六百年間、誰にも読まれなかった本のことを夜中に考えていた
ある夜、「読めない本」という言葉にやられた話
ある夜、ベッドの中でスマホをいじっていたときのことです。 寝る直前のよくない習慣なのは分かっているんですが、どうしてもやめられない。 皆さんもそうじゃないでしょうか。 「寝ます」と思ってから実際に目を閉じるまでの時間が、年々長くなっている気がします。
そんな夜に、ふと目に入った言葉がありました。 「誰にも読めない本」。
最初、意味が分かりませんでした。 本というのは「読むため」に書かれるものじゃないですか。 誰にも読めない本って、それはもう、本の定義として破綻しているような気がします。 僕はそう思いながらも、なんとなくその言葉から目が離せなくなって、気がつけば記事を開いていました。
そこで出会ったのが、ヴォイニッチ手稿という本の存在でした。
今日はそんな、深夜に「読めない本」という矛盾した存在について調べ始めて、気づいたら空が白んでいた会社員の、勝手な考察を書いていこうと思います。 僕は暗号学者でも言語学者でも歴史家でもありません。 ただの、夜中に変な好奇心を持て余した人間の独り言だと思って、読んでください。
六百年前から、誰にも読まれていないという事実
ヴォイニッチ手稿というのは、約六百年前に書かれたとされる、約二百四十ページの本だそうです。 科学的な年代測定によれば、一四〇四年から一四三八年の間に作られたものと確定しているらしいんです。
何がすごいかと言うと、この本は六百年間、ただの一人にも読まれていないということなんです。 いや、正確には「誰もその内容を理解できていない」ということです。 眺めた人はたくさんいます。 でも、そこに何が書かれているのかを読み取った人は、一人もいない。
この事実を知ったとき、僕はベッドの中で「それってもう本なのか?」と小さく呟きました。 本として生まれて、本としての役目を一度も果たさないまま、六百年間存在だけし続けている。 これはもう、本というより沈黙の塊と言った方が近いような気がします。
誰かが必死で書いたはずなんです。 二百四十ページ分のテキストと、手書きのイラストを、ページごとに丁寧に配置して、用紙には当時としては高級な羊皮紙まで使っている。 この労力をかけたということは、書いた人にとって「誰かに読まれること」が前提だったはずです。
それなのに、誰にも読まれなかった。
僕はこの事実に、少しだけ悲しくなりました。 だって、自分が必死で書いたレポートを、誰にも開いてもらえなかった経験、あるじゃないですか。 それが六百年続いていると想像すると、もう胸の奥がざわざわしてきます。
チューリングでも、NSAでも、解けなかった本
もっと怖いのは、この本を解読しようと挑んだメンバーの顔ぶれです。
まず、第二次世界大戦でナチスドイツのエニグマ暗号を解読した、あのアラン・チューリング。 歴史上最強クラスの暗号解読者とされている人物です。 映画にもなったので、名前だけは僕も知っていました。
そして、アメリカ国家安全保障局(NSA)の暗号専門家チーム。 国家レベルで世界中の通信を解読している、現代暗号学の最前線にいる人たちです。
そのほかにも、世界中の言語学者、数学者、歴史学者たちが、百年以上にわたってこの本に挑み、全員が敗北した、と書いてありました。
この事実を読んだとき、僕は思わずスマホを持つ手に力が入りました。
たとえば、普通の難問だったら「天才が集まれば解ける」という感覚が僕らにはあります。 でも、ヴォイニッチ手稿はそのルールを無視してくるんです。 人類の中で最も頭のいい部類の人たちが百年以上、あらゆる手法を試しても、一行も意味を取れない。 これはもう「難しい」を通り越して、**「そもそも解けるようにできていない可能性がある」**という話です。
僕はここで、自分の無力さをちょっと痛感しました。 会社で「このエクセルのマクロが動かないんですが」と言われて、どうにかこうにか解決して得意になっている僕と、この本の前で膝をつくチューリング。 スケールが違いすぎて、比較するのも失礼なんですが、逆に言えばどんな天才でも敵わない対象が、この世にはあるという事実を、僕は素直に受け入れるしかありませんでした。
裸の女性が大量に描かれている、という謎
内容の話をしましょう。
ヴォイニッチ手稿はいくつかのセクションに分かれているそうで、その中には植物のページ、天文学っぽいページ、人体に関係しそうなページ、地図のようなページなどがあります。 ここまで聞くと「じゃあ百科事典みたいなもの?」と思いますよね。 僕もそう思いました。
