶ違います。まあ、寝坊する頻度は変わっていないんですが、それはまた別の問題ですね。
人生は壮大な暇つぶしかもしれない
ある夜、ふとこんなことを考えました。
人生を、もう少し軽く捉えてもいいんじゃないか、と。
僕たちはつい、人生を「正解を見つける試験」みたいに捉えてしまう。いい学校、いい会社、いい結婚、いい老後。全部のステージで正解を出し続けなきゃいけないと思い込んでいる。
でも、宇宙の規模から見たら、僕たちの人生なんて本当に一瞬の出来事です。地球が誕生してから46億年。その中で人間が文明を築いた時間なんて、まばたき一回分にも満たない。
その「まばたき一回」の中で、僕は上司の嫌味に3日間も悩んでいる。宇宙から見たら、たぶん「何やってんだこいつ」と思われているんじゃないでしょうか。
もちろん、これは「だから人生に意味がない」と言いたいわけじゃありません。
むしろ逆で、どうせ一瞬なんだから、もっと楽しんだ方がよくないかという話です。
困難が来たら「面白い展開になってきたな」くらいに思えたら最高だし、失敗したら「いいネタができた」くらいに笑えたら最強です。実際にそう思えるかは別として、そういう方向に心を向けておくだけで、人生の景色はけっこう変わる気がしています。
ゲームだって、敵が一切出てこなかったら退屈じゃないですか。トラブルや困難は、人生というゲームを盛り上げるためのスパイスなんだと思えば、ちょっとだけワクワクしてくる。……まあ、スパイスにしては辛すぎることも多いんですが。
形から入る技術
とはいえ、「どうでもいい」と思える境地にいきなり到達できるかと言えば、正直、難しいです。
僕も最初は全然ダメでした。口では「どうでもいい」と言いながら、心の中では全然どうでもよくない。むしろ「どうでもいいと思えない自分」にイラ立つという、何重にもこじれた状態になったこともあります。
そこで僕がやったのは、形から入るということでした。
朝起きたら、とりあえず鏡の前でニッと笑う。別に面白いことなんて何もない。むしろ寝癖がひどくて笑える顔をしているんですが、とにかく口角を上げる。
嫌なことがあったら、「まあいっか」と声に出す。心の中では全然「まあいっか」じゃないけど、とりあえず言う。
寝る前に、その日あった嫌なことを思い出したら、「どうでもいい」と呟いてから目を閉じる。
最初は完全に嘘でした。茶番もいいところです。
でも、続けていくうちに、少しずつ変わってきたんです。
言葉って不思議なもので、最初は嘘でも言い続けていると、心が少しずつその言葉の方に寄っていく。「どうでもいい」と言い続けているうちに、本当にどうでもよくなってくる瞬間がある。
もちろん、全部が全部どうでもよくなるわけじゃないです。大切なものは大切なまま残る。でも、大切じゃないものに使っていたエネルギーが、少しずつ減っていく感覚はありました。
ハンドルの「遊び」を持つということ
車のハンドルには「遊び」があるじゃないですか。少し動かしてもすぐにはタイヤが反応しない、あの余白。
あれがないと、ちょっとした衝撃でハンドルが暴れて、まともに運転できなくなるそうです。
人生も同じなんじゃないかと思うんです。
真面目な人ほど、ハンドルの遊びがない。すべてのことに全力で反応して、すべてのことに真剣に向き合って、すべてのことに正しい答えを出そうとする。
それ自体は素晴らしいことかもしれない。でも、それを続けていると、どこかでポキッと折れる。
僕自身、ずっとハンドルの遊びがないタイプでした。仕事の小さなミスに何日も落ち込み、友達の何気ない一言を何週間も引きずり、将来の不安で今日という日を楽しめない。
でも「どうでもいい」という言葉は、僕のハンドルに少しだけ遊びを作ってくれました。
すべてに全力で反応しなくていい。すべてに正解を出さなくていい。コントロールできないことは、手放していい。
その分のエネルギーを、自分が本当に大切にしたいことに使えばいい。
まだ練習中です
ここまで偉そうに書いてきましたが、正直に言うと、僕はまだ全然この「どうでもいい」を使いこなせていません。
相変わらず夜中に不安になることもあるし、他人の評価が気になることもある。正しさに固執してイライラすることだって、しょっちゅうあります。
でも、以前との違いが一つだけあるとすれば、「あ、また執着してるな」と気づけるようになったということです。
気づいたからといって、すぐにそれを手放せるわけじゃない。でも、気づけるだけで、少しだけ距離が取れる。「ああ、僕は今、存在しない敵とシャドーボクシングしてるな」と思えるだけで、ちょっとだけ力が抜ける。
たぶん、これは一生かけてやっていく練習なんだと思います。
「どうでもいい」と思える自分と、「どうでもよくない」と叫ぶ自分。その両方を抱えたまま生きていくしかない。
でも、それでいいんじゃないかと、最近は思っています。
完璧に悟る必要はない。完璧に手放す必要もない。ただ、心がギュッとなった時に、「まあ、どうでもいいか」と小さく呟ける自分でいられたら。
それだけで、夜の天井は少しだけ近くなる気がしています。
……いや、天井が近くなったら圧迫感がすごいか。
少しだけ、高く感じる。うん、そっちの方がいいですね。



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