正しさとは何か|復讐と正義に悩んだ僕の結論

正義 生き方・考え方

正しく生きるとは何か|夜中に「正義」について本気で考えてみた話

ある夜、仕事から帰ってきて、コンビニで買った弁当をレンジで温めている間に、ふとスマホを開いた。

タイムラインには、いつものように誰かが誰かを叩いている投稿が流れてきた。

「あいつは間違っている」「正義はこちら側にある」「悪いやつには報いを受けさせるべきだ」

そういう言葉が、すごく力強く、すごく自信に満ちた顔で並んでいた。

僕はそれを見ながら、温まった弁当のフタを開けて、なんとも言えない気持ちになった。

叩いている人たちは、たぶん本気で「自分は正しいことをしている」と思っている。

叩かれている側にも、たぶんその人なりの事情がある。

でも、画面の向こうではもう「正しさ」が武器になっていて、誰かを追い詰めるための道具に変わっていた。

「正しさ」って、なんなんだろう。

べつに今に始まった疑問じゃない。でもその夜は、なぜかいつもよりその問いが重くて、弁当を食べ終わっても頭の中をぐるぐる回り続けた。

部屋の電気を消して布団に入っても、まぶたの裏であのタイムラインが再生される。怒りに満ちた正しさ。確信に満ちた攻撃。そしてそれを見て何もできずにモヤモヤしている自分。