ところが、この本、裸の女性が大量に描かれているそうなんです。
しかも、複雑なパイプのようなシステムの中に女性たちが入っていたり、液体に浸かっていたり、なんとも不穏な構図のページが延々と続いているらしい。 僕はこのくだりを読んだとき、思わず目を二度こすりました。
何なんですか、この本。 中世の医学書? 婦人科の教科書? それとも錬金術の装置の説明? あるいは当時の公衆浴場の図解? 諸説が並んでいるんですが、どれも決め手がなくて、全部「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」で終わっています。
僕はここでちょっと冷静になろうとしました。 だって、六百年前の本です。 当時の常識と今の常識は違うし、当時の医療や宗教の概念は、今の僕らが想像もできない形をしていたかもしれない。 だから今の感覚で「変な絵」と言い切ってしまうのは、少し乱暴です。
でも、それを差し引いても、妙に読者を不安にさせる本ではあるんです。 植物ページの植物は、現実のどんな植物とも一致しない架空の植物ばかり。 星座を表しているらしい円形の図の中には、やっぱり裸の女性が並んでいる。 地図のようなページは、どの地域とも一致しない。
全てのページが、「何か意味がありそうに見えるけど、何を意味しているのか絶対に分からない」というギリギリのラインで描かれているんです。 これ、もし狙ってやっているんだとしたら、作者は人類を六百年間からかい続けているということになります。
もし僕が書いた側だったら、という想像
ここで僕はちょっとした想像をしてみました。
もし僕がヴォイニッチ手稿の作者だったとしたら、どんな気持ちでこの本を作っていたんだろうと。
一つ目の可能性は、本当に何か重要なことが書かれていて、それを特定の誰かに伝えるために暗号化したというパターンです。 たとえば、当時の宗教的タブーに触れる医療の知識とか、発覚したら火あぶりになりかねない錬金術の秘密とか、そういうものを「読める人には読めるけれど、普通の人には読めない」形に加工した。 この解釈は、一番ロマンがあって、一番「真面目な本」として扱える解釈です。
二つ目の可能性は、精神的に普通ではない状態の人が、本人にしか分からない論理で書き綴ったというパターンです。 これは悲しい解釈ですが、可能性としては決して低くないと思います。 言語としての規則性はあるのに、どの既知の言語とも一致しないというのは、もしかしたら誰か一人の頭の中にしかなかった言語なのかもしれない。
三つ目の可能性は、最初から誰も読めないように作られた偽物という、身も蓋もない解釈です。 当時のヨーロッパでは、珍しい本を持っていることがステータスだったので、金持ちに高く売るために「ありがたい感じの本」をでっちあげた可能性もあるそうなんです。
この三つのうち、どれが本当なのかは、今もって誰にも分かっていません。
僕は夜中にこの三つの可能性を順番に考えながら、少しずつ自分の気持ちがどこに落ち着くのかを探していました。 そして気づいたんです。 どれであってもいいな、と。
もし本当に重大な秘密が書かれていたなら、それが六百年守られてきたということに意味がある。 もし誰かの内面世界の記録だったなら、その人の孤独が六百年残り続けたということに意味がある。 もし偽物だったとしても、その偽物が六百年間、人類の一部を真剣に悩ませ続けたということに、逆説的な意味がある。
どんな正体だったとしても、この本は存在するだけで何かを成し遂げているんです。
ブリストル大学が解読発表を撤回した事件で、僕がしんみりした理由
調べていると、二〇一九年にある事件があったと書かれていました。
イギリスのブリストル大学の研究者が、わずか二週間でヴォイニッチ手稿を解読したと発表したらしいんです。 大学が公式プレスリリースまで出して、メディアは大々的に報じた。 でも、専門家たちは即座に反論を開始し、結局大学はプレスリリースを撤回することになったそうなんです。
この話を読んだとき、僕は不思議な気持ちになりました。
第一に思ったのは、「解読したと言いたくなる気持ちは、分かるな」ということです。 僕も仕事で小さな成果を出したとき、「これで評価されるぞ」とつい先走って周りに言いふらしてしまうことがあります。 後から細部の詰めが甘いと指摘されて、冷や汗をかくパターンも、何度も経験しています。