で、気がついたら夜中の2時まで天井を見つめながら考え込んでいた。

会社員がそれやると翌朝だいぶキツいんですけどね。でも、考えずにはいられなかった。

今日はそのときに考えたことを、なるべくそのまま書いてみようと思います。

「やり返す」ことは正しいのか

僕は昔、人間関係でけっこう痛い目にあったことがある。

詳しくは書かないけど、信頼していた人に裏切られたような経験だった。

そのとき、僕の中にはものすごい怒りがあった。

「あいつにも同じ思いをさせてやりたい」

本気でそう思っていた。夜中に何度もその場面を頭の中で再生して、次はこう言い返してやろうとか、どうすればあいつが困るかとか、そんなことばかり考えていた。

正直に言うと、復讐の計画を考えている時間は、ちょっと気持ちよかった。

「やられたら、やり返す」。

これって世の中的にはけっこう「正しい」とされているじゃないですか。「目には目を」みたいな考え方は、たぶん人類の歴史と同じくらい古い。

でも、ある日ふと気づいたんです。

復讐のことを考えている間、僕自身が全然幸せじゃなかったということに。

むしろ、怒りに支配されている時間がどんどん長くなって、仕事中もぼんやりするし、好きだった音楽を聴いても何も感じなくなっていた。

相手を傷つけたいと思えば思うほど、先に壊れていったのは自分のほうだった

これはけっこう衝撃的な気づきでした。

「やり返す」という行為は、相手を罰しているように見えて、実は自分の心を削っている。

報復って、甘い味がするんです。最初だけ。

でもそのあと、ずっと後味が悪い。胸のあたりがずっとざわざわして、落ち着かなくなる。

あの時の僕は、相手に復讐したかったんじゃなくて、自分の中の怒りをどうにかしたかっただけなのかもしれない。

でも、その手段として「相手を傷つけること」を選んだ時点で、僕は自分自身をもっと深く傷つけていたんだと思います。

……まあ、それに気づいたからといって、怒りがすっと消えたわけでもないんですけどね。人間、そんな簡単にはできていない。

結局、僕がその怒りから少しずつ離れられたのは、何か劇的なきっかけがあったわけじゃなくて、ただ時間が経ったからだった。

ある朝、いつものように通勤電車に揺られていたら、ふとその人のことを考えていない自分に気づいた。

「あれ、昨日一回も思い出さなかったかも」

怒りって、ずっと握りしめていると手が疲れるんですよね。いつの間にか指の力が抜けて、気づいたら落としていた。そんな感覚だった。

ただ、あの数ヶ月間、怒りに支配されていた時間はもう戻ってこない。あの時間を別のことに使えていたら、もう少し違う自分になっていたかもしれない。

復讐を考えている間に本当に損をしていたのは、相手じゃなくて僕自身だった。これだけは確かだと思っています。

「正しい人」ほど怖いという矛盾

もう一つ、ずっと引っかかっていることがある。

SNSでもリアルでも、「自分は正しい」と確信している人って、なんだか怖くないですか。

僕だけですかね。

たとえば、誰かが間違ったことをしたとき、「それは間違いだ」と指摘すること自体は別におかしくない。

でも、その指摘が「正義」の顔をしてエスカレートしていく瞬間がある。

正しさを武器にして、相手を徹底的に追い詰める。間違えた人間を「悪」として排除する。そのとき、正しい側にいる人たちの目が、なんというか、ちょっとギラギラしている

あの目を見ると、僕はいつも思うんです。

「正しさ」って、使い方を間違えると凶器になるんじゃないかって。

正義感が強い人って、世の中にはたくさんいる。それ自体は素晴らしいことだと思う。

でも「自分は正しい側にいる」という確信は、ときどき人を残酷にする。

正しいと思っている分だけ、相手への攻撃に罪悪感を持たなくなるから。

僕自身、以前ネット上である人の発言に腹が立って、けっこうキツい言葉をリプライで返したことがある。

そのときの僕は完全に「正しい側」のつもりだった。

でも、あとから自分の書いた文章を読み返して、ゾッとした。

そこには「正しさ」はあったかもしれない。でも、優しさは一ミリもなかった

正しければ何をしてもいいのか。正しければ人を踏みつけてもいいのか。

その問いに対して、僕はまだ明確な答えを持っていません。

ただ、「正しいことを言っている自分」に酔っている瞬間が一番危ないということだけは、あの経験から学んだ気がしています。

急にどうした?って感じですよね。コンビニ弁当から始まった話がこんなところまで来てしまった。でも夜中のテンションってこういうものなので、もう少しだけ付き合ってもらえると嬉しいです。

心の中の「内戦」という感覚

僕は、自分の中で矛盾する声が戦っているのを感じることがよくあります。

たとえば、朝、駅で目の前のおばあちゃんが重そうな荷物を持っていた。

「助けたほうがいいな」と思う自分がいる。

同時に、「でも電車の時間がギリギリだし」と思う自分もいる。

結局、その日は素通りしてしまった。

で、電車に間に合ったのに、座席に座ったあとからずっとモヤモヤしていた。

「あの時、声をかけていれば」

このモヤモヤ、みなさんも経験ありませんか。

やるべきだと分かっていたことをやらなかった時の、あの胸の奥の不快感。

僕はこれを勝手に「心の中の内戦」と呼んでいます。

「こうすべきだ」という声と、「でも面倒だ」「でもリスクがある」「でも今じゃなくていい」という声が、心の中でずっと言い合いをしている。

で、面倒くさいほうに従ったあと、必ず「やるべきだったほう」の声が後から追いかけてくる。

これ、逆パターンもあるんですよね。

たとえば、会社で同僚の手柄を横取りできそうな場面があった。バレなさそうだし、自分の評価も上がりそうだった。

一瞬、**「いけるんじゃない?」**と思った自分がいた。

結局やらなかったんですけど、その「一瞬いけると思った自分」が怖かった。

ずるいことをしなかったのは、立派だったからじゃない。たぶん、バレた時のことが怖かっただけかもしれない。

それって「正しい」と言えるのか。動機が不純なのに結果だけ見れば善人。

……うーん、自分で書いていて嫌になってきた。でも、嘘をつくよりはましだと思って、正直に書きます。

この「心の内戦」は、たぶん僕だけじゃなくて、みんなの中で毎日起きているものだと思うんです。

ただ、ほとんどの場合、忙しさに紛れて気づかないだけで。

朝起きてから夜眠るまで、仕事や予定やスマホの通知に追われていると、自分の心の中で何が起きているかなんて、いちいち確認している暇がない。

でも、たまに夜中に静かになった部屋で、一人でぼんやりしている時に、その日一日の「小さな選択」がふっと浮かんでくることがある。

あのとき、もうちょっと優しくできたんじゃないか。あの場面で、本当はこうしたかったんじゃないか。

そういう声が、静けさの中で小さく聞こえてくる。

そして、小さな選択のたびに、自分の心がほんの少しずつ変わっていく

良い方向にも、悪い方向にも。

一つ一つは大したことのない選択に見える。でも、それが積み重なると、気がついたときには「自分が何者であるか」が決まっている。

なんかこれ、筋トレに似ている気がするんですよ。

一回の腕立て伏せでは何も変わらない。でも、毎日やっていれば体が変わる。サボり続ければ、いつの間にか階段で息切れする体になっている。

心も同じなんじゃないかと、夜中に一人で思ったりするわけです。

「力のある人が正しい」という空気について

もう一つ、最近ずっと感じている違和感がある。

世の中って、なんだかんだ言って**「成功した人の言うことが正しい」**みたいな空気がありませんか。

お金を持っている人、フォロワーが多い人、権力のある人。

そういう人たちの発言は、内容に関係なく「正しい」っぽく聞こえてしまう。

逆に、何も持っていない人がまったく同じことを言っても、誰も見向きもしない。

これって冷静に考えると、けっこう怖いことだと思うんです。

「何を言っているか」じゃなくて「誰が言っているか」で正しさが決まる世界。それって要するに、力のある人間がルールを決めて、力のない人間はそれに従うだけ、っていう構図じゃないですか。