六百年誰も解けなかったものを二週間で解いたと言えれば、人生が変わります。 名誉も、ポジションも、資金も、全部手に入る。 その誘惑に耐えきれず、勇み足になってしまうのは、人間としてある意味で自然な反応だと思うんです。
第二に思ったのは、「この本は、それだけ人を狂わせる何かを持っている」ということです。
冷静な研究者たちが、ヴォイニッチ手稿の前では急に冷静さを失う。 それは偶然ではなくて、この本の持つ磁力のようなものなんじゃないかと思いました。 答えが出ないもの、手の届かないもの、誰にも届かなかったものには、不思議な引力があります。 その引力に、人類は六百年間引きずり回され続けている。
そう思うと、撤回事件も単なる学術的失敗ではなく、この本の歴史の一章として記憶されるべき出来事のような気がしてきました。
架空の植物という、さらに奇妙なディテール
ここで、僕がもう一つ強く印象に残った話を書いておきます。 それは、植物のページに描かれている約百十三種類の植物が、すべて現実の植物と一致しないという事実です。
最初これを読んだとき、「絵が下手だっただけじゃないの?」と思いました。 でも、本の他のページの絵は、線も構図も非常に丁寧で、明らかにプロフェッショナルな筆致です。 そういう人が、植物の絵だけ下手にデフォルメすることは、普通はありません。
植物学者たちが真剣に検討しても、どの植物もフランケンシュタイン的な構造をしているそうなんです。 ヒマワリのような花に、サボテンのような茎。 あるいは根の形が、地球上のどの植物とも一致しない。
僕はこの話を読んだとき、妙にリアルなことを想像してしまいました。 もしかして作者は、**「誰かに解読されたときに、それが嘘であることがバレるのを防ぐために、あえて実在しない植物を描いた」**のではないか、と。
つまり、もし実在する植物を描いていたら、その植物に対応する名前や属性が現代の言語から逆算できてしまい、そこを手がかりに文章の一部が解読されてしまうかもしれない。 それを封じるために、現実には存在しないハイブリッド植物を意図的に作り上げた。 そう考えると、作者の周到さがちょっと恐ろしくなります。
もちろんこれは僕の勝手な妄想です。 でも、この可能性を考え始めると、作者は最初から「解読されないこと」を目的として本を作っていたのではないか、という気がしてきます。 だとしたら、この六百年間の天才たちの努力は、作者の手のひらの上で踊っていただけ、ということになる。
そこまで徹底して誰にも読まれないようにした本を、誰かが必死で二百四十ページ分書き続けた。 この矛盾に、僕はぞくっとしました。 読まれないために書くという、普通の本が絶対に持たない性質を、この本は抱えているかもしれないんです。
会議室で詰められている自分と重ねてしまった瞬間
夜中にこの本のことをずっと考えていたら、なぜか仕事のことを思い出してしまいました。
僕は会社で、自分の書いた資料を会議室でホワイトボードに映して、偉い人たちに見せる機会が時々あります。 そのとき、僕が伝えたいことと、偉い人たちが読み取る内容が、まったく一致しないことが少なくありません。 同じ日本語で書いているのに、僕が意図した意味と、相手の頭の中で再構築された意味がずれる。
会議後、「つまり君の言いたかったのはこういうことだね」と言われて、僕は内心「いや、全然違う」と思いながら「はい、その通りです」と答えるあの瞬間。 あれも一種の読解の失敗です。 しかも、僕らは同じ時代、同じ国、同じ会社に所属している、前提を共有しまくっているはずの人間同士です。 それでも通じない。
だったら、六百年前の誰かが書いた本を、生まれた時代も土地も言語も違う僕らが完璧に解読しようとすること自体が、ちょっと無理な話なのかもしれません。
もしかしたら、ヴォイニッチ手稿の解読が永遠に成功しないのは、暗号が難しいからではなくて、人間同士はそもそも完全には理解し合えないという普遍的な壁が、このスケールで見えているだけなのかもしれない。 そう思ったとき、なんだかすごく腑に落ちました。
僕が会議で上司に詰められている現場も、チューリングがヴォイニッチ手稿に敗北した現場も、本質的には同じ場所で起きていることなのかもしれません。 規模は全然違うけれど、**「書いた人の意図を完全には取り戻せない」**という構造だけは、見事に一致している。
こう思うと、僕が毎日会社で味わっている読解のすれ違いも、人類の壮大な歴史の一部のような気がしてきて、ちょっとだけ気持ちが楽になりました。 現実逃避と言われればその通りですが、深夜の現実逃避は、時々驚くほど効くんです。
解けない方がいい、と思っているもう一人の僕
ここまで書いてきて、僕の中にずっとくすぶっている感情があります。
それは、「できれば解読されないでほしい」という、ちょっとねじれた気持ちです。
僕は基本的に、分からないものは分かった方がいいと思っている側の人間です。 謎は解かれた方がいいし、隠されたものは明らかになった方がいい。 そう信じてきました。
でも、ヴォイニッチ手稿に関しては、なぜか違う感情が湧いてきたんです。
もし明日、誰かがAIを使ってこの本を完全に解読して、「中身は中世の薬草の処方箋でした」という結論が出たとします。 それはそれで素晴らしい成果で、科学の勝利です。 でも、そのニュースを聞いた瞬間に、この本が六百年間持っていた特別な空気が、一気に消えてしまう気がするんです。
解けない謎があるということ。 人類の中の最も賢い人たちが束になっても敵わない何かがあるということ。 それは絶望ではなくて、むしろ救いのように思える瞬間が、僕にはあります。
なぜなら、もし世界のすべての謎が解けてしまったら、夜中にスマホを握りしめて「何だろう、これ」とぞくぞくする時間が、この世から消えてしまうからです。 全部分かってしまった世界というのは、想像しただけでちょっと退屈なんです。
僕らはたぶん、答えを求めながら、同時に「完全な答え」を恐れています。 分からないことを残しておいてくれる存在には、それだけで独特の価値がある。 ヴォイニッチ手稿は、そういう意味で、人類の夜更かし友達みたいな存在なのかもしれません。
AIが挑戦しているという、もうひとつの時代の変わり目
最新の話で気になったのは、AIがこの本に挑戦している、という部分でした。
カナダのアルバータ大学の研究チームが、AIを使ってヴォイニッチ手稿を分析したところ、ヘブライ語の一種である可能性が高いという結果が出たそうなんです。 しかも、いくつかの単語は実際に意味のある言葉として解読できたと。 ただ、これも専門家からは「決定的ではない」という評価にとどまっていて、完全解読には至っていません。
この話を読みながら、僕は別のことを考えていました。
六百年の間、人類はこの本を「自分たちの頭」で解こうとしてきました。 でも今、人間以外の何かが、この本に向き合おうとしている。 人間が作ったものを、人間以外の何かが解読する。 この構図は、それだけでちょっと映画的じゃないですか。
しかも、もしAIがこの本を解読できたとしたら、それは人類の勝利なのか、それとも人類が六百年間見てきたロマンに対する裏切りなのか、正直判断がつきません。 便利で偉大な成果であると同時に、どこか寂しい出来事でもある気がしています。
僕はAIが嫌いなわけではないんです。 仕事で使ってお世話にもなっています。 ただ、人間が長いこと抱えてきた「分からないもの」が、急に数ヶ月で「分かるもの」に変わっていく時代の変化の速さに、少しだけついていけない気持ちがあるんです。
分からないまま、今夜も僕はあの本のページをめくっている
結局、僕はヴォイニッチ手稿について、何一つ答えを持てていません。 誰が書いたのか、何のために書かれたのか、何の内容なのか、全部「分からないまま」です。
でも、この「分からないまま」には、なんだか不思議な温度がありました。 冷たい分からなさではなくて、夜中に毛布にくるまっているような、ゆるい分からなさです。
六百年前の誰かが、羊皮紙に何かを必死に書き残そうとした。 その理由も、中身も、今の僕には分からない。 でも、その人がそこにいたこと、その人が一生懸命ペンを走らせていたこと、その事実だけは確かに残っている。 本の内容は分からなくても、その人の「書きたかった」という温度だけは、なぜか伝わってくる気がするんです。
明日の朝、僕は普通に起きて、普通に会社に行きます。 AIの進歩も、暗号学の最前線の話も、半分くらいは忘れていると思います。 でも、ふとした瞬間に、「あの、誰にも読まれなかった本のことを、今も誰かが解読しようとしているんだよな」と思い出す夜が、きっとあるんでしょう。
そういう夜があってもいい。 いや、そういう夜こそが、ちょっとだけ人生を豊かにしてくれている気さえします。
分からないまま、今夜も僕は、六百年前の誰かが書いた読めない本のことを考えています。



コメント