会社でもそういう場面を見かける。上司が言えば通る企画が、部下が言ったときにはスルーされる。内容は同じなのに。

「まあ、社会ってそういうもんだよ」と言ってしまえばそれまでだけど、僕はなんだかそれに納得しきれない自分がいる。

僕も正直、そういう空気に流されそうになることがある。

「あの人は成功しているんだから、きっと考え方も正しいんだろう」と。

でも、ふと立ち止まって考えるんです。

成功しているからといって、その人の心が健やかだとは限らない。

お金がたくさんあっても、夜中に眠れない人はいる。権力を持っていても、誰にも心を開けない人はいる。

僕の知り合いに、仕事でかなりの地位にいる人がいるんですけど、その人がぽろっとこぼした言葉が忘れられない。

「最近、自分が何をしたくて生きているのか分からなくなった」

その人は端から見れば「勝ち組」だった。でも、心の中は全然穏やかじゃなかった。

逆に、僕の祖父は特別な肩書きも財産もない人だったけど、晩年はすごく穏やかだった。

「大したことはしてこなかったけど、人をだましたり、ひどい目にあわせたりはしなかったな」

そう言って笑っていた祖父の顔が、今でもときどき思い出される。

あの穏やかさは、何かを手に入れたから得られたものじゃなくて、何かを「しなかった」ことで守られたものだったんじゃないかと、今になって思う。

成功とか、正しさとか、そういうものの基準って、外側から見えるものだけじゃ測れないんじゃないか。

……と言いつつ、僕だってSNSでいいねの数を気にしてしまうわけですが。人間、矛盾してなんぼですよね。

「自分の中を整える」ということ

ここまで書いてきて、僕が夜中に考えていたことの核心に少しだけ近づいてきた気がします。

正しさって、たぶん外側のルールや法律だけの話じゃない。

もちろん法律は大事だし、社会のルールは守るべきだと思う。

でも、本当に大事な「正しさ」って、もっと内側にあるものなんじゃないかと。

お金の話で言えば、僕は以前「お金さえあれば心が安定する」と本気で思っていた時期がある。

貯金が少ないと不安になるし、給料日前はいつもピリピリしていた。「もっと稼げたら、もっと穏やかに生きられるはずだ」と。

でも、実際に少し収入が増えた時期があって、確かに生活は楽になったんだけど、心の中のざわつきは全然消えなかった。

むしろ、「もっと」「もっと」という声が大きくなっただけだった。

お金は不安を和らげてくれるけど、心の根っこにある不安は、お金だけでは埋まらない

これも、自分で経験してみないと分からないことだった。

たとえば、心の中にいろんな声がある。

欲望の声、怒りの声、臆病な声、優しくしたいという声、面倒くさいという声。

それらが全部好き勝手に叫んでいる状態って、けっこう苦しいんですよね。

「あれも欲しい」「あいつが許せない」「でも本当はこうしたい」「でもそれは損する」。

この状態を僕は勝手に「心がバラバラになっている」と呼んでいます。

で、逆に、自分の中のいろんな声が、なんとなく同じ方向を向いている時がたまにある。

損得とか、見栄とか、恐怖とかを一旦脇に置いて、「自分が本当にこうありたい」と思える方向に素直に動けた時。

そういう時って、不思議と心が静かなんです。

結果がうまくいくかどうかは分からない。でも、「自分の中に嘘がない」という感覚がある。

あの感覚を、僕は仮に「心が整っている状態」と呼んでみたい。

正しく生きるって、もしかしたら大きなことを成し遂げることじゃなくて、日々の小さな場面で、自分の心をなるべく整えておくことなのかもしれない。

朝、駅でおばあちゃんの荷物を持つかどうか。

同僚の手柄を横取りしないかどうか。

怒りのままにキツい言葉を投げつけないかどうか。

一つ一つは本当に小さい。でも、その小さな選択を積み重ねた先に、自分が眠りにつく前に**「まあ、今日はそんなに悪くなかったかな」**と思えるかどうかが変わってくる。

祖父はたぶん、その積み重ねをしてきた人だったんだと思う。

大げさな正義を振りかざしたわけでもなく、世の中を変えたわけでもなく。

ただ、自分の中を荒らさないように、静かに生きてきた。

それだけのことが、最後にはあの穏やかな笑顔につながっていたんじゃないか。

年を取ることを、世の中では「衰え」とか「老い」として語ることが多い。

でも祖父を見ていると、年を取ることは必ずしも悪いことじゃないのかもしれないと思った。

若い頃に持っていた欲望や見栄や焦り。そういうものが少しずつ薄れていって、代わりに残るのは、自分がどう生きてきたかという記憶だけ。

その記憶が穏やかなものであれば、年を取ることは「静かな自由」になれるのかもしれない。

逆に、人を騙したり、ずるいことをして積み上げてきた記憶は、年を取るほどに重くなるんじゃないかと思う。夜中にふと目が覚めた時、その記憶が追いかけてくる。言い訳が効かなくなる。

僕はまだ若いほうだけど、いつか年を取ったとき、眠りにつく前に自分と静かに向き合える自分でいたいと思う。

それが贅沢な望みなのか、それとも当たり前のことなのかは、よく分からないけど。

それでも、分からないまま

ここまで偉そうにいろいろ書いてきたけど、正直に言います。

僕自身は、全然「心が整っている」人間じゃないです。

相変わらず夜中にSNSを見てはイライラするし、仕事で理不尽なことがあれば心の中で悪態をつくし、コンビニのレジが遅いとちょっと舌打ちしそうになる。

めちゃくちゃ小さい人間です。

でも、だからこそ思うんです。

正しく生きるって、「正しい人間になる」ことじゃないんだろうなと。

完璧に正しい人間なんて、たぶんこの世のどこにもいない。

大事なのは、正しくなることじゃなくて、正しくあろうとし続けることなのかもしれない。

今日、ちょっとだけ誠実に生きてみる。

明日もできたら、もうちょっとだけ。

それくらいのペースでいいんじゃないかと、僕は勝手に思っています。

で、それが合っているのかどうかすら、実は分からない。

これが正解だなんて言い切れる自信は、僕には全然ない。

もしかしたら、力の強いやつが勝つのが現実の「正しさ」なのかもしれないし、きれいごとを言っても結局損するのは正直者のほうなのかもしれない。

それでも。

夜中に天井を見つめながら、「自分はどう生きたいんだろう」と考えるこの時間だけは、嘘をつきたくない。

答えは出ていません。

たぶん、明日も出ない。

でも、分からないまま、それでも考え続けること

それ自体が、もしかしたら僕にとっての「正しく生きる」ということなのかもしれない。

……なんて、コンビニ弁当を食べながら考えていた夜の話でした。

明日も僕は、心の中で小さな内戦を繰り返しながら、なんとか生きていくんだと思います。

それが正しいかどうかは、分からないまま。

